112:乙女心(1)
柊也達は、八氏族の森で最も北西にあるイレオンの森から、2週間後に出発すると決まった。数日間合議場に留まり、遅れて到着するラトン及びセルピェンに説明した後、イレオンの森へと向かう。イレオン族の族長は、柊也達を迎え入れる準備のため、イレオンの森へ早馬を出した。
「セレーネ」
一旦話し合いが終わり、各々が席を立つ中、セレーネはグラシアノに呼ばれ、合議場を後にする。二人はサーリアの社へと向かうと裏手に回り、やがてグラシアノが頃良い下草を見つけると、セレーネに座るよう促し、自分も胡坐をかいて座った。
「どうしたの?お父さん」
「…」
セレーネがグラシアノに問いかけるも、グラシアノは口に手を当て、視線を外したまま黙り込んでいる。この時グラシアノは内心、族長と父親の狭間で揺れ動いていたのだが、そんなグラシアノの表情をこれまで見た事がなかったセレーネは、怪訝に思いながらも辛抱強くグラシアノが口を開くのを待った。
やがてグラシアノは、自身の心にケリをつけるべく大きく息を吐いた後、セレーネを見て尋ねた。
「…セレーネ。お前、トウヤ様の事をどう思っている?」
「…え、トウヤさんを?」
グラシアノの質問の意図がわからず、セレーネは目を瞬かせる。グラシアノにじっと見つめられ、セレーネは居心地の悪さを感じながら、口を開いた。
「えっと、お父さん、それはどういう意味?」
「お前、トウヤ様の事が好きか?」
「…え!?」
突然のグラシアノの質問に一瞬固まったセレーネは、答えから逃げる様に質問を被せた。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ、お父さん!何でそんな質問をするの!?」
狼狽に近いセレーネの反応を前に、グラシアノは肚を決め、セレーネに説明する。
「セレーネ。トウヤ様は、サーリア様を目覚めさせる事ができる唯一の御方だ。いや、さらに言えば、トウヤ様はサーリア様さえも統べる御方だ。我々エルフは、これからトウヤ様を奉戴し、盛り立てて行かねばならぬ」
「しかしながら、トウヤ様の御血筋は、あの方お一人。あの方が身罷られた時、サーリア様と我々エルフは、二度と目覚める事のない闇を迎えてしまうのだ。それだけは、何としても避けねばならない」
そう言うと、グラシアノはセレーネに顔を寄せて、一気に踏み込んだ。
「セレーネ、トウヤ様の寵愛を賜り、トウヤ様の御子を授かれ。これは、サーリア様の許へ向かう旅に匹敵する、最重要事項だ」
「…えええええええええええ!?」
グラシアノの言葉が理解できたセレーネは、瞬く間に顔を真っ赤にする。頬に両手を当て、下を向いたセレーネにグラシアノの言葉が続いた。
「セレーネ、お前はエルフの中で最もトウヤ様と親しい。私が見る限り、トウヤ様もお前を憎からず思っているはずだ。お前が望めば、きっとトウヤ様は受け入れてくれる。お前がトウヤ様と結ばれ、懐妊すれば、トウヤ様の御血筋は保たれる。さすれば、サーリア様と我々エルフは、トウヤ様の御子を盛り立て、光の中で生きていく事ができるのだ」
「…で、でも、お父さん…」
心の整理がつかず、顔を真っ赤にしたままのセレーネに、グラシアノの言葉が響く。
「迷っている暇はないぞ、セレーネ。私の見立てでは、トウヤ様の寿命は人族と同じくらい短い。我々と同じペースで考えていたら、すぐに身罷られるぞ。もし此度の旅でトウヤ様とお前との間に進展がなければ、戻り次第別の娘をあてがわねばなるまい。各氏族から選りすぐりの娘を集め、トウヤ様に選んでいただく事になるだろう」
ティグリからであれば、お前の幼馴染の、アンナやララ辺りだろうな。混乱するセレーネの耳に、グラシアノの呟きが聞こえる。
「お、お父さん!?」
慌てて顔を上げたセレーネを余所に、グラシアノは立ち上がり、セレーネを見下ろす。
「旅の間は、お前に任す。その間にお前は、トウヤ様とどう在りたいのか結論を出し、行動に移せ。私はそれまでに、トウヤ様が戻られた後の事を、他の族長達と決めておこう」
そう締めくくると、グラシアノは背を向け、セレーネを残して合議場へと戻って行った。
社の裏に独り残されたセレーネは、下草に腰を下ろしたまま、俯いていた。彼女は顔を真っ赤にしたまま、胸に手を当て、目の前の草のそよぎを眺めている。
私が、トウヤさんと…。
動悸が止まらず、手で押さえつけても、心臓が飛び出してしまいそう。顔の赤みはいつまでも引かず、熱を持っている事が自分でも嫌と言うほどわかる。
自分がトウヤさんと結ばれるという事。それはつまり、自分がシモンさんになるという事。セレーネはそう考え、北伐から続いた三人の旅を振り返る。
セレーネの目には、二人のシモンが映っていた。一人は、冷静沈着で勇猛果敢、一寸の隙も見当たらない、完璧とも言えるシモン。しかし、セレーネにとってこちらのシモンは、本当の姿ではなかった。
本当のシモンは、もう一人の方。寂しがりやで甘えん坊で、父親に構ってほしくて、喜怒哀楽を臆面もなく曝け出す、子供の様なシモン。柊也に見て欲しくて、触れていたくて、そして柊也から全てを求められたいと、もどかし気に願うシモン。不完全でアンバランスで、感情が不安定に揺れ動き、しかしその感情の揺らぎに自分から身を委ねるシモン。
私がトウヤさんと結ばれるという事は、私も本当のシモンさんの様になるという事。そして…、
――― 私も毎晩、トウヤさんとあの儀式を執り行うという事。
「…っ!」
心臓が勢いよく飛び跳ね、セレーネは慌てて両腕で胸を抱え込む。しかし、彼女の心臓に巣食う魚は腕の中で暴れまわり、尾ひれを彼女の心壁に激しく打ち付ける。
必死に魚を抑え込もうとするセレーネの頭の中に浮かび上がる、あの情景。彼女が誘惑に負け、時折垣間見た、テントの中の情景。彼女の目の前で目を閉じて四つん這いのまま、無防備に広げた舌を柊也に掴まれているシモン。やがてその姿が形を変え、目を閉じて四つん這いのまま、柊也に舌を掴まれている自分へと変化する。
「!」
ばくばくと脈打つ心臓を力いっぱい抑え込もうと、前のめりになり、セレーネは地面に生える草を一心不乱に眺める。お願い!静まって!これ以上続いたら、どうにかなりそう!
「…レーネ、セレーネ?あなた、大丈夫?」
「…あ」
どれくらい経ったのだろうか。ふとセレーネが我に返ると、彼女は誰かに背中を擦られていた。自分の背中を優しく行き来する感触に既視感を覚えながら、セレーネは頭を上げる。
「どうしたの、セレーネ?気分でも悪いの?」
「…お母さん…」
セレーネの目に、ナディアの気遣わしげな顔が映し出されていた。セレーネの目の前で、ナディアの花弁の様な唇が開く。
「サーリア様の許への旅で、何か心配事でもあるの?」
「ううん、そうじゃないの」
「それとも、トウヤ様の事で、お父さんから何か言われたの?」
「…うん」
「…そう…」
ナディアの質問に答えたセレーネは、両膝を抱えて膝の上に顎を乗せる。それを見たナディアは腰を下ろし、横座りしてセレーネと並んだ。
「…嫌なの?」
「そうじゃない。そうじゃないんだけど…」
ナディアの問いかけにセレーネは首を振り、そのまま目の前の草を眺め、黙り込む。二人の間を、一陣の風が吹き抜ける。その風を追いかけるように、ナディアの声が聞こえてきた。
「…無理しなくていいのよ?」
「…え?」
思わず顔を上げたセレーネの前で、ナディアが優しく微笑んでいた。その、誰もが魅了される美しい笑顔のまま、蠱惑的な唇が言葉を紡ぎ出す。
「あなたの人生だもの。あなたが望まないのであれば、無理しなくていいの。大丈夫よ、あなたが行きたくないのであれば、代わりにお母さんがトウヤ様と一緒に行ってあげる」
「え…?」
呆然としたセレーネの目の前で、ナディアが艶やかな笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「大丈夫。これでもお母さん、あなたほどではないにしても、弓も馬も得意なのよ?あなたの務めはしっかりと果たす事ができるわ。それに、あの方はこの世界に召喚され、独りぼっちで寂しい思いをされていらっしゃる。私なら、女としても母としても、あの方の全てを受け止める事ができる。ましてや、あなたを産んだくらいですもの。あの方の御子を何人でも産んで差し上げられるわ」
「…え、ちょっと、お母さん?」
恐る恐る声をかけるセレーネの声は届かず、ナディアは前を向いて一人で頷く。
「…うん、そうよね。その方が良いわね。幸い、あの方も私にひとかたならぬ想いを抱かれているご様子だし、私がお願いすれば、きっとお聞きいただけるに違いないもの…」
「ちょっと!お母さん!?お父さんは、どうするの!?」
セレーネは慌ててナディアの腕を揺さぶり、ナディアを問い詰めた。しかし、セレーネの追求にもナディアは動じず、嬉しそうな顔で答える。
「大丈夫よ。何しろサーリア様とエルフの未来を左右する、最重要事項ですもの。お父さんは、ティグリ族の族長なのよ?きっとわかってくれて、快く私を送り出してくれるわ」
「お、お母さん!?」
狼狽するセレーネの手を振りほどき、ナディアが立ち上がった。その、日頃ナディアが見せた事のない、うきうきした笑顔を見たセレーネの頭の中に、あの情景が浮かび上がる。
――― 目を閉じて四つん這いのまま、無防備に広げた舌を柊也に掴まれている、ナディアの姿が。
「だ、駄目ぇぇぇぇぇ!お母さん、駄目ぇ!トウヤさんとは、私が…!」
弾かれたように立ち上がったセレーネは、腕を伸ばしてナディアに縋りつき、悲鳴を上げる。そして自分の口から飛び出そうとした次の言葉を、慌てて両手で抑え込んだ。
両手で口を塞いだまま、瞬く間に顔が真っ赤になるセレーネを見たナディアは、柔らかい笑みを浮かべた。
「…自分を抑えちゃ、駄目よ?」
「…」
「人族の命は、蜻蛉みたいに儚いんだから。躊躇していたら、あっという間に居なくなるわよ?」
「…お母さん…」
顔を真っ赤にしたまま口から手を下ろしたセレーネを見て、ナディアは微笑み、合議場へと歩き出す。セレーネは、そのナディアの手を掴まえると、恐る恐る問いかけた。
「…ねぇ、お母さん。…さっきの、冗談だよね?」
セレーネの心配そうな目を見たナディアは目を閉じ、呆れた様に溜息をつく。そして、再びセレーネの顔を見ると、窘めるような口調で答えた。
「…どうして、そう思うの?」
「…え、ちょっと、お母さん、冗談でしょ!?ねぇ、お願い!冗談だと言って!?」
そのまま合議場へと歩き出したナディアにセレーネは追い縋り、必死に引き留めようとしていた。
***
「…なぁ、ナディア。嘘だろ?嘘だと言ってくれ…」
「何で、あなたまで真に受けているのよ…」