邂逅
―――十年後、またここで会おう。お互いに夢を叶えて――
彼女はそう言って――――笑った。
1
夢を、見たような気がした。けれど夢なんてよっぽどのことじゃないと覚えていないわけで。僕はその夢のようなものを胸の内に押し込んで目覚ましを止めた。階下から僕を呼ぶ声が聞こえた。ぼくは返事をし、部屋の隅の旅行鞄を一瞥してから部屋を出た。
「おはよう」
と声をかけられたので僕もきちんと
「おはよう」
と挨拶を返す。
いつも通りの朝食の風景だったが今日は何か違和感を感じる。そうだ、今僕は制服を着ていない。それもそのはず、
「あんた今日から夏休みだよね?」
そう、僕が通っている学校は今日から夏休みなのだ。母の言葉には
「そうだよ」
とだけ返し、それからあたかも今思い出したかのように
「今日から行ってくるよ。向こう」
とだけ付け足した。それに対し母はそう、とつぶやいただけでそれ以上は何も言わなかった。
いつもと少しだけ違う朝食を終えるとすぐに部屋に戻り旅行鞄と財布、ケータイ、そして画材を取って居間に戻った。洗い物をしている母の背中にむかって行ってきます、とだけ告げて玄関に行き扉を開けた。そのとき後ろから気を付けて、という小さな声が聞こえた。僕はひとつ頷き、それからその声に背中を押されるようにして扉の外へと踏み出した。
一歩踏み出した僕の体をたちまち夏の熱気が包み込んだ。力強く、それでいてどこかに優しさをも併せ持つ、そんな夏が来たのだ。どうしてだろう、と歩きながら僕は思う。昨日インターネットで見つけた画像には「人生を80年とすると夏は80回来る。同じ夏は二度と来ない」と書かれていた。しかし何もそれは夏に限った話ではない。春だって夏だって、秋だって冬だって同じものは二度と来ない。それなのに何故夏という季節にのみこのような言葉が存在して他の季節には存在しないのだろうか。なぜ「夏」という季節はこんなにも僕の心を締め付けるのだろうか。
そんなことを考えながら夏の熱気の中を駅まで歩く道すがら僕はこれから始まるであろういつもとは大分違う夏休みについて思いを巡らすことにする。僕がこれから一か月間と少し住む家はどのような所だろうか。向こうには自分と同年代の子供はいるのだろうか。そして、今年の夏はあとから振り返って最高だったといえるようなものになるのだろうか。
駅に着き電車に乗り込む。隅の空いている席を探して座り家から持ってきた本を広げ僕はしばし小説の中の世界へと入っていった。
電車を乗換え乗換えして窓から見える景色が夕焼けの色に染まり始めたとき、僕はある駅のプラットホームに足をついた。
「早く着きすぎちゃったな…」
と僕はつぶやく。指定された時刻までまだ一時間以上ある。どうしようかと一瞬悩んだがすぐにホームの隅にひとつだけあるベンチの端に腰掛けスケッチブックと鉛筆を取り出した。もう一度ベンチに座り直し姿勢を正してから、鉛筆を持ち目の前に広がる景色を丹念に描いていく。茜色に染まる雲や際立つ山の輪郭、太陽を背にしてあたかも百年も前からそこに立ち続けているかのような鉄塔を。それらの一つ一つから感じられる力のようなものを鉛筆にこめてスケッチブックのページの上に丁寧に黒鉛を載せていく。いつしか僕はその作業に没頭していて隣に人が座っていることにまったく気づいていなかった。
違和感を感じたのは夕日を浴びて光る民家の屋根を描いているときだった。横合いから視線を感じる。初めは気のせいだと思ったが視界の端に移るセーラー服の紺色のスカートが僕の隣に人が座っていることを教えてくれた。しかし、駅のベンチなのだから隣に人が座っていてもおかしい話ではないと思いなおし鉛筆を動かす作業に戻った。それからまた僕はスケッチブックと向き合い続け作品を完成させることにした。
そのあとしばらく描き続け最後の民家を描き終わって全体をちらと眺めた後、右下にローマ字で自分の名前を書いた。
完成した作品を眺めて一人悦に入っていると横合いから不意に声がした。
「美しい…」
それは明確な意思を持って発せられた言葉というよりもむしろ意識せずに自然に口から零れ落ちたといったような言葉だったが、僕の胸には優しく響いた。
声のした方向を見たとき僕は目を見開いた。そこにはすらりとした長い黒髪のセーラー服を着た少女がいて、彼女は自分の口が勝手に動いたことに驚き、両手を口に当てたまま固まっていた。そのとき―――
彼女の視線と僕の視線が交錯した。
一瞬だったが僕と彼女は見つめあうようなかたちになったがすぐにどちらからともなく目をそらした。
「ご、ごめんなさい」
そう言う彼女のうなだれた横顔が真っ赤に染まっているのをみて僕はほんの一瞬言おうとした言葉が喉につかえた。その隙に彼女は鞄をつかむとものすごい勢いで改札の方へと走って行ってしまった。
「何だったんだ、今の…」
そう呟いて時計を見るとちょうど待ち合わせの時刻だったので僕は画材を鞄にしまい立ち上がり最後にさっきまで座っていたベンチを振り返ってから改札の方に向かって歩き出した。
それにしても、僕は三人掛けのベンチの一番端っこに座っていてほかの席は二つとも空いていたのになぜ彼女はあそこに座ったのだろうか。
たまたまだ、たまたま。そう早まる鼓動に自分で言い聞かせ、切符を箱に入れてから改札を通り抜けた。