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三月の上旬。
そろそろ春になろうかというこの時期、出会いと別れの季節だなんて言うけれど、さして変わらぬ生活に組み込まれるだけで、俺の日常に大きな変化はない。
大学三年を控えた俺は春休み真っ只中、そんな暇を持て余した学生のすることと言えばアルバイト以外に思い当たらない。
時刻は11時半。その例にもれず、俺は駅近くの商店街から少し外れたところにある四階建てのマンションの一階にある喫茶店でバイトの真っ最中だ。
店内は洒落たBGMなんかもかかっていて、先程注文を受けたフレンチトーストの焼ける匂いとコーヒーの匂いが混ざり合って、いかにも喫茶店という空気だ。
もともと混雑するような店でないし、昼前ということもあってこの時間はまったく忙しくない。
植木や鉢植えなんかがずらりと並ぶテラス席をガラス越しに見ながら、無心で洗い終わった皿を拭くというだけの単純作業をこなしてゆく。
レジ横のキッチンでフレンチトーストにシナモンパウダーをふりかける店主のアリスさんは、腰まで届くかという綺麗な銀髪を揺らしつつ、鼻歌交じりで上機嫌だ。
「準一、任せた」
「はーい」
出来上がった料理を気楽に渡され、それに応えるかのような気楽さで受け取り、カウンター席に座る常連の客、ボブにそのまま渡す。
「お待たせしましたー」
「苦しゅうない」
流暢な日本語を話すこの陽気なアフリカ系アメリカ人は、一見すると映画に出て来る悪役のマフィアのボスのような顔をほころばせ、一変して無邪気な笑みを浮かべる。
この三人でいる時間は圧倒的に多い。
というのも、アリスさんはこの店のオーナーであり、ついでに俺が間借りしているマンションの大家でもあるからだ。
この喫茶店のある四階建てのマンション、四階の一室をアリスさん、三階の一室を俺が使っているため、どうしても顔を合わせる時間が多くなる。
ボブに至っては、近所のバーを経営しているため、どうも昼間は暇な時間が多いようで、毎日この店に顔を出している。
そして、家賃ゼロ円という条件の下、この喫茶店でこき使われる俺は、やはりどうしてもこの二人と顔を突き合わせることが多くなる、という訳だ。
「こう毎日顔を突き合わせてると、なんか刺激が欲しくなりますねえ……」
誰に言うでもなく、ため息交じりにぼやく。
「…………」
アリスさんは「また下らないことを」とでも言いたげに、侮蔑のニュアンスを含ませつつ表情を歪ませて、結局無言で調理器具を片付け始めた。
「いいじゃないかこういう毎日も、悪いもんじゃないさ」
ボブは陽気に笑いながら、親が子を諭すように、人生の苦も悦も知ったような、そして当り障りのない月並みな返答をしてくれた。
「まあ、そんな訳で四月から妹がこっちの高校に入学するので、アリスさん、俺の隣の空き部屋契約したいそうですよ」
慣れ親しんだ相手だからだろう、ボブには悪い気がしなくもないが、俺も遠慮なく会話をブッ飛ばす。
「……何がそんな訳だ、刺激的な妹さんでもないでしょ、準一の入居前の下見の時に会っただけだけど、あの子大人しそうだし」
アリスさんは内容には驚いたように、だけど俺には呆れたように反応する。
「準一、妹さん居たのか、ハハッ、これは賑やかになりそうだな!」
「あれ、言ってなかったっけ、そうそう、年が六つ離れた妹なんだ」
俺は浪人してたりするので、数え年で言えば七つだが、まあいい。
「ああそうだ、お前、午後から予定あったんだっけ、上がっていいよ」
不意に思い出したのかぶっきらぼうに告げるアリスさん。
美人な上銀髪なのだ、言葉遣いさえ何とかしてくれれば、そして世が世ならお姫様に見えるだろうに。
「なんだい、デートかい?」
ボブはここぞとばかりに興味を示す。
「残念ながら違うよ、学校の、サークルの集まりなんだよ」
大袈裟なジェスチャーも交えておどけると、「なんだ」と肩をおとされた。
「ボブ、コイツに何を期待してるんだ、コイツはアレだぞ、今流行りの、草食系って奴だ、英語で言うとvegetarianだ」
「ちょっとちょっと!アリスさん、妙にネイティブな発音で変なこと吹き込まないでよ!」
そもそも菜食主義者と恋愛に何の関係があるというのか。
「オー……肉も食べなきゃダメだぞ、準一。筋肉質な男の方がモテるからな!」
「だからなんでボブはそう恋愛に繋げたがるのさ!」
……筋肉質な男はモテるのか、覚えておこう。
「……、じゃあ、お先に失礼しますよ」
「あとで部屋に契約関連の書類持ってくからな、帰ったらまず店に寄ってくれ」
「また明日、準一。よい一日を」