木見 潤は恋に憧れる
第20回身内人狼村の前日譚です。
初恋というものが、いつだったのか。
木見 潤には、もうよくわからない。
幼い頃、好きだった男の子がいた気がする。
一緒に遊んだこと。隣に座って、何かを話したこと。自分の知らない遊びを教えてくれたこと。
そんな断片だけが、頭の片隅に残っている。
顔は思い出せない。名前だって、もうわからない。
そもそも、その記憶に出てくる男の子は、本当にひとりだったのだろうか。
幼稚園の頃に一緒に遊んでくれた子。少し意地悪だった子。困っていると助けてくれた子。自分より足が速かった子。
いくつもの記憶が混ざり合って、いつの間にか、ひとりの男の子の思い出になってしまった。
だから、きっと。
そんな人は、最初からいなかったのかもしれない。
潤自身、そのことはなんとなくわかっていた。
あの頃の記憶は曖昧で、誰かひとりを思い浮かべようとしても、違う顔や声が浮かんでくる。思い出そうとすればするほど、記憶の輪郭はぼやけていった。
それでも潤は、その思い出が好きだった。
初恋の相手と、大人になってから偶然再会する。
忘れていたはずの思い出が蘇って、ふたりは少しずつ距離を縮めていく。
そんな物語を、どこかで期待していた。
だって、素敵じゃないっすか。
運命の再会。昔の約束。忘れていた恋。
現実にそんなことが起こるかどうかなんて、潤にもわからない。
ただ、いつか自分にも、そんな恋が訪れたらいい。
そう思っていた。
幼稚園を卒業する頃、潤は日本を離れた。
両親の都合で向かった先は、オーストラリア。
小学校も、中学校も、そこで過ごした。
言葉も、文化も、周りにいる人たちも違う。最初は戸惑うことばかりだった。
コアラは可愛かった。カンガルーはよく飛んだ。クアッカワラビーは笑顔だった。
英語を覚えるのも、現地の生活に慣れるのも、時間がかかった。
そして、言葉だけではどうにもならないこともあった。
肌の色。顔立ち。日本から来たということ。
子どもというのは、時に驚くほど無邪気に残酷だ。
アジア人だからという理由で、からかわれることがあった。何を言われているのか全部はわからなくても、自分が笑われていることくらいは伝わってくる。
遊びの輪に入ろうとすると、なんとなく会話が途切れる。
話しかけても、少し困ったような顔をされる。
大きな事件があったわけではない。
ただ、そこにいるだけで、自分がほかの子たちとは少し違うのだと思い知らされる。
そんな日々が、少しだけ苦手だった。
ある日の休み時間。
潤は教室の隅で、ひとり静かに過ごしていた。
そこへ、ひとりの女の子がやってきた。
赤毛の女の子だった。
彼女は潤の顔を見るなり、ぱっと目を輝かせた。
「えっ、あなた、日本人なの!?」
突然の大声に、潤はびくりと肩を跳ねさせた。
「え、あ、はい……」
「私、アニメが好きなの!」
彼女はそう言うと、知っている日本のアニメや漫画の名前を、次から次へと挙げ始めた。
潤が知っている作品もあれば、知らない作品もあった。むしろ、知らない作品の方が多かったかもしれない。
それでも彼女は気にしなかった。
「ねえねえ、日本では本当にこういうのがいっぱいあるの? アニメで日本語を覚えたりするのって、実際どうなの?」
「えっと……人によると思います」
「そっか! じゃあ、私にもいろいろ教えてよ!」
あまりの勢いに、潤は思わず笑ってしまった。
久しぶりに、誰かと話していて楽しいと思った。
その日から、ふたりは一緒に過ごすようになった。
彼女はアニメや漫画の話になると止まらなかったし、潤が知らない作品についても、まるで世界の真理を教えるかのように熱弁してくれた。
潤にとっては、少し不思議な友達だった。
けれど、不思議なくらい、一緒にいて居心地がよかった。
彼女は潤が日本人だからといって、特別扱いすることもなかった。
わからないことがあれば普通に教えてくれたし、潤が失敗しても笑い飛ばしてくれた。何より、潤がそこにいることを当たり前のように受け入れてくれた。
それが、嬉しかった。
ある日、彼女は潤をじっと見つめて言った。
「ねえ、潤って、見た目はすっごく格好いいよね」
「……そうですか?」
「そうだよ! 背も高いし、髪も綺麗だし! なんかこう、クールな先輩キャラって感じ!」
彼女は腕を組み、うんうんと頷いた。
「でも、ちょっと喋り方を変えたら、もっと面白いと思うんだよね」
「喋り方?」
「そう! 例えばさ……『そうっすね』とか、『大丈夫っすよ』とか!」
彼女は妙に得意げな顔で、潤の真似をしてみせた。
「いや、どういうことっすか……?」
潤が思わずそう返すと、彼女は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「それ! それだよ! すっごくいい!」
「えっ、今のっすか?」
「そう! ちょっと生意気そうな後輩キャラっぽいのに、見た目は王子様みたいでしょ? そのギャップが最高なの!」
何が最高なのか、潤にはよくわからなかった。
けれど、彼女があまりにも楽しそうだったので、なんとなく付き合ってみることにした。
「じゃあ、こういう感じで喋ればいいんすかね?」
「うんうん! 絶対いいって!」
彼女は満面の笑みで頷いた。
それから、潤の喋り方には少しずつ「っす」が増えていった。
最初は、彼女を笑わせるためだった。
アニメのキャラクターみたいに喋ってみたり、わざと大げさな仕草をしてみたり。彼女が喜ぶので、潤も面白がって続けた。
けれど、不思議なものだ。
何度も繰り返しているうちに、いつの間にか、それが癖になっていた。
気づけば、普通に喋っているつもりでも語尾に「っす」がつく。
わざわざ意識して使っているわけではない。かといって、やめようと思うほどの理由もなかった。
いつしかそれは、潤自身の喋り方になっていた。
彼女はそんな潤を見て、いつも嬉しそうに笑っていた。
彼女と過ごす時間は、純粋に楽しかった。
自分のちょっとした振る舞いで、誰かが笑ってくれる。
自分のことを、面白いと思ってくれる。
それは、潤にとって、ちょっとした発見だった。
海外での生活は、いつの間にか、少しずつ居心地のいいものに変わっていった。
言葉も文化も違う場所で、潤は自分なりの居場所を見つけていった。
そして、その中で出会った友達から教わったものは、喋り方だけではなかった。
人と仲良くなることは、案外難しくないのかもしれない。
そんなことを、ほんの少しだけ思えるようになった。
日本へ戻ったのは、高校に進学する頃だった。
卒業時期の違いもあって、少しばかり時間が空いた。そうして入学したのは、女子校だった。
身長は169.8cm、体重は秘密。
長い黒髪をひとつに結び、黒いリボンで留める。
すらりとした体つきに、すっと伸びた背筋。海外で身についた自然な距離の近さも相まって、潤は周囲の目を引く存在になった。
入学してしばらくの間、周りの生徒たちは、彼女にどう接すればいいのかわからない様子だった。
けれど、それもいつまでも続くわけではなかった。
気づけば、潤の周りには、彼女に声をかける人がいた。気兼ねなく話せる相手もいた。
今では、教室で交わす何気ない会話も、放課後の時間も、すっかり日常の一部になっている。
そして、下級生たちからは、ちょっとした有名人だった。
長身で、すらりとしていて、凛々しい顔立ち。
長い黒髪をまとめた姿も相まって、潤は下級生たちから「王子様」と呼ばれていた。
廊下を歩けば、遠くから視線を向けられる。
声をかければ、嬉しそうに頬を染められる。
潤はそうした反応に、少し照れくささを覚えながらも、できるだけ自然に振る舞っていた。
もちろん、本人は自分がそこまで格好いいと思っているわけではない。
むしろ、周りが勝手に期待しているだけなのでは、と思うこともある。
実際、親しい相手の前では、少し抜けているところもあるのだから。
それでも、憧れられること自体は嫌いではなかった。
誰かが自分を見て、少しでも楽しい気持ちになってくれるのなら。
それは、それで悪くない。
そう思っていた。
高校三年生。
進路の話が増え、周りの友人たちも、少しずつ将来のことを考え始める時期。
潤ももちろん、将来について考えることはあった。
けれど、どうしても頭の片隅から離れないものがある。
恋だ。
いつか運命の相手に出会うこと。
何気ない出会いが、人生を変えてしまうこと。
そんなことが本当に起きるのなら、自分はどんな顔をするのだろう。
格好よく決められるだろうか。
それとも、いつものように失敗してしまうのだろうか。
想像するだけで、少し楽しかった。
もちろん、いつまでも夢ばかり見ているわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせることもある。
幼い頃の初恋が、実際にはいくつもの記憶の寄せ集めなのだということは、潤自身がよくわかっている。
再会を夢見る相手が、本当はどこにもいないのかもしれないことも。
それでも、憧れることくらいは許されてもいいだろう。
だって、まだ十九歳なのだから。
その日、放課後。
潤はいつものように、靴箱を開けた。
中に、一通の手紙が入っていた。
差出人の名前はない。
不思議に思いながら封筒を手に取り、表裏を確かめる。
「……なんすか、これ」
いたずらだろうか。
誰かからの相談だろうか。
それとも。
ほんの一瞬、胸が弾んだ。
まさか、恋文?
いやいや、さすがにそれはないっすね。
潤はひとりで首を振った。
けれど、封筒を開ける指先は、少しだけ慎重だった。
中の便箋に目を落とす。
そこには、潤の知らない場所へと誘う言葉が記されていた。
見慣れた学校の廊下。いつもの帰り道。変わらない日常。
その先に、何かが待っているのだろうか。
潤は手紙を読み終えると、そっと顔を上げた。
胸の奥で、小さな期待が膨らんでいた。
それが運命なのか、ただの偶然なのか。
今の潤には、まだわからない。
ただひとつ確かなのは。
少しだけ、面白そうだということだった。
クアッカワラビーの笑顔が好きです。




