新世界
或る日の夕暮れ、私は取引の為、島根県の安来市へ来ていた。早めに会社をでたつもりが飛行機の不具合で遅れてしまい取引時刻が間近に迫っていた。社会人としては失格だろう。私は、一分の狂いも無くバス停に到着したバスに乗り込んだ。
バスは一分ほどバス停に停車して、出発すると思った。バスは私の予想通りに一分ほど停車して出発した。と、思うとバスは数十メートルだけ進み停車した。何をしているんだ。私は取引の時間が迫っていて急いでいるんだ。どうして出発しないんだ。私は心の中でそう叫んだ。ふと、後ろを見てみると、一人のセーラー服をきっちりと着た娘が手を振りながらバスへと走ってきてた。バスはこの娘を待ったのだろうか。普段私が乗っているバスでは停まって待つ何処か、時間が来れば私が乗ろうとしているにも関わらず扉を閉めてくる。乗客たちが不満そうな顔で娘を見ている。これだけで3分のロスだ。私は取引の時間に間に合うのか心配していた。それどころか、通用しないのは分かっていたが、遅れたらこの娘のせいにしてやろうとも思っていた。しかし、この後の出来事で私は、何か心を動かされた気がしたのだ。
「だんだん」
娘が頭を下げながらバスに乗り込んできた。
一番前の空いた席に腰を下ろすと娘は鞄から何かの本を取り出し読んだ。
すると、一人の厳つい親父がその娘に向かって声を上げた。勿論、罵声であろう。誰だって急いでいるのだから、数分数秒、コンマ一秒という世界に生きている我々社会人には高が三分ほどの時間も惜しいのだ。私は、この親父に便乗して声を上げようとした。しかし、親父の口から出てきた言葉は罵声ではなかった。
「お嬢ちゃん!良かったなー間に合って」
私の予想を遥かに超え微笑みながら言ったのだ。
これが東京ならば、罵声を吐く者は居ないとしても、周りの視線が冷たいものになるだろう。そればかりか、酷い人間なら学校に電話をかけ兼ねないのだ。
「お嬢ちゃん、かわいいねー おっちゃんと付き合わないか?」
なんて親父が娘に言いながら笑った。
「こらこら、あんたみたいなびったれ親父がナンパなんてしてんじゃないよ」
「あぁ、けぇ!親父だけん、可愛い嬢ちゃんに声かてーんだがや」
「きょてーびったれ親父が盛ってんじゃないよ」
「なんだや?びったれはお前だわい、婆ぁ」
見知らぬ土地の見知らぬバスの中で見知らぬ親父と婆の二人が笑顔で言い争っていた。そんな光景を娘も他の乗客も、そして私自身も微笑みながら眺めていた。
此処と、私が住んでいる場所との違い。
何故だかそんな事ばかりが私の頭の中を過ぎった。
環境も違えば、言葉も、人も、空気も、何から何まで全てが違う。
東京でこの様に言い争えば、笑い事では済まない。酷くなれば警察沙汰にもなりかねない。だけど、此処は違う。東京でもなければ私の知っている世界でもなかった。見知らぬ世界。私は今以上にこんな世界を知ってみたいと思った。此処の世界の人々はどのような感情を持っているのだろうか。そして、私の様な人間にどのように接してくれるのだろうか。
窓越しに流れてゆく東京とはうって違う田舎の景色を目に私は時計を確認した。時刻は既に取引の時間を過ぎていた。