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失われた右腕と希望の先に  作者: 瑪瑙 鼎
第8章 引き裂かれた翼
141/299

139:蠢動

 刻一刻と空の赤みが増す中で、多くの人々が黙々と作業を行っていた。


 彼らは傷を負った兵を後方へと送り、また、そこかしこに斃れる、敵味方の遺体を埋葬するための穴掘りに従事していた。敵味方を合わせると、死者16,000、重軽傷者17,000にも及ぶ兵が辺り一面に斃れ、蹲っており、クリストフ軍は近隣の町民を掻き集め動員して、作業を行わなければならなかった。


 実際、戦場に残ったクリストフ軍及び西部軍が行うべき作業は、あまりにも多かった。彼らは勝者であったろうが、自らも多数の死傷者を出し、即時の追撃を行う余裕もない。そして、辺り一面に散らばる遺体をそのまま捨て置けば、西部一帯で疫病が発生する事が明らかである以上、クリストフは為政者の立場として、このままにしておくわけにも行かなかった。そして、心労の積み上がったクリストフに、更なる追い打ちがかかる。


「…カラディナの残兵が、オストラの街を?」

「はい」


 伝令からの報告を聞き、クリストフの端正な唇が歪む。ダニエル軍の残兵が逃亡の合間に、オストラの街で略奪を働き、火を放ったのである。クリストフはグレゴールの方を向き、決然とした態度で命令する。


「グレゴール、至急騎兵3,000を向かわせなさい!彼らの横暴を赦すわけには参りません!」

「はっ!」


 グレゴールは一礼し、配下の者に次々に指令を発する。その声を聞きながら、クリストフは内心で焦燥を募らせ、唇を噛む。


 何という事。一刻も早く兄上を捕捉しなければならないというのに。


 乱戦から立ち直ったクリストフ軍は、自軍を再編しながら、西方に逃走したリヒャルト軍の捜索にかかっていたが、未だその所在を掴めていなかった。オストラより西方にはエーデルシュタインの大きな街はなく、そのまま小国家群へと通じている。エーデルシュタイン国内に割拠される恐れは今のところないが、クリストフはこれまでに何度もリヒャルトに煮え湯を飲まされている。14,000という兵力は一小国で対処できる規模ではなく、リヒャルトの武力の前に小国家群が譲歩する可能性があった。小国家群内に立て籠もられても困るし、遥かセント=ヌーヴェルまで逃走されては敵わない。


 クリストフは顔を上げ、憎しみを込めて日の沈む西方へと目を向けていた。




 ***


「あぁ…」


 オストラの東の外れで小さな宿屋を営んでいたヨセフは、膝をつき、呆然とした表情で眼下に広がる惨状を眺めていた。


 彼が先祖代々宿屋業を営んできた、オストラの街。小さいながらも馬車や人が行き交い、賑わいを見せていたオストラの街が、今やもうもうと煙が立ち込め、火の海に包まれていた。高台から見下ろすヨセフの目の先には、多くの人々が逃げ惑い、その背中に兵士達が剣を振り下ろしている。南東から端を発した火の手は次々に周りの家々に燃え移り、オストラの街全体へと広がっていく。


「終わりだ…オストラは、もう終わりだ…」

「あんた…!」

「お父!」


 自分の家が炎の中に崩れ落ちるのを見たヨセフは力なく呟き、彼の妻と2人の娘達は、彼に縋りつく。その日の朝、数万にも及ぶ多くの兵士の行軍を目にしたヨセフは、得も言われぬ不安に駆られ、店じまいをして妻と娘を連れて高台へと逃れていた。その結果、彼の一家は奇跡的に一命を取り留めたが、彼の親類や知り合いは未だあの阿鼻叫喚の中に居て、杳として知れない。そして彼は一切の生活基盤を失い、路頭に立たされている。


「ロザリア様…、オストラは、私達一家は、これからどうしたら良いのですか…?」


 真っ赤に燃えさかる故郷を前に、ヨセフとその家族は、決して得られる事ない答えを求めて、ただ質問を繰り返していた。




 ***


 翌日。


 徴発した住民に後始末を託したクリストフは、死者重傷者及びオストラ救援に向かった騎兵3,000を除いた25,000を率い、西方へと進発する。西部軍は此処で袂を分かち、ラディナ湖西岸の防衛へと戻る。とはいえ、軽傷者を含めても兵力は半減しており、これまでの防衛体制は維持できない。そのため、応急として、オストラの救援に向かった騎兵3,000を、当分の間ラディナ湖西部の防衛に向かわせる事となった。


 西方へと向かったリヒャルト軍は未だ捕捉できておらず、クリストフらが西方へと向かったのは大きな賭けであったが、3日目に入ってようやく彼らは正解への道筋に辿り着く。


「そうか、食料が尽きたか…」


 小国家群へ通ずる道の途中で捕らえたハンターの供述により、リヒャルト軍の食料事情の悪化が判明していた。


 オストラの戦いにおいて、リヒャルト軍はダニエル軍に一切の輜重を任せ、決戦に臨んだ。そして、前後からの挟撃により離散したリヒャルト軍は、ダニエル軍の許に残した食料を回収する事ができないまま、撤退せざるを得なかったのである。頷くクリストフに対し、グレゴールがハンターから得た情報を元に報告を続ける。


「撤退した時点でリヒャルト軍が保有していた食糧は、3日にも満たなかったようです。飲料水については、水の魔術師が不十分ながら健在なのと、途中の川での給水によって賄っている模様ですが、すでにハンターを中心に離脱者が出ているとの供述です」

「此処が勝負どころですね」


 グレゴールの報告を聞いたクリストフは、力を籠め、断言する。


「何としてでも国境を越える前に彼らに追いつき、撃破する必要があります。餓えているとは言え、あの兵力を保ったままでは、小国家群が兄上の要求を全面拒否する事は、難しいでしょう」




 クリストフの指示の下、軍は西進を再開したが、結局国境を越える前にリヒャルト軍を捕捉する事はできなかった。リヒャルト軍から離脱したハンターや兵士は時を追う事に増え、クリストフ軍が捕らえた数だけでも1,000人を超える。クリストフ軍は、皮肉にもその離脱者の存在によって進軍が鈍る。そして更には、


「兄上め…」


 目の前に横たわる川を眺めながら、クリストフは憎しみの声を吐き出す。川にかかっていた橋は焼け落ち、クリストフが全軍を渡河させるために2日を要する事になった。




 ***


 オストラの戦いから7日目に、クリストフ軍はようやく国境へと辿り着いた。クリストフは直ちに国境沿いの街に使者を送り、リヒャルト軍捕捉のための進軍の許可を求めた。


「貴国へ侵入したリヒャルト率いる残兵を掃討するために、我が軍の通行の許可をいただきます。中原の平穏と安寧のために、逆賊リヒャルトを捕らえなければならないのです。勿論、貴国の街や民には一切手出しせず、害を齎さない事を、王太子クリストフの名をもって約束しましょう」

「…わかりました。我が国に一切の害を齎さぬ事をお約束いただけるのであれば、通行の許可を出しましょう」

「そのご英断、感謝いたします」


 その街の太守は意外にもクリストフの要求を呑み、国内の通過を了承した。この様子ではリヒャルト軍の侵入にも屈しているのですから、我が軍の要求を拒否するわけには、いかないのでしょう。クリストフは、そう推測する。


 クリストフは太守に礼を述べると、続けて最も欲しい情報を求めた。


「それで、逆賊リヒャルトはどの方向に向かったのか、教えていただけますか?」


 クリストフの求めに、太守は重い口を開く。


「…リヒャルト軍は転進して、北方へと向かいました」

「北方、ですか?」

「はい」

「まさか…」


 太守の発言に、クリストフは愕然とした。セント=ヌーヴェルへと向かうのであれば、この街から西へ向かうはずなのだ。それが北へ向かったとなると、答えは一つしかない。クリストフの内心の焦燥に、太守の言葉が油を注いだ。


「カラディナ共和国から我が国に対し、リヒャルト軍のみ入国を認めるとの通達が来ております」




 ***


 クリストフ軍に先行する事、3日。リヒャルト軍は、国境沿いの街に辿り着いていた。


 この頃になると、リヒャルト軍からの離脱する者が続出していた。食料が枯渇した事により、まずハンター達がリヒャルトを見限る。彼らは、自分の才覚を頼りに生存に向けて別の道を歩み始める。彼らは少数の徒党を組み、闇夜に紛れて軍から離脱すると、そのまま盗賊まがいの行動を取り、周辺の村落から食料を撒き上げていった。


 続けて、食料が枯渇した事により体力の衰えた負傷兵が落伍し、次第に健常でも体力の低い者から脱落していく。リヒャルトは周辺の村落で食料を徴発したが、この地域には大きな街がなく、10,000を越える将兵を養うだけの十分な食料を確保する事ができない。そのため、リヒャルト軍は恒常的な出血が続き、隣国の街に辿り着いた頃には、その兵力を10,000まで減らしていた。


 さしものリヒャルトも将来に悲観し、この街での交渉が不首尾に終わった時には自死を覚悟していたが、太守から予想外の申し出を受けた。


「食料を、無償で拠出いただけるというのか!?」

「はい」


 望外の喜びにリヒャルトは満面の笑みを浮かべるが、バルトルトがそれを制し、太守に問う。


「そのお心遣い、我が軍にとっては何よりも喜ぶべき事。太守殿のご高配には、このバルトルト、感謝の念に堪えませぬ。ただ、よろしければ、何故そこまで我が軍に心を砕いていただけるのか、理由を教えていただけませんか?」

「いえ、私ではないのですよ」

「え?」


 バルトルトの問い掛けに、太守は首を横に振る。


「カラディナ共和国より貴軍に対し、『六柱』がこの街に保有する食糧庫から3日分の食料を贈呈するよう、指示が来ております」




 呆然とするリヒャルト達の前に、一人の矮躯な男が進み出て、深く一礼した。


「お初にお目にかかります、リヒャルト殿下。私の名は、セドリック・ジャン。カラディナ政府より派遣された、この国の駐在大使でございます。以後、お見知りおきを」

「あ、ああ…」


 セドリックの言葉にリヒャルトは考えが追い付かず、曖昧に答える。セドリックは薄く笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「此度の西誅における皆様のご活躍に対し、我が国は非常に感銘を受けております。ガリエルに唆されたセント=ヌーヴェルの策謀により我が国は窮地に立たされましたが、殿下並びに教会の英断により西誅軍の派遣をいただき、中原の西方は再び安寧を取り戻す事ができました。この場をお借りして、カラディナ政府を代表し、厚く御礼申し上げます」

「しかしながら、殿下をはじめ皆様のご活躍に対する、殿下の留守を預かるエーデルシュタイン本国のこの仕打ち、いくら他国の内情とは言えあんまりであると、我が国では嘆きの声が多数出ておりました」

「そんな中、この様な不幸にあわれた殿下を此処にお迎えし、我が国は座視するわけにはいかぬと義憤に駆られており、此度の食料の贈呈を決定した次第でございます。お口に合うかわかりませぬが、是非ともお納め下さい」

「あ、ああ、かたじけない…」

「殿下…」


 セドリックはそう口上すると、再び一礼する。それに対し、リヒャルトは未だ呆然としたまま、場に流されるままに頷いた。そんなリヒャルトにバルトルトは気遣わしげな声をかけ、セドリックに厳しい視線を向ける。だがセドリックは、バルトルトの視線を気にする事もなく、再び口を開いた。


「それと、我がカラディナ政府は、リヒャルト殿下並びに配下の皆様の受け入れを決定いたしました。その決定を受け、この街の北の国境を越えた所にある、我が国の食糧庫につきましても、殿下への寄進の準備を進めております。エーデルシュタインとの国境近くとはなってしまいますが、貴軍の駐屯地もご用意させていただきますので、どうか我が国で傷を癒し、心身をお労り下さい」

「…」


 セドリックの発言に、リヒャルトは勿論、ギュンターやバルトルトも黙り込んだ。カラディナの真意は、明白である。カラディナは、リヒャルトと言う外交カードを使って、エーデルシュタインを弱体化させようとしていた。


 実際カラディナにとって、このリヒャルトと言うカードは、非常に有効だった。現エーデルシュタイン国王ヘンリック2世の長子で、現王太子クリストフよりも血の優位性がある。これは、カラディナがエーデルシュタインに侵攻する際の大義名分になる。また、大草原で大敗を被ったとはいえ、最終的にはセント=ヌーヴェル及びエルフとの和議に漕ぎつけており、西誅が失敗したとは言い切れない。そのため、カラディナがリヒャルトの擁護を表明するだけの材料も揃っていた。


 更に、麾下の10,000という兵力は、国防に必要な兵数さえも割り込んだエーデルシュタインにとって、喉から手が出るほど欲しい兵力であり、本来であればすぐにでも帰任させ国防の補強に回したい。それをカラディナ国内に留め置く事で、エーデルシュタインを疲弊させるどころか、この10,000への備えをエーデルシュタインに強いる事ができる。転じて、国境沿いに駐屯させる事で、同じく予備兵力のなくなったカラディナの国防にも役立てる事ができるのだ。


 そして、此処まで読めていながら、リヒャルト達には断る事ができない。彼らは敗残の兵であり、すでに食料も枯渇している。セント=ヌーヴェルへ戻るための食料も確保できず、本拠地もなく、路頭に迷っていた。このままでは兵達の離散が続き、リヒャルトの起死回生の道が完全に閉ざされる。兵はともかく、リヒャルト達首脳部が今エーデルシュタインへ投降しても、断頭台への道しかない以上、セドリックの申し出を断る事はできなかった。


「…わかった。カラディナ政府のお申し出を受けよう」

「我が国の厚意をご理解いただき、誠にありがとうございます」


 暫く沈黙が続いた後、リヒャルトが力なく頷き、セドリックが深々と頭を下げる。


「それでは、まずは食料を供給させていただきますので、お受け取りの支度をお願いします。それと、私めはカラディナ政府より、本国への帰任と殿下の道案内を仰せつかっておりますので、今後僭越ながら、殿下に同行させていただきます。予めご了承下さい」

「…わかった」

「ありがとうございます」


 こうしてリヒャルト軍は当座の食料を確保して飢えを凌ぐと、セドリックの誘導の下、カラディナへと向かう。


 中原の混沌は、始まったばかりだった。

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