107:動けない彼女のために
「…ん…」
ゆっくりと瞼を開けた美香の目に、橙色に染まった天井板の木目が飛び込んでくる。
「…あれ、ここは…?」
「あ、ミカ!大丈夫!?何処か痛いところとか、ない?」
「…レティシア」
美香の小さな呟きに気づいたレティシアが、心配そうな表情で、美香の視界の隅から覗き込んできた。レティシアの掌の暖かさを額で感じながら、美香はぼんやりと考える。
「…あれ、私、どうしたんだっけ…?」
「あなた、また無茶したのよ?街を襲ってきたアイスバードに対し、数千もの火球を撃ち上げて撃退したの。お願いだから、一人でそんな無茶しないで。あなたが目覚めなかったらどうしようと、毎回私泣かされているのよ?」
「…ああ、そっか。ごめんね、レティシア」
「もう…、ミカ…良かった」
レティシアは美香の額から手を離すと、目を潤ませながら伏せたままの美香に覆い被さり、抱きしめる。そのレティシアに身を任せたまま、美香はレティシアの後ろに立つオズワルドに声をかけた。
「…オズワルドさん、アイスバードは?」
「大丈夫だ。ミカのおかげで、そのほとんどを討ち取る事ができた。数羽ほど逃げられたが、四方に捜索の手が回っている。ライツハウゼンは、守られたよ」
「そうですか…良かった…」
オズワルドの報告を聞き、美香は安堵する。天空からの「アイスバレット」により、ライツハウゼンは穴だらけになっていたが、爆弾とは異なり爆発を伴わないため、被害はそれほど深刻ではなかった。美香の花火によっていくつかのボヤが起きていたが、いずれも早期に消し止められ、火災も発生せずに済んでいた。
一安心して目を閉じた美香に、顔を上げたレティシアが容態を尋ねる。
「それで、あなたはどうなの?また、手足が動かなくなっているの?」
「え?ああ、うん。また駄目だわ、いつもの事だけどね」
あっさりと肯定する美香に、レティシアは手に腰を当て、呆れ顔で諫める。
「もう!手足が動かない事に慣れないでよね。また、食事の介助から下の世話までやってあげるわよ。だから、あなたはせいぜい恥ずかしがらずに、何から何まで私に見せびらかしなさい」
「ちょ!レティシア、そんな生々しい事言わないでよ!」
「嫌なら早いとこ、自分でできるようになる事ね」
「オズワルドさんが聞いているんだから!ちょっと、オズワルドさん!余計な事考えるな!」
顔を真っ赤にして抗議する美香を、レティシアが突き放す。その後ろで、オズワルドの顔がみるみる赤くなっていた。
「…ミカ殿」
「え、ちょ!?あああああああああああ!ヴィルヘルム様とエミール様!?」
そのオズワルドの脇から、ヴィルヘルムとエミールが歩み寄って来た。先ほどの会話を聞かれた美香は茹蛸のように赤くなるが、体がいう事をきかず、布団に隠れる事もできない。
「…すみません、今の会話は聞かなかった事にして下さい」
「大丈夫ですよ、ミカ殿。ロザリア様に誓って、口外いたしません」
「いや、言わないじゃなくて、聞かない方で…」
細かい事に拘る美香に対しヴィルヘルムは穏やかに微笑むと、レティシアと代わって椅子に座り、美香の動かない手を両手で包む。
「ミカ殿、いや、御使い様。この度はライツハウゼンをお救いいただき、誠にありがとうございました。あなたがいらっしゃらなければ、この街はアイスバードによって壊滅的な被害を受けていた事でしょう。あなたのお力により、私はおろか、この街の住民全てが平穏を取り戻す事ができました。この御恩は、当家はもちろん、この街の全てを賭けて必ずお返しさせていただきます」
そう言葉を紡ぐと、ヴィルヘルムは美香の手を取ったまま頭を下げ、その脇に立つエミールも深々と一礼した。
その館の外では、アンスバッハ家によって事実を知らされた住民達が、街をあげて、ロザリアの御使いに対する歓呼と感謝の声を上げていた。美香は寝台に身を横たえたまま、ヴィルヘルムの真っ白な頭部に向けて答える。
「頭をお上げ下さい、ヴィルヘルム様、エミール様。私は自分ができると思った事を、やりたいと思って行っただけです。その思いが実現し、皆を助ける事ができただけでも、私は十分に報われたと感じております。ましてや、その想いをお二方と共有できた事が、何よりも嬉しく思っていますから。ですから、これ以上、畏まらないで下さいまし」
頭頂から降り注ぐ美香の言葉を聞いたヴィルヘルムは、頭を上げ、柔らかく微笑む。
「お噂に違わず、謙虚な御方だ、ミカ殿。あなたのお言葉を受け、我々は一旦引き下がりましょう。しかし、私どもに、あなたに返しきれないほどの御恩がある事は、お忘れなきよう。いつかあなたに助けが必要な時には、ライツハウゼンが必ず力になりましょう。まずは、そのお体を労わり下さい。当家は全力を挙げて、快復までお手伝いをさせていただきます」
そう応えたヴィルヘルムは、杖をついて立ち上がると一礼し、引き下がった。ヴィルヘルムに代わり、エミールが進み出る。
「御使い様」
そう口を開いたエミールは、美香の手を取って言葉を続ける。
「あなた様の、その御身を鑑みない献身ぶりに、私は心打たれました。私はすでに王家に剣を捧げた身、御使い様にその剣を捧げる事はできませんが、それに匹敵する働きをもって、いずれ御恩返しをさせていただきます。私の、当家の力が必要となった時には、いつでもお声がけ下さい。すぐさま、あなた様の下に馳せ参じましょう」
無計画で、加減がわからないだけなんけど…。
美香の魔法の副作用に対する自己評価を余所に、エミールは自らの誓いを述べると、美香の手の甲に唇を添え、ヴィルヘルムとともに部屋を辞した。
「…モテモテね、ミカ。北伐の時も、コルネリウス様に同じ事を言わしめたし」
ヴィルヘルム達が辞した扉を眺めながら、レティシアが微笑む。レティシアの批評を聞いて、美香が口を窄めた。
「別に、わざとやっているわけじゃないんだけど…」
「卑屈にならなくていいわよ。それだけ、あなたが行った事に、皆が感謝しているだけなんだから。だから、あなたはいつか、皆からの恩返しをちゃんと受け取るのよ?それは、あなたにしかできない事よ」
そう答えたレティシアは、美香に振り向き、笑みを浮かべる。
「さ、あなたはまず体を治さなきゃ。ゆっくり寝ていなさい」
***
こうして北伐の時と同様に、美香の介護が始まった。レティシアとカルラ、マグダレーナの三人が交代で美香に張り付き、美香の生活の全てを介助する。美香の手足は北伐の時と同様に全く動かず、誰かの力を借りなければ食事もトイレもできなかった。
…一眠りした美香が再び目を覚ましたのは、日が落ちて大分時間が経った頃だった。視界の隅に、寝台の脇で本を読むレティシアが映っていた。寝ていた美香は知らなかったが、この時カルラは美香の湯浴みの準備に勤しんでおり、マグダレーナは夜番に備えて仮眠を取っていた。
「…レティシア」
「あ、ミカ起きた?どうしたの、何かしてほしい?」
美香の声掛けに反応し、レティシアが顔を向ける。そのレティシアの姿に美香は安らぎを覚えつつ、首肯する。
「トイレに行きたいんだけど…」
「わかったわ、ちょっと待ってね」
美香の発言に、レティシアはニンマリと笑みを浮かべる。
…ニンマリ?
レティシアの表情に違和感を覚えた美香の前で、レティシアは後ろを振り向いて声をかけた。
「トイレだって。ゲルダ、手伝って」
「あいよ」
「…え、ゲルダさん!?」
驚いた顔をした美香の目の前に、ゲルダがゆっくりと歩み寄って来る。そして、大柄な体を屈めると、美香の背中と膝裏に両手を差し込み、美香の体を軽々と抱え上げた。
「え、ちょっと、ゲルダさん?」
「トイレだろ?今連れて行ってやるよ」
手足が動かず、横抱きにされるがままの美香の目前で、ゲルダが人懐っこい笑みを浮かべる。意図がわからない美香はレティシアへと振り向き、問いかける。
「え、ここでじゃないの?」
問いかけられたレティシアは、首を横に振り、口を開いた。
「ここだと臭いが付いて、ヴィルヘルム様にご迷惑がかかっちゃうでしょ?」
レティシアの答えを聞いた美香は、恐る恐るゲルダを見上げる。ゲルダは人懐っこい笑みを湛え、舌なめずりをしながら言葉を続けた。
「大丈夫。ちゃんとアタシが抱え上げて、失敗しない様に見ておいてやるから。安心して用を足しな」
「安心じゃない!ちょっと、何考えているの!?変態!」
顔を真っ赤にして美香が抗議の声を上げても、ゲルダは動じず、扉へと歩き出す。美香は慌てて、レティシアに救いの声を上げた。
「レティシア!ちょっと、ゲルダさんの事、何とかして!」
「安心して、ミカ。ゲルダが変な事しない様に、私も一緒に見てるから」
「変態がここにもいた!」
衝撃の事実に愕然とした美香に、レティシアが尋ねる。
「…オズワルドの方が良かった?」
「良かぁない!」
「じゃあ、我慢しなさい。ゲルダ、四六時中傍にいて、カルラやマグダレーナの時にも手伝ってくれるって言うんだから。感謝しなさいよ?」
「うわああああああああああああああああん!」
こうして羞恥に彩られた介護が、3日間繰り広げられるのであった。




