129:懊悩
王城の一角にしつらえた池の中を、数羽の水鳥が悠々と泳いでいた。
水鳥は風切羽を切られており、決してこの池から飛び立つ事は叶わなかったが、それを除けば王城の者達に十分な餌を与えられ、自由に泳ぎ回っていた。池の周りには枝ぶりの良い樹々が立ち並び、陽の光を浴びて地面に鮮やかな陰影を映し出す。盛土による適度な起伏が、その中庭を見た目以上に広く感じさせ、人の手が一切入っていない自然な情景を浮かび上がらせていた。
その中庭に面した両開きの扉が開け放たれ、一人の男が寝台に身を横たえたまま、池を自由に泳ぎ回る水鳥を羨望の眼差しで見つめていた。男は未だ還暦さえも迎えていなかったが、その姿は古希をとうに過ぎているかの如く老いさばらえ、しかも日に日にやつれていく一方だった。
部屋の反対側の扉が開き、近侍が来訪者を告げた。
「陛下。コルネリウス・フォン・レンバッハが、拝謁を求めております」
「…通せ」
男は水鳥を眺めたまま、弱々しい声で応える。近侍は男の後頭部に一礼すると一旦退室し、やがて壮年の男を連れ、戻ってきた。近侍は壮年の男を寝台の手前まで誘導すると、二人に一礼し、部屋を出て行く。壮年の男は、近侍の背中が扉の向こう側へと消えたのを確認すると、横臥する男へと振り向き、静かに声をかけた。
「陛下、お加減はいかがですか」
「…益々いかんよ、コルネリウス。寝返りを打つ事さえも、ままならなくなった」
「そうおっしゃらずに。先日お伺いした時よりも、顔色が良うございますよ」
ゆっくりと顔を向けたヘンリック2世に対し、コルネリウスは、努めて穏やかな笑顔で語り掛けた。
ロザリアの第2月に王城へ届けられた、1通の手紙。ヘンリックはその手紙が齎した凶報に衝撃を受けて卒倒し、それから3ヶ月が経過した今では、寝台から起き上がる事さえ覚束なくなっていた。彼は今では全ての政務をクリストフに託し、ただ病み衰えた体を横たえたまま、一日一日を過ごすようになっていた。
彼は、言葉を発する事にも疲労を覚えながら、コルネリウスに問い掛ける。
「…コルネリウス、その後、大草原からの報は、まだか?」
「はい。未だ来ておりません」
「そうか…」
コルネリウスの答えに、ヘンリックは大きく息をつく。それは落胆によるものか、その一言だけで疲労を覚えたものか、コルネリウスには判断がつかなかった。ヘンリックは暫くの間目を閉じていたが、やがて再び目を開き、弱々しい眼でコルネリウスを見据える。
「…クリストフは、上手くやっているか?」
「はい。殿下はこの国難にも果敢に立ち向かい、精力的に政務をこなしております。ご安心めされ。陛下は、今は御身だけをお考えになり、一日も早くご快復なされますよう。それだけが、臣下一同、たっての願いでございます」
「…そうか」
コルネリウスの答えに、ヘンリックは静かに頷く。すると、ヘンリックは少し逡巡した後、より小さな声で、呟くようにコルネリウスに尋ねた。
「のぅ…コルネリウス…」
「はい、陛下」
「…儂は、どうすればいいのだろうな…」
「陛下…」
ヘンリックの呟きを聞き、コルネリウスは二の句が告げられなくなる。コルネリウスはヘンリックの言葉の意味を正確に理解していたが、同時に、豪胆なコルネリウスでさえ、その答えを口に出す勇気を未だ持てないでいた。
今は、ロザリアの第5月。すでにリヒャルト達が抑留されてから半年が経過したが、未だにエルフから、リヒャルト解放の連絡は来ていなかった。そして、西誅軍も未だ帰還に関する動静は入っておらず、セント=ヌーヴェルに留まったままではないかと、推測される。
一方、ヴェルツブルグではクリストフがヘンリックに代わって政務を執り、目立たないながらも堅実な成果を挙げていた。そして、それと同時並行で宮中の工作を進めており、クリストフの立場は日に日に盤石となっていた。
結論から言えば、明らかだ。リヒャルトを王太子の座から下ろし、新たにクリストフを王太子に立てる。更に踏み込めば、政務の執れなくなったヘンリックが譲位し、クリストフが即位する。ヘンリックが健在なうちに正統な王位を定める事で国論を一本化し、分裂を防ぐ。国益を考えればそれ以外に選択肢はなく、またリヒャルトの抑留とクリストフの執政が長期化するにつれ、既成事実にもなりつつあった。
しかし、それでもヘンリックは、最終的な決断を下せないでいた。彼は元々凡庸な男で体も弱く、決断力も乏しかった。彼が即位できたのは、彼の兄弟が皆早世しライバルがいなかった事と、目立った活躍をしなかった代わりに失点も作らなかった結果である。そして彼が即位した後は、己の心身の弱さを弁え、重臣達の調整に腐心し波風を立てなかった事が功を奏し、彼は重臣達から、体の良い、担ぎ易い神輿として認められ、概ね安定した治世を敷く事ができた。治世の後半になると成人した二人の息子が傑出した才能をもって彼の政務を支え、彼は息子達の手を借りて、近年にない穏やかな時代を築く事ができたのである。
だが、彼の人生の最後の最後で波乱が起きた。彼の治世を支えてきた、息子と言う両輪。その片方が脱輪し、彼の手の届かない所に行ってしまった。しかもその車輪は未だ倒れる事なく、西誅軍というエンジンを積んだまま、行方知れずとなっている。
そして残された車輪は、脱輪したのにも関わらず、車を停めようともせずにエンジンをふかし続け、ヘンリックと言う運転手に対し、一輪車に改造するよう要求していた。
ヘンリックにもわかっていた。運転席から見る限り、一輪車に改造せざるを得ない事を。脱輪した車輪はパンクしており、帰ってきたとしても元の両輪には戻らない事を。わかっていた。しかし、それでも彼は、改造に踏み切れなかった。
――― 改造した後に、脱輪した車輪が横合いから飛び出してきたら、どうすればいいのだ?
***
ヘンリックを見舞ったコルネリウスは、そのまま自分の執務室に向かって歩を進めていた。
コルネリウスは自分を生粋の武人であると任じており、また武人に甘んじていたいと考えていた。彼は、政治の事には極力関わらず、ガリエルやハヌマーンからこの国を守る事だけに心血を注ぎたかった。だが、そんな彼にも、この国に忍び寄る危険が、ひしひしと感じられるようになっていた。
執務室に戻ったコルネリウスは椅子に座って一息ついていたが、その息さえも納まらぬうちに、一人の武官がコルネリウスの下を訪れる。
「閣下。ハーデンブルグより至急報が来ております」
「見せろ」
武官から書面を受け取ったコルネリウスは、素早く目を走らせる。その表情は最後まで険しさを湛えたまま、やがて顔を上げたコルネリウスは、武官へと命じた。
「殿下に、先触れを頼む。至急お耳に入れたい事があると、な」
「はっ、畏まりました」
***
「殿下、コルネリウス様がお見えになられました」
「隣室にお通しして下さい」
「畏まりました」
近侍からの報告を受けたクリストフは、執務席でペンを走らせながら答える。その姿は洗練されて些かの淀みもなく、秀麗な顔立ちと合わさって、まるで絵画の如く、さまになっていた。
やがて一通り決裁の終わったクリストフは席を立ち、近侍の先導の下、隣室へと移動した。
「お待たせしました、コルネリウス」
「いえ、お時間をいただき、誠にありがとうございます」
席を立ち一礼するコルネリウスに対し、クリストフが手を挙げて座るよう促し、自身も席へと腰を下ろす。
「それで、至急、耳に入れたい事とは?」
クリストフの問いに、コルネリスが頷いた。
「はい。ハーデンブルグを守るフリッツより、援軍の要請が来ております」
「…確か、3ヶ月程前にも同じ要請が来ていませんでしたか?」
コルネリウスの険しい表情を見ても、クリストフの表情は変わらない。腕を肘掛けについたまま、こめかみに指を添え、静かにコルネリウスを見つめている。コルネリウスが頷き、言葉を続けた。
「はい。しかし、前回は兵が整わず、送っておりません」
コルネリウスの報告を受け、クリストフは姿勢を変え、両手を組む。
「…数は?」
「8,000求めています」
コルネリウスの回答を聞き、クリストフは秀麗な眉を顰めた。
「多すぎます。せいぜい2,000です」
「殿下!」
「落ち着きなさい、コルネリウス」
思わず立ち上がってしまったコルネリウスをクリストフは諫め、席に着くように促す。椅子に座り直すも気迫を抑えきれていないコルネリウスに対し、クリストフが諭すように話しかけた。
「今年に入ってから、ハヌマーンの動きが活発になっている事は、私も知っています。すでに二度、大軍が押し寄せているのもね。だが、いずれもハーデンブルグに到達する前に、撃退したと聞いています」
「…御使い様のお陰です」
「ええ」
コルネリウスの鋭い眼光を受けてもクリストフは動じず、優雅に言葉を紡いだ。
「僅か1,000余りの兵で、4倍ものハヌマーンを相手にしてね。彼女一人いれば、十分ではないですか」
「我々は!ミカ殿を、御使い様を、酷使し過ぎです!」
再び立ち上がり目を剥くコルネリウスを、クリストフは今度は諫めず、黙ったまま見据えている。コルネリウスが握り拳を戦慄かせながら、口を開いた。
「…ここ3ヶ月の間に、南方の守備から兵を間引き、召還した10,000。それと首都防衛の5,000。合計15,000が、ヴェルツブルグ近郊に居ます。そこから8,000を割けば、よろしい」
「なりません、コルネリウス」
「…」
噴火直前の活火山の様に黙り込むコルネリウスを前に、クリストフは怯むことなく、言葉を続ける。
「我々は、西誅軍40,000のうち半数を失い、残りの半数も未だ戻っていません。今、我が国は全くと言って良いほど、兵の余裕がないのです。魔物はハーデンブルグ以外の地域でも活発で、ラディナ湖の西、オストラの北でも怪しい動きがあるとの報告が来ています。我が国の西には御使い殿はおらず、突破されるとカラディナとの物流が途絶え、我が国は孤立します。15,000は、西に備えなければならないのです」
「…」
クリストフの言葉は事実であり、コルネリウスも報告を受けていた。だがコルネリウスは、言葉の裏に隠された事実にも気づいていた。未だ動向の知れない西誅軍。万が一リヒャルトが西誅軍を率いて攻めてきた時に備え、クリストフは王国の西を厚くしておく必要があるのだ。ハーデンブルグに兵を送ってしまうと、対リヒャルトに転用できなくなる。
ミカ殿…フリッツ殿…。
コルネリウスは歯が欠けるほど強く食いしばり、自分の不甲斐なさを呪うとともに、ハーデンブルグの行く末を憂える。
エーデルシュタインを取り巻く環境は、見えない形で、静かに悪い方向へと進んでいた。