裸足で靴は履きたくない
足元が不安定な感じ。
のたーっとした、ゆっくり不安な気持ちになるみたいな感じ。
揺れた、と思ったけど、違ったかも。だって振り向いた先の厨房でも、隣でトレーを拭いてたパートのヒロコさんも、天井を見上げたりしないで仕事してる。まーね、天井見たって、蛍光灯の紐とか、吊り下げ式の看板とか無いけど。(でも学校で地震があった時、やっぱみんな天井を見ちゃってた)
「ねー、ヒロコさん、いま地震なかった?」
「ええ? 分かんないなあ……立ってたからかな?」
「んふふ、ウチも立ってるし」
「ほんとだ」
念のためにヒロコさんにきいてみたけど、まーったく気付いてない風の返事。ウチだってもう揺れた感覚、ないけどさ。
「てゆーかさ、柚花ちゃん、こないだもそんなこと言ってなかった?」
「そうだっけ」
そうなんだけどさ。二、三日前に、やっぱり今みたいにヒロコさんに質問したのは覚えてる。
訊かれちゃマズイわけでもないのにドキッとしちゃって、それから「別に悪い事してないし? って気を取り直して笑ってみせた。
ヒロコさんは自分の顎に指で触りながら(ヒロコさんの癖だ。めっちゃ自然に持ってたトレーとダスターを置いてまでそのポーズするの、逆に不自然なんだけどって笑っちゃったら悲しそうな顔されたから、もう言わないでいるワケ)「貧血でもバカにしちゃダメだよ。続くようなら病院行きなね」って言ってくれた。
さすがお母さん、ヒロコさんはウチにタメ語でいいよって許してくれるけど、基本的にはお母さんみたいな、お姉ちゃんみたいな感じ。何回か遊びに行ったこともあるし。実質子守りだったけど、おじいちゃんとか、赤ちゃんとか、学校に居ない人と喋るの楽しいからヒロコさんちに行くの大好きなんだ。
はーい、ってウチが返事するのと、店の自動ドアが開いたのが同時だったせいで「いらっしゃいませ」って言うのがヒロコさんに負けた。競ってないけど、元気良いねって時給を上げてもらった身として基本勝ってたかったっつーか。
小森柚花、十九歳。大学二回生。
授業受けたり勉強するのと、バイトに使ってる時間は同じくらいだと思う。お金は大事だからね。周りもそんな感じ、だからウチは普通だと思う。
普通じゃ無さそうなことっつったら、うーん……最近めっちゃ眩暈がするくらいだけど、こないだ気になってネットで調べたけどピンと来なかったんだよね。
ガチでヤバそうな病気の前兆のこともあるし、ただの貧血のケースもあるみたい。自己診断は危険です、ってどのサイトにもあったけど、じゃあどのくらい起きてたらヤバいのかって目安は書いてなかった。そりゃそーか、書いちゃったら自己診断しちゃうか。
そんな感じだから「やっぱ普通じゃんね?」つって勝手に見切りを付けたりしちゃってたわけ。ちっちゃい頃からママに「お気楽過ぎる」って言われてたし、学校の先生にも「楽観的」って何度も言われてたから自覚はあんだけどさ。
もっと言うと、大きな怪我とか病気もしたことなくて、遺伝の病気があるから気を付けろとか家族や親せきに言われた記憶も全然無い。
実際のとこ、眩暈も瞬きする短い間に終わるようなもんで、他に……よく寝らんないとか、食欲不振とか……そういうのも無い。友達の眼鏡を遊びで借りたとき、視界が急にぼやけてぐわんってなる、あれくらいのもんなんだもん。
ただそれが、何度も何度も起きてる。
ここのとこ間隔も狭まってる。
それだけで。
「つってもなー、病院とか……何科なんだろ?」
ボヤきながら、机の上に散らかしたメイク道具をポーチに入れる。つっても、超小さい声だよ。このマンション、他人の生活音が一切しないの。女性単身者用マンションてみんなこうなの? 窓開けたら隣のテレビも聞こえてくるような、実家のマンションと全然違うんだよなあ。
お陰でちょっと憧れてた「好きな音楽かけて歌いながら家事をする」も出来てないんだよね、防音に期待して一発やってみっかって思ったことは何回もあるけど。ウチと音楽の趣味合わなかったらご近所さんも可哀想じゃん? ウチだってクラシック流し続けられたら嫌だし。実家の近くの歯医者さん思い出すし。
逆に? この時間ならご近所さんも出掛けてるんかな?
平日の昼過ぎってどんなもんだろ。昼過ぎまで近くのパン屋でバイトして、今は一回帰宅、そっから大学で友達と落ち合ってその子ん家に泊まる予定……つまりウチもあんまり家には居ないんだなあ。居る時くらい音楽かけてもいいような気はする。
ああ、でも今ウチがスマホでやることはかける曲を探すことじゃなくて、病院探しかな。
「お医者さんに説明できっかなー、目眩の種類とか詳しくないしなー」
悩み事は口に出してみると、ガチのやつかそうでもないか分かるから、ウチはけっこう独り言が多い、と思う。
いつも使ってる黒のリュックに、ファスナー閉まるギリギリまで詰めたメイクポーチと、着替えを突っ込んだ。お泊りの予定でも、旅行よりに持ちは少ない。女友達の家だから、足りないものは借りられるから。パジャマとかタオルとか要らない。男の家に泊まる時の三百倍くらい楽だもんね。
映画館行くならカーデ持ってくし、雨が降りそうなら折りたたみ傘持ってくみたいに、男の家に泊まるならノーメイクに見えそうなメイク道具を別に持っていかなきゃいけないし(小細工ないとマジのガチでヤバい顔だから)、下着は毛玉もほつれもない水色のやつにしなきゃいけない。それを可愛い刺繍がしてある布の巾着みたいのに入れる。今日は友達ん家だから、デカめのハンカチを風呂敷にしてぎゅっと包んじゃう。省スぺっすよ、省スぺ。だって誕プレも詰めなきゃだからね。
しっかし、水色の可愛いセットの下着は最近出番がない。気に入ったから買ったのに、意味ないじゃんね。
「んー、次のバーゲンで二軍落ちかなあ……次の次かな」
バリカワ水色下着選手の起用方法に悩みながら(やっぱ口に出しちゃってるね)、玄関を出て鍵を掛けた……掛けたつもりだった。
ガチャって重たい手応えを期待したのに、それが無い。
「は?」
手に力が入んない。
驚いて手元を見ると、何と鍵を回せてもない。何これ。マ?
ぐらん、ゆらん、って例の眩暈がきていつもみたいに瞬きをして通り過ぎるのを待つ。いつもなら、一呼吸分くらいで終わるから、そうした。
急に動かない方がいいんだよね、たぶん……やべー、地震酔いのときみたい、気持ち悪……。
とうとう立ってんのも辛くなって、膝からガクンって力が抜ける。めっちゃ膝のお皿をマンションの廊下にぶつけたけど、全然痛くない。痛くないほうがヤバみが増すなって思いながら、意識が途切れた。
「ゆ、か」
「……は?」
「ゆ、か」
呼ばれた気がしたけど、ウチの名前の「小森柚花」は「コモリユウカ」であって「ユカ」じゃないから、シカトした。
ウチ何してんだ、これ……ていうか何? あれ? 鍵はどうしたっけ?鍵掛けるとこで、眩暈がして、そんで……。
慌てて目を開けたけど、何も見えなかった。何も、なーんも。暗いとか明るいとか、何かの色とかも分からない。見てるものが「分からん」ってことがあるとか考えたことないから、もう口から「は? 何? マ?」しか出て来ない・
「え、何で? てゆうか、ウチ寝てんの? 体動かなくない?」
「ユカ!」
「違うし! ウチ呼んでんなら全然違うし!ユ、ウ、カ! 小森柚花!」
「ユウカ…?」
ヒスってた声が、迷子みたいにきいてきたから、ウチも「そうだよ、ユウカ」って言ってあげる。
「ユウカ」
「はいよ」
呼びかける相手の姿形も分かんないまま返事した。ヒス声は現状を説明してくれるかな。さっきからウチの名前しか言ってないけど、このひと……期待出来ねー。
「ユウカ、………、………!」
現状の説明どころか、自分の名前部分以外何を言われたか分からなかった。
「は? ナニ? ごめん、もっかい言って!」
自分の声がぼやけて、消えた。叫んだ先から消える、映画館とかの、音が吸い取られる感じに似てる、っぽい。
それから耳鳴りがした。モスキート音みたいな、よくわかんないとこ刺激されて気持ち悪い。眩暈で耳鳴りとかガチのマズイやつなんじゃないの!? つーかそれ以前に体の自由が利かないの怖いんだけど!
「っうおーーーーい! シカトかよ! セーカク悪すぎね!?」
やっぱり、声は内側からしか感じられない。フェードアウトの気配がする。またかよ、と投げやりな気持ちになるのは、こちらは本日二度目だからだ。