98:カルラの日常
透き通るような青空の中を陽の光がまっすぐに切り立ち、心地よい乾きを齎す風が中庭に並ぶ布の間を縫い、去り際に布から水分を奪い去っていく。布は恨めし気に風を追いかけようとするが、すぐに吊り紐に引き戻され、空しくたなびいていた。
何列にも並ぶ布の間を、幾人かの女中が動き回り、新たな布を吊り紐に渡していく。ディークマイアー辺境伯はエーデルシュタイン王国有数の名家だけあって、館に勤める者も多い。自然、毎日の洗い物も多くなるわけで、この中庭の光景は、天気の良い日の恒例となっていた。
中庭で動き回る女中に混ざり、一人だけ他の者より身なりの良い若い女性が、洗濯物を干していた。彼女は作業に支障がないように髪の毛を結い上げ、目鼻立ちの整ったややきつめの顔で神経質に睨みつけて、洗濯物を細部に渡って整えていた。それだけの注意を払いながら、彼女は12年に渡る侍女の経験を活かし、洗濯物を干す速度は他の者と一切遜色がない。彼女は、すでに1年4ヶ月に渡り仕えてきた自分より年若い主人のために、彼女の服やシーツ等を心を籠めて一つ一つ丁寧に整え、吊り紐へと渡していく。彼女の前でシーツが風に煽られ、彼女にお辞儀をするように大きくたなびいた。
「カルラ」
「…レティシア様?」
背後から名前を呼ばれた彼女は、物干しの手を止めて振り返る。そして、レティシアに手を掴まれ、引き連れられている自分の主人の姿を見て、眉を顰めた。
「ミカ様?」
「…ごめんなさい、カルラさん。また、やっちゃいました」
カルラの視線を受けて、美香は身を縮め、頭を下げる。その体は一面煤に塗れており、黒と灰色の斑模様になっていた。
「いや、カルラさん、申し訳ありません。私がついていながら」
「…今までも、全てニコラウス様が傍らにいらっしゃったと思うのですが」
二人の後ろから中庭へと入ってきたニコラウスに対し、カルラが皮肉る。しかし、ニコラウスは懲りた様子もなく、煤塗れの頭を掻きながら笑みを浮かべるだけだった。
カルラは腰に手をやり、大きく溜息をつくと、三人が入ってきた入口を指差して厳かに宣言した。
「三人とも、中庭から出てって下さい。煤が飛んで、洗濯物が汚れてしまいます」
「え?カルラ、私も?」
唯一煤で汚れていないレティシアが、自分を指差してカルラに確認する。それに対し、カルラは頷き、言葉を続けた。
「レティシア様は、どうせこの後もミカ様と一緒でしょう?一蓮托生です」
「…まぁ、否定はしないのだけれども…」
口を窄めるレティシアを無視し、カルラは美香へと顔を向ける。
「ミカ様、すぐに湯浴みをして下さい。お召し物は、いつもの籠の中に入れておいて下さい。後で引き取りに参ります」
「わかりました、カルラさん。いつも、ありがとうございます」
「ミカ、私も行くわ。一緒に入りましょう」
「あ、ちょっとレティシア、服が汚れるよ?」
「大丈夫よ、私も後で洗ってもらうから」
レティシアが美香に近づき腕を絡めると、そのまま二人は門をくぐって中庭から出て行く。ニコラウスも二人の後を追い、中庭から出ようとした。
「あ、ニコラウス様」
「何ですか?カルラさん」
「ニコラウス様も、お召し物を変えてお持ち下さい。一緒に洗って差し上げますわ」
「え?いや、私は大丈夫ですよ」
カルラに呼び止められたニコラウスはそう答えて辞退を申し出るが、カルラは腰に手をやったまま目を細める。
「…それ、昨日と同じ服でしょう?」
「…よくお気づきで…」
カルラの目が険しくなり、もう一度入口を指し示す。
「…1時間以内に持って来て下さい。それ以上は、許しません」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
カルラの棘のある言葉にもニコラウスは動じず、カルラに一礼すると、ゆっくりと中庭から出て行った。
***
洗い場の一角で、カルラは木桶の水を樽の中に流し込んだ。
樽の中に4割ほど注いだところで、カルラは木桶から手を離し、傍らに置く。そして籠の中から、煤に塗れた美香とレティシアの服を取り出すと、樽の中へと放り込んでいく。二人の服は樽の中で暫くの間浮いていたが、やがて水を含み、少しずつ沈んでいった。
ひとしきり洗い物を樽に放り込んだカルラは、樽の上に手を翳す。すると、樽の中の水が次第に回転を始め、やがて樽の中に渦が巻き起こった。
カルラは樽の中を覗き込み、洗濯物の舞具合を見て一つ頷くと、隣の樽の前に立つ。こちらの樽には水は入っておらず、底の側面に穴が開いていた。
カルラは空樽の中に洗い立てで水の滴った衣服を放り込むと、再び樽の上に手を翳す。すると、樽の中に竜巻が巻き起こって衣服が空中に舞い上がり、樽の底に空いた穴から水が流れ出てきた。
きびきびと動き回るカルラの姿を、美香は傍らに座り込んでじっと眺めていた。湯浴みを終えたばかりの美香の体はまだ熱を帯びており、同じく湯上りのレティシアが後ろに座り、未だ湿ったままの美香の頭にタオルを被せて拭っていた。
「カルラさん、器用だよねぇ。…ねぇ、レティシア。あの素質って、みんな、ああやって使ってるの?」
「え?いいえ、そんな事ないわ。元々数の多くない素質だし。ああやって使っているの、カルラだけじゃないかしら?」
「普通、戦闘に使うものね。『ライトウェイト』や『クリエイトウォーター』以外で、素質を日常生活で使っているところ、初めて見たかも」
「点火系の素質は、意外と生活で使われるわよ?火を起こすのが楽だから」
「あ、そっか。この世界に来てから、台所に行ってないからなぁ」
カルラの素質「螺旋を描く者」は、風属性魔法「トルネード」を扱える素質である。「螺旋を描く者」は、魔法の「トルネード」と比べ、風力等の細かい加減を加える事ができる。通常は自分の前に展開して盾や機雷の様に使われる素質だが、戦闘と無縁のカルラは洗濯に活用していた。樽の中を覗き込んだまま、カルラが口を開いた。
「上手く調節すれば、掃除にも使えますよ」
「え、そうなんですか?」
「ええ。埃を散らしたり、逆に周囲のゴミを集める事ができるんです。埃まみれの部屋の掃除に、うってつけですよ。…ちょうど、あの人の部屋の様な」
そう答えたカルラは樽から心持ち顔を上げ、上目遣いで前方を見る。美香がカルラの視線の先に顔を向けると、ちょうどニコラウスが洗い場に入ってきたところだった。カルラが上目遣いのまま、追及する。
「ニコラウス様、10分の遅刻ですよ」
「いや、申し訳ない。替えの服が、なかなか見つからなくて」
ニコラウスは相も変わらず笑みを浮かべ、暖簾に腕押しの如くカルラの追及をスルーする。そんなニコラウスを見たカルラは頭を上げると、つかつかとニコラウスの前に歩み寄り、ニコラウスの洗濯物を奪い取った。そして、そのままの体勢でニコラウスの顔を見ながら質問する。
「ニコラウス様、お部屋の掃除は、ちゃんとされていますか?」
「ええ、やっていますよ」
「本当に?」
「ええ、本当に」
二人の間に、沈黙が広がる。
「…この後、洗濯が終わりましたら、お部屋にお伺いいたしますわ」
「あー、それは止めた方がいいかなぁ。今日は日が悪いですから」
「…どんな?」
「え?だって、ほら、天気が良いし」
二人は口を閉ざし、再び沈黙が広がる。
「ミカ様、最近のニコラウス様のお部屋は、どんなご様子ですか?」
「え?…ああ。ソファの手摺に、蜘蛛の巣が張っていました」
「…ミカ様、ご自身の安全と引き替えに師匠の身を売るのは、いかがなものかと」
「え?だって、カルラさんの方が大事だし」
「…その発言は、もう少し躊躇して欲しいのですが」
目の前で繰り広げられる師弟漫才を目にし、カルラが溜息をついた。
「…ニコラウス様、そろそろ観念して下さい。2時間後にお伺いしますわ」
「あー、何か毎度毎度すみません、カルラさん」
カルラは、にこやかに頭を下げるニコラウスを睨み付けると踵を返し、樽へと向かう。
「仲良いよね、あの二人」
「レティシア様?」
「ああ、ちょっとレティシア、髪の毛引っ張らないで」
カルラに横目で睨み付けられたレティシアはそっぽを向き、その反動で髪の毛を引っ張られた美香が上を向く。
こうしてカルラは、自ら自分の仕事を増やしていくのであった。