慟哭
蚊は水なかで生まれ出でる。
水なかは生ぬるく、あたたかで、安らぎを得られた。その水なかで、ぼうふらと呼ばれる幼子は、沢山の兄弟たちと日々を過ごして暮らしていた。
世界は、幼子において居心地のよい確たる幸福であった。餓えを知らず、いざこざこそあれ不仲が続くことの無い、戻れるならば戻りたい、故里であったのだ。
だが戻ることは叶わない。ぼうふらが何時までもぼうふらでは居られぬように、水もまた、何時までもその腕で守ってはくれない。
幼子は羽ばたいて行かねばならなかった。
ぼうふらは蚊へ育ち、旅立った。空なかに水の安らぎは得られず、また水なかに有り得なかった餓えなるものが、蚊を苛み続けた。更には餓え以上の苦しみを、齎すものまであったのだ。
沢山の兄弟たちと離れ離れに生きねばならず、頼りとし、よすがとなれる存在も無い。絶望し、けれど、蚊に有る時は少なかった。
蚊には生きる為の養分が必要だった。それは人間や動物の、裡に流るる血液であった。と同時に、それとは別に求めるものがあった。
それは蚊がどれほど必死に焦がれて切望したとしても、決して得られぬ宿命でもあった。
あるとき、網戸の破れ目から家なかへ入り込んだ蚊は、和室の白布団で漂っていた。そこへ一人の人間がやってくる。すぐさま生きる為の養分と、それ以外とを求めて、においを辿り、蚊は人間の周囲を飛び回った。
人間は平手で蚊を払い退けた。蚊はそれでも飛び回り、人間の血を少し吸うと立ち止まった。呼吸を二回、繰り返すと、蚊はぬくもりに安堵し、人間は蚊に気づいて再び払い退けた。
蚊は白布に着地して、じっと動きを止め、人間の眼差しに篭る憎しみではない怠慢な感情を察知し、声なき声で世を嘆いた。まただ。
――― 嗚呼! 何故これほどに孤独なのだろう!
蚊は布団にくずおれ、泣き伏して、…だがしかし、力無く立ち上がる。
暫くして同様に、力無く、ふらり飛び立って行った。
挫けてはおれない、無理やりにでも立ち直る。
そうして孤独を埋める術を求めていなければ、蚊も、いきてはおれないのだ。






