第二幕「歌を返して」 第38話 白紙の三日間
リラは三日間、本当に何も作らなかった。
演出表を閉じた。
百人分の反応を記録した手帳も、アンケート用紙と一緒に木箱へ入れた。
蓋を閉めても、継ぎ足した紙の端が少しだけ外へはみ出した。
押し込もうとして、やめる。
見えなくすることと、なかったことにするのは違う。
箱は作業机の下へ置いた。
手を動かしたくなるたび、倉庫の床を掃いた。
床の白線を見ると、新しい立ち位置が浮かぶ。
梁を見上げると、光を渡す角度を考える。
リラはそのたび箒を握り直した。
作らないとは、何も思いつかないことではなかった。
思いついたものを、すぐ他人へ渡さず、自分の中へ置いておくことだった。
◇
一日目、ラウルは舞台奥で耐火板を点検していた。
星冠祭へ出ると決まっていない以上、火術用の設備は使えない。
それでも、返却前に焦げや歪みがないか、一枚ずつ確かめている。
「一つ、聞いていい?」
「内容による」
「演出の相談じゃない」
「それなら、さらに嫌な予感がするな」
「『帰れない灯』を聞いて、何を見た?」
ラウルの手が止まった。
耐火板の角を指でなぞり、煤がついていないことを確かめる。
「炎」
「それは知ってる」
「小さい炎だ」
リラは口を閉じた。
金獅子でも、朝日でもない。
ラウルが大きな火を答えると思っていた自分に気づく。
「子どものころ、工房の炉が消えかけた夜があった」
ラウルは耐火板を壁へ立てかけた。
「親方の借金が増えて、炭を買えなかった。職人がそれぞれ家から少しずつ持ち寄ったんだ」
「それで炉を?」
「朝まで消さなかった」
「大きく燃えた?」
「燃えてない。大きくしたら、すぐ炭がなくなる」
ラウルは両手で、小さな器を包むような形を作った。
「消さないために、全員で小さく守った火だ」
「金獅子じゃなくて?」
「最後には獅子にする」
「するんだ」
「小さな火が大きくなるから意味がある」
ラウルは当然のように答え、次の耐火板を持ち上げた。
「今の話、演出表へ書くなよ」
「書かない」
「本当に?」
「今日は、聞くだけ」
リラの手には、紙も筆もなかった。
ラウルはそれを確認し、少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、もう一つだけ言う」
「何?」
「俺が見た火と、セラが歌ってる灯は、たぶん違う」
「うん」
「違っても、勝手に直すな」
リラはすぐに答えなかった。
以前なら、違う景色を一つへまとめる方法を考えていた。
「分かった」
今度は、それだけを受け取った。
◇
マリエは小型鍵盤の手入れをしていた。
鍵盤を一つずつ押し、音の戻りを確かめている。
「マリエは、何を見た?」
「音へ、見るという言葉を使うのですね」
「嫌だった?」
「いいえ。少し考えます」
白い鍵盤が一つ沈む。
低い音が、誰もいない客席の下まで転がった。
「帰り道です」
「窓でも、灯でもなく?」
「帰り道というより、戻れる音かもしれません」
マリエは指を鍵盤から離した。
音が消えても、倉庫の床には余韻が残っている。
「セラさんは、決めた四和音へ戻らないことがあります」
「困る?」
「困ります」
返事は迷わなかった。
「ですが、戻らないことと、戻れないことは違います」
「どう違うの?」
「戻れる場所があると知ったうえで、別の場所へ進むこともできます」
マリエは譜面台へ置かれた白紙を見た。
「私は、戻れと命じる音ではなく、戻ってもよいと知らせる音を置きたい」
「それを、セラは知ってる?」
「伝えたつもりでした」
「つもり」
「はい」
マリエは少しだけ眉を下げた。
「私も、譜面へ書けば伝わると思っていたのかもしれません」
「次に会えたら、話す?」
「会うことを許されたら」
マリエは再び低い鍵盤を押した。
同じ音だった。
けれど、先ほどより少し長く残した。
◇
二日目、レティアは排水路の封鎖確認をしていた。
水を流さない日でも、どこへ水が逃げるかを調べている。
「レティアは、何を見た?」
「波紋です」
「水術師らしい」
「属性だけで判断しないでください」
「すみません」
リラが素直に謝ると、レティアの眉がわずかに動いた。
すぐに言い返されると思っていたらしい。
「完全には映らない顔です」
レティアは小さな器へ水を張った。
天井の梁が、鏡のような水面へ映る。
「母が亡くなってから、顔を思い出すたびに細部が変わります」
リラは、器へ視線を落とした。
レティアは水面を崩さない。
「正確に覚えていたいのです。目の形も、口元も、髪の結び方も」
「でも、変わる?」
「はい」
「怖い?」
「不快です」
レティアらしい答えだった。
けれど、器の縁を持つ指は、いつもより強く重なっている。
「記憶まで制御できない自分が、未熟に思えます」
「歌を聞くと?」
「同じ顔が戻らないことにも、意味があるのかもしれないと思いました」
レティアが指先を水面へ触れさせる。
梁の像が崩れた。
「思い出すたびに変わるのは、失っているからではなく、そのときの自分も一緒に映るからかもしれません」
「それを、舞台で見せたい?」
「分かりません」
レティアは即答しなかった。
「以前の私なら、美しく整えたでしょう。今は、崩れたものを整えずに置くべき場合があると考えています」
「分からないまま?」
「分からないままです」
リラは器の水を見た。
改善案は浮かんだ。
照明の角度も、波紋の広げ方も。
口にはしなかった。
◇
エヴレンは、舞台中央に何もない椅子を一脚置いていた。
幻影ではない。
倉庫にあった、脚の傷んだ木の椅子だった。
「今日は本物なんだ」
「私も毎日すべてを幻影で済ませているわけではありません」
「座らないの?」
「座る人を待っています」
「誰?」
「決めていません」
エヴレンは椅子の背へ、白い布を掛け直した。
「エヴレンは、何を見た?」
「存在しない帰り道です」
「存在しないのに、帰れる?」
「帰る場所を持ったことがありませんから」
いつもの微笑みはある。
けれど、舞台用に整えたものより薄かった。
「劇団と一緒に街を移り、宿を替え、舞台が終われば次へ行きました。故郷と呼べる場所がない」
「寂しかった?」
「便利でした」
「質問へ答えてない」
「あなたは、最近そういうところだけセラさんに似てきましたね」
エヴレンは笑い、すぐに椅子へ視線を戻した。
「帰りたい場所を持つ人が、理解できなかったのです」
「今は?」
「帰る場所は、土地ではないのかもしれない」
白い布の端が、指先から滑る。
「自分を覚えている人がいるという、証明できない思い込み」
「幻影?」
「ええ」
エヴレンの口元へ、少しだけ本物に近い笑みが浮かぶ。
「なら、故郷を持たない者にも作れます」
「それを、セラへ見せたい?」
「いいえ」
返事は早かった。
「これは、私が歌から受け取ったものです。セラさんの過去ではありません」
エヴレンは何もない椅子を見た。
「いつか本人へ話すことはあっても、本人の記憶として舞台へ置くことはしません」
「うん」
「その区別を、遅れて覚えました」
リラは謝ろうとして、やめた。
今、エヴレンが話しているのは、自分の選択だった。
リラが罪悪感で奪ってよい場面ではない。
◇
セインは、祭典庁へ返却する信号板を並べていた。
番号順。
使用時刻順。
返却先の部署順。
三種類の順番で表を作っている。
「一種類でよくない?」
「照合時の目的が異なります」
「でも、三枚とも同じ板が並んでる」
「同じ対象でも、分類軸が違います」
「私の手帳みたい」
リラが言うと、セインの手が止まった。
「不快でしたか」
「少しだけ」
「では、表を減らしますか」
「セインの仕事に必要なら、そのままでいい」
「必要です」
「なら、いい」
セインは三枚目の表を揃え直した。
紙の端が、机へ小さな音を立てる。
「セインは、何を見た?」
「雷が落ちる前の空です」
「まだ光ってない空?」
「はい」
「何も起きてない」
「私には、次に何が起きるか分かります」
セインは高い窓を見上げた。
「空の色、湿度、魔力の流れ。雷を出す前から、経路は見えています」
「怖くない?」
「怖いです」
返事は静かだった。
「セインも?」
「恐怖がない者へ、雷信術を任せるべきではありません」
「いつも平気そうなのに」
「平気な顔をする訓練は受けています」
「三種類の?」
「恐怖を見せない表情は、災害対応用です」
セインの口元に、儀礼用ではない小さな苦笑が浮かんだ。
「正確に撃つのは、怖くないからではありません。怖いものが、どこへ落ちるか分からない状態にしたくないからです」
「歌では?」
「次に何が起こるか分からない」
「怖い?」
「非常に」
「それでも残った」
「はい」
白い手袋の指が、信号板の角へ触れる。
「予測できないものを、すべて排除するのではなく、待つ方法があると知ったからです」
「今の『待つ』って考え方、演出に――」
そこまで言って、リラは自分の唇を押さえた。
「ごめん。今は、聞くだけだった」
セインは少し考えてから、うなずいた。
「はい。今の返答は、使用の相談ではありません」
「分かりました」
セインは記録板へ何も書かなかった。
リラも、書かなかった。
◇
ノアは空になった客席にいた。
遮光眼鏡を額へ上げ、空になった舞台と左右の避難口を交互に見ている。
「ノアは、何を見た?」
「暗い部屋」
「そのままだね」
「違う」
壁際で工具の触れる音がした。
やがてノアが顔を上げる。金灰色の目が、眠そうにリラを見た。
「前の闇は、隠すためだけだった」
「今は?」
「待つ場所」
「何を?」
「分からない」
ノアは壁際から一歩出て、大きすぎるローブの裾を引き寄せた。
「何も始まらないかもしれない。でも、明るくして終わらせない」
「怖くない?」
「怖い人には薄くする」
「ノアは?」
「甘い牛乳があれば平気」
「それは心理的な支援?」
「物理的に甘い」
ノアは銀の瓶へ口をつける。
一口飲み、リラの手元を見た。
「書かないの」
「書かない」
「忘れたら?」
「また聞く」
「勝手に覚えて使わない?」
問いかけは短かった。
リラの胸へ、夜灯花の白い光が戻る。
「使わない」
「覚えてるのに?」
「覚えてることと、使うことを分ける」
「できる?」
「できる、とはまだ言えない」
ノアの瓶が止まる。
リラは続けた。
「次に使いたくなったら、先に聞く。聞けないなら使わない」
「それなら、少しだけまし」
ノアは再び左右の避難口へ視線を戻す。
「少しだけ?」
「信用は、三日で戻らない」
「うん」
黒藍色の髪が、壁際の暗がりへ溶け込んだ。
◇
最後に、リラはアルドへ尋ねた。
「アルドさんは、何を見た?」
「答えない」
「どうして」
「これは、お前たちの公演だ」
「演出へ使いません。聞くだけです」
アルドは銀の杖へ両手を重ねた。
「なら、客として本番で答える」
「本番があるか、分からないのに」
「ないなら、答える必要もない」
「ずるい」
「師匠は少しずるいくらいでよい」
リラは不満そうにアルドを見た。
以前なら、もう一度尋ね、言葉を引き出そうとしただろう。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
アルドの目が、わずかに細くなる。
「本当に諦めるのか」
「答えたくないんでしょう」
「そうだ」
「なら、聞きません」
「成長したな」
「三日で?」
「信用と違って、悪知恵は三日で育つ」
「褒められてる気がしないなあ」
リラは少しだけ口元を動かした。
笑顔にはならなかった。
◇
三日間、リラは誰の答えにも書き込みをしなかった。
改善点も伝えなかった。
似ているものを同じ分類へ入れなかった。
小さな炉の火。
戻ってもよいと知らせる音。
完全には映らない顔。
存在しない帰り道。
雷が落ちる前の空。
何かを待つ暗い部屋。
同じ歌から、全員が違うものを受け取っていた。
正しい景色を一つへ揃える必要はなかった。
違う景色を持ったまま、同じ歌を聞くことができる。
それを理解したというより、三日かけて、直さずに置いておくことへ慣れ始めた。




