153:回復への道のり
ゆっくりと瞼を開くと、すでに美香の見慣れた、繊細で鮮やかに描かれた天井の模様が、目に飛び込んでくる。窓際からは、レースのカーテン越しに淡い光が射し込み、窓越しに小鳥の囀りが聞こえて来た。
「お早う、ミカ。目が覚めたか?」
「…オズワルドさん」
声をした方に顔を向けると、ベッドの傍らに設えた椅子にオズワルドが座り、美香に穏やかな表情を向けていた。美香はオズワルドの姿を認めると、口を窄めて拗ねた声を出す。
「…昨日、来てくれなかった」
「すまない。フリッツ様との協議と、各大隊の解散手続きに時間がかかってしまった。少しだけ時間が取れたんだが、ちょうど君はその時、アデーレ様に磨かれていたからな」
「うぅぅ…」
オズワルドの弁解を聞いて、美香が羞恥で顔を赤くする。10日間に渡って野営が続き、体が汚れていた美香は、館に到着するや否やアデーレによって浴室へと連行され、女性達の手によって調理前の野菜の如く、隅々まで洗われていたのである。
赤くなった顔を背けた美香を見ながら、ゲルダがオズワルドに忠告する。
「オズワルド、ちゃんとミカを構ってあげないと、そのうち逃げられるよ。今やミカは、親衛隊ができるくらい大人気だからな。今なら、選り取り見取りだ」
「惜しむらくは、そのほとんどが女性ですけどね」
ゲルダの忠告を聞いた女性騎士が、花瓶に花を挿しながら、くすくすと笑う。女性騎士は、ベッド脇に花瓶を置きながら、美香に問いかけた。
「ミカ様、お食事は召し上がられますか?」
「あ、じゃあ、お願いできますか?」
「はい。少々お待ち下さい」
美香の応えに女性騎士はにっこりと笑みを浮かべると、カルラとともに朝食の準備を始める。女性騎士と入れ替わる形で、オズワルドが腰を上げ、美香の背中と膝裏に手を回した。
「お、オズワルドさん!?」
美香は素っ頓狂な声を上げるが、オズワルドは構わず美香を横抱きにして、自分の膝の上に座らせ、左手で美香の背中を支える。至近に迫るオズワルドと視線を合わせられず、美香は下を向いたまま、ぼそぼそと口にした。
「…オズワルドさん、また皆に睨まれますよ?」
「大丈夫だ、ミカ。今朝は、私の順番なのだそうだ」
「え?」
オズワルドの発言に美香は思わず顔を上げ、間近に迫るオズワルドの顔から逃れるように、慌ててレティシアへと顔を向ける。美香の視線に気づいたレティシアが、手元の紙を摘まみ上げた。
「あなたの介助希望者があまりにも多すぎるから、予約制にしたの。もう1週間先まで、予約で満杯よ。危うくオズワルドの入る余地がなくなるところだったんだけど、私が勝手に入れておいたから。感謝してよね、ミカ」
そう言ってレティシアが美香の前に広げた紙には、美香の一日3回の食事・3回のリハビリ・入浴の介助担当者の名前が、びっしりと表記されていた。特にリハビリと入浴は1回に3名の名前が連なり、所々にアデーレとデボラの名前も垣間見れる。
え、ちょっと待って。何この、公開羞恥。
「…これ、予約当日までに私の手足が治ったら、どうするの?」
「そのまま介助してもらえば、いいじゃない。予約取り消しとか言ったら、皆怒るわよ?」
「えええええええええええええ!?」
***
「至急、ヴェルツブルグに援軍を要請すべきです」
応接室の椅子に座るや否や、ニコラウスがフリッツに進言する。フリッツは腕を組んだまま、ニコラウスに目を向けた。
「やはり、お前もそう思うか」
「はい。二度続けて襲撃を受けた以上、三度目もあると見て対策を講ずるべきです」
翌日行われた会議には、フリッツの他に、マティアス、アデーレ、オズワルド、ゲルダ、ニコラウスの6人が、顔を突き合わせていた。ニコラウスが熱弁を振るう。
「前回は6,000、今回は8,000。いずれもミカ様が居なければ、当家単独では撃退もままなりません。しかも、恐らく全く別の部隊で敵の総力が見えず、三度目がないという保障もありません。そして三度目が来たら、またミカ様に頼らざるを得ないでしょう」
「彼女は今、寝たきりです。今年に入ってまだ4ヶ月も経っていないのに、彼女は二度も手足が麻痺し、ベッドの上に横たわったままなのです。ここにもし三度目が来たら、どうするのですか?動けない彼女を担ぎ上げて、無理矢理ハーデンブルグの前に立たせるのですか!?当家は、いつからそんな恥知らずになったのですか!」
「少し落ち着きなよ、ニコラウス。誰もそんな事、思っていないよ。頭に血が上り過ぎだ」
「あ…失礼しました、フリッツ様。大変申し訳ありません」
日頃温厚なはずのニコラウスが、興奮のあまりテーブルを叩きつける。見かねたゲルダが仲裁し、我に返ったニコラウスが非礼を詫びた。
「…」
謂れなき非難を受けたフリッツだが、しかし顔を真っ赤にして、自責の念に駆られている。フリッツだけではない。アデーレも、マティアスも、オズワルドも唇を噛み、自らの不甲斐なさを悔やんでいた。ニコラウスの非難は、ディークマイアー家が直面する事実を、あまりにも辛辣に表現していた。いくらディークマイアー家がそれを否定したとしても、このままでは、いずれ押し寄せる現実が、再び美香を生贄として要求するであろう。フリッツ達は、その未来に心を抉られ、かき乱されていた。
「…オズワルド」
「はい」
フリッツがテーブルを睨み付けながら、オズワルドの名を呼ぶ。
「今回の戦いで招集した予備役1,000を、そのまま軍に編入してくれ。更に1,000を募兵し、守備大隊3個を編制。ハヌマーンに備えろ」
「はっ」
「ニコラウス、ヴェルツブルグへの援軍要請の文書を、至急作成してくれ。数は8,000だ」
「畏まりました」
「マティアスは、アンスバッハ家への支援要請と、食料の備蓄を進めろ。籠城の準備を整えるんだ」
「承りました、父上」
一通り指示を終えたフリッツは、アデーレとゲルダへと向き、言いつける。
「アデーレ、ゲルダ。ミカ殿の回復に全力を注いでくれ。彼女に何一つ、不自由させるなよ」
「了解だ。任せてくれ、フリッツ様」
「元よりそのつもりですわ、あなた」
***
「ん…」
美香が再び目を覚ました時には、すでに日が傾き、窓の外の景色が刻一刻と橙色に移り変わろうとしていた。
入口の方で物音が聞こえ、美香が顔を向けると、ちょうどカルラと女性騎士が何か重い荷物を外に運び出そうとしているところだった。カルラ達はやがて部屋から出て行き、部屋の中は久しぶりに美香とレティシアの二人きりとなった。
「レティシア」
「あ、ミカ、起きたのね?よく眠れた?」
美香に背中を向けて水差しに水を注いでいたレティシアが、美香の声に気づいて後ろを向く。レティシアはベッドへと歩み寄るとサイドテーブルに水差しを置き、椅子に腰掛けながら、美香に問い掛けた。
「ミカ、お水、飲む?」
「うん、貰えるかな?」
「勿論。ちょっと待ってね」
美香の求めにレティシアは機嫌良く頷くと、グラスに水を注いでいく。そして、グラスを手に持ってベッドに腰掛けたところで、ふと辺りを見渡した。
「…」
「…レティシア?」
動きを止めたレティシアに、美香が声をかける。すると、レティシアは美香へにこりと微笑むと、おもむろにグラスの水を口に含み、美香に覆い被さって顔を寄せて来た。
「レ…んくっ…」
レティシアの意図に気づいた美香が慌てて制止の声を上げようとしたが、レティシアに口を塞がれ、二人はそのまま動きを止める。僅かに美香の喉が鳴った。
「…もう少し、いる?」
「…いらない」
やがて唇を離したレティシアが、美香に覆い被さったまま笑みを浮かべる。美香は、上から流れ落ちるレティシアの美しいブロンドの髪に囲まれたまま、顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「…トイレ、行きたい」
ブロンドのカーテン越しに外の景色を眺めながら、美香が小さく呟く。トイレの介助のお願いは、未だに顔から火が出そうになる。流石にこれだけは誰彼に頼むわけにもいかず、美香はレティシアとゲルダの二人に身を任せていた。美香の呟きを聞いたレティシアが、ベッドから身を起こしながら答えた。
「わかったわ。少し待ってね。ええと、次は…オズワルドの番ね」
「…え?」
慌てて美香が反対側を向くと、レティシアがテーブルの上に置かれた担当者名簿を眺めている。そのレティシアに、美香は恐る恐る問いかけた。
「え、ちょっと待って、レティシア。トイレの担当、誰って言ったの?」
「え?オズワルドだけど…」
名簿から目を離し、顔を上げたレティシアが、美香の方を向いて首を傾げる。慌てて美香は、レティシアに抗議した。
「え、ちょっと!何でゲルダさんじゃないの!?」
「ゲルダも四六時中此処に居るわけにはいかないわよ。彼女ばかりに頼るのも悪いじゃない?」
「だからって、何でオズワルドさんなの!?カルラさんとか、他に人がいるじゃない!」
「だって、あなたが言い出した事じゃない。『つきっきりで看病の刑』だって。彼、あなたに少しでも力になろうと、一生懸命頑張っているのよ?あなた、すでにオズワルドに介助された経験があるでしょう?」
いや、だからって、トイレの介助を男の人に頼んじゃ駄目だから!
鼓動が早まり、顔を真っ赤にした美香の耳に扉をノックする音が聞こえ、美香の心臓が跳ね上がる。レティシアが入口に顔を向け、声をかけた。
「あ、ちょうど来たみたいね。オズワルド?入って良いわよ」
レティシアの言葉に美香は仰天し、涙目で叫んだ。
「ちょっと待って!オズワルドさん、今入ってきちゃ駄目ぇぇぇ!」
「何、大声を上げているんだい、ミカ?廊下まで筒抜けだよ?」
「あ…」
扉を開けて中に入ってきた人物の、ストライプの髪と丸みを帯びた特徴的な耳を認め、美香は呆然とする。脱力して枕に頭を沈めた美香の前で、レティシアがその人物に声をかけた。
「ちょうど良かった、ゲルダ。ミカがトイレに行きたいんだって」
「ああ、そうか。わかった」
ゲルダに協力を依頼したレティシアは、美香へと振り返って笑みを浮かべる。
「どう?ミカ、びっくりした?」
「…レティシア…」
レティシアの悪戯だと知った美香は、枕に頭を埋めたまま、顔を真っ赤にしてわなわなと震えだす。そして勢いよく枕から頭を上げると、目を見開いて大声を上げた。
「どうしよう!?今、すっごい興奮しちゃってるんだけど!?」
「よしっ!ミッション・コンプリート」