姉
「ああ、お母さん、末長く私たちを見守っていて下さいね。多くは望みません。では、安らかにお眠り下さいませ」
まだ十四にして、いつの間にか覚えていた儀式を終え、弟の手を引いた。
「ユウもお礼をして、そうよ」
母の墓を前に、姉弟二人して頭を下げた。ただ、涙は流れなかった。
近い将来、このような日が来るということは、なんとなく知っていたものの、やはり未だに『実感』というものは薄い。もちろん、いわゆる“悲しみ”は感じているものの、どこかで未だ母の存在を信じているかのような感覚であった。
「お姉ちゃん、夕日が綺麗だよ」
七つ下の弟、ユウがそう言って微笑む。母の死を目の前にして、こんなにも無邪気で居られることは、ある意味もしかしたら“幸せ”なのかも知れない。母の死を受け入れられなくとも、それでも純粋に瞳を閉じずに前を向くことが出来る弟は、自分とは違い立派に強くなるだろう。
「そうね、ユウ」
人間達を包み込み、空に広がる真っ赤な夕日は、何ら以前と変わらない。たとえ母が死んでしまったとしても。だからこそ、生きねばならないのだろう。まだまだ幼い少女であるミユキも、その残酷な運命のようなものは理解していた。だが、だからと言って、全てをどうこうする術は見当たらないのだ。
「ねぇ、ユウ。私たち、これからどうして生きたらいいのかしらね?」
目隠しし始めた空の下を、弟の手を引いて浮浪者のように歩く。ぽつり、ぽつりと、ただ彷徨い、何かを探していたことすら忘れてしまいそうになるほどに。
――行く宛など、決まっているのに。
ミユキはいつものように薄暗い路地に入り、その店を前にした。
「ユウ、いい?お姉ちゃんが居ない間、必ずあそこの倉庫の中で待っているのよ?寂しくて怖くても、絶対に出て行ってはだめ。悪い人にさらわれちゃうからね」
そう言って、ユウを抱きしめた。
「ごめんね。でもこっちの方が、家に居るよりも、楽だからね……」
ミユキはユウの入った倉庫の戸を閉め、店の階段を上がった。
ミユキはこの店で、春を鬻いでいた。
十四歳だとまずいので、十八であると偽りながら。全ては、生きる為に、弟を守るために。
「私を、どうぞあなたのお好きになさって下さい」
この一言だけで、客は激しく勢い付き、金が手に入る。
だがたった十四ばかりの幼い心身では、自分を穢しながら、心を偽りながら生きることには、完全には慣れることができないようだ。“仕事中”であるのに、いつも涙を流していた。
「お譲ちゃん、泣いてるのかい?」
そんな言葉の脆く儚い同情も、一度抱き合い金を握らせれば、すぐに皆同じように消えゆく。
それでもただただ、一時の激情に溺れゆくことしか出来ないのだった。
「ねぇもっと……――」
いつしか報われる日が来ること。幸せに生きられること。そんな夢を描きながら、暗く淀んだ空を見上げ、亡き母に請う。
「どうか、見守っていて下さい」
店を出て、倉庫で待っていたユウの手を引き、帰路に着く。
「ごめんね、遅くなっちゃって。帰ろうね」
そう言って歩くミユキに、ユウは眠たそうに呟く。
「お姉ちゃん。お父さん、また怒るかなぁ」
ミユキはユウの問い掛けに、一瞬びくりとしたが、落ち着いた口調で「そうかもね」と言った。
そう、父は怖かった。
怖い、と言うのは、怒るから怖いとか、厳しいから怖い、というのではない。
ただただ“理解ができない”のだ。
父は、もはや父ではなかった。毎日酒に溺れ、ミユキ達に訳の分からない罵声を浴びせてきた。そう思えば、独り泣き崩れている様も見たことがある。あの家は、もはや姉弟の“生きる”居場所では無くなってしまっていたのだった。だからミユキは、金を稼ぎ、いつかあの家を出て行ってやろうと考えていたのだ。
家に着くと、部屋は真っ暗で静寂していた。だがミユキが居間の灯りを点けた時、そこには酒を片手に佇む父の姿があった。いつもなら出歩き、家になど居ないはずの父の姿を見た途端、ミユキの背筋は固く凍りついた。頭の中が、真っ白になった。
「あ……」
父がこちらを見遣り、立ち上がった。
そして一言「金を寄こせ!」と叫び、ミユキの腕を引っ張った。
「痛っ」ミユキの声が小さく漏れる。だがその瞬間、父が倒れ込んだ。ユウだった。
「やめろよー!お姉ちゃんが稼いだお金だぞ!!」
ユウは父の腹を蹴り、腕に噛み付くなどしたが、所詮七歳の身体、大人である父に叶う筈も無く。
「このクソガキがっ!」
父の怒鳴り声と同時に、ユウの身体が宙に舞い、床に叩きつけられる。
「ユウっ!!」
「父さん、止めて!!」
そんなミユキの言葉などは掻き消されるように、父の暴行は激しさを増す。ユウの肌は赤く染まり、やがて泣き声すら聞こえなくなった。
「お前みたいなとんでもないガキは、どこにでも売り飛ばしてやる!!」
その言葉を最後に、父はミユキの稼いだ金を握り、家を出て行った。
ほんの一瞬のことだったのに、ユウは、息を吹き返しはしなかった。
「お母さん、何故あなたは父を選んだのですか……?」
空は一層闇を濃くし、独り佇むミユキを睨みつける。
「やあ、お譲ちゃん、また会ったね」
ミユキに声を掛けてきたのは、あの店の客だった。
「あの時の続きをしないかい?」
口で、手で、言葉で、全てを支配するように包み込むと、男はただただ快感に溺れる。
「お嬢ちゃん、今日はやけに激しいね」
悲しい事でもあったのかい?
そんな意味を含む言葉に、何ら動じはしない。
ただただ、繰り返す。どうすればいいのか、何をしているのか、理解など出来ないまま。
「ねぇ。あなたはどうやって、生きているの?私は、どうして生きて行けばいいの?」
母を請いても、金を手にしても、愛すべき存在が消えても、この身は何ら変わらない。
ただただこの身を穢しながら、心に嘘を吐き続け。
それでは、何故、何のために生きるのか。
どうすればいいのか。
ワタシには、その答えを探すことすら、無意味で虚しいものであると思える。
男の手を握り、小さく呟く。
「私を殺して下さい」
此れまでは、死ぬ理由が見つからなかった。今、それが見つかった、と言う訳ではない。
ただ今はもう、生きる理由も見失ってしまった。
「この世に生まれ変わることすら出来ないくらい、思いっきり死なせてね」
濁った紅茶が床に飛び散り、記憶が遙か遠くに飛ばされる。
「死んだその先に、もう、何もありませんように。花も、人も、何もかも。私の知ってる私が、居ませんように」――
遠のく悪夢に寄り添うように、窓の外には、贐の花びらが一つ散った。