上司がまた社内パトに行った
お久しぶりです!
よろしくお願いします!
『社内パト日記』
モニターの右下、デジタル時計の数字が「14:00」に切り替わった。
俺は、まるで魂の抜けたような虚ろな目を画面に向けたまま、ゆっくりと息を吐き出した。分厚いレンズの奥で、焦点の合っていない両目を数回瞬きする。たるんだ顎の肉と、ワイシャツのボタンを弾け飛ばさんばかりに膨らんだだらしない腹。それが、五十六歳になった現在の俺の姿だ。
端から見れば、典型的な窓際社員だろう。役職は係長だが、部下など一人もいない。与えられている仕事といえば、誰がやってもいいような過去のデータの入力と、ファイルの整理だけ。
こう見えても、昔はそれなりに「イケイケ」だったのだ。三十代前半で異例のスピード出世を果たし、同期の誰よりも早く最年少で課長にまで上り詰めた。連日連夜、終電まで働き、休日も接待ゴルフや資料作成に追われる日々。会社の売上の根幹は俺が背負っていると本気で思っていたし、周囲も若きエースとして俺をチヤホヤした。
だが、張り詰めた糸は、ある日唐突に切れた。
心より先に、体が動かなくなったのだ。朝、玄関のドアノブを握ったまま訳もなく涙が止まらなくなり、そのまま休職。復帰と休職を繰り返すうちに、気がつけば降格に次ぐ降格を味わった。かつて俺を称賛していた連中は潮が引くように去り、すっかり仕事への情熱は無くなってしまった。
今では有給休暇を使い切り、欠勤スレスレでしまいには病休を取ることもしばしば。出勤したところで、こうして一日中ぼーっとしているだけの、給料泥棒のポンコツ中年である。
——というのが、周囲が俺に抱いている共通認識だ。
俺は「どっこいしょ」と小さく声を出して立ち上がった。パソコンの画面は待機画面に切り替わっている。隣の席の若手(部下ではない)は、また俺がトイレかタバコでサボるのだと思い、チラリともこちらを見ない。
俺の本当の「業務」は、ここから始まるというのに。
俺はこれを密かに『社内パトロール』と呼んでいる。
毎日、午前と午後に数時間ずつ。俺は自席を離れ、広大な社内をあてどなく歩き回る。各フロアの自動販売機前、コピー機の裏、非常階段の踊り場、使われていない会議室の周辺。
社内を徘徊する俺の目は、自席で死んだ魚のようになっている時とは打って変わって、光輝いている。
まずは営業部のフロアだ。パーテーションの陰からそっと覗き込むと、現在の営業課長——俺より五つ年下の、やたらと声のデカい男——が、若手社員を立たせて怒鳴り散らしていた。
「気合いが足りないんだよ!数字は足で稼げっていつも言ってるだろうが!」
唾を飛ばさんばかりの熱弁。俺は薄暗い廊下の隅で、口元を歪めて鼻で笑った。
(おいおい、昭和かよ。今時『足で稼げ』なんて精神論を押し付けてたら、そのうちパワハラでコンプライアンス委員会にチクられるぞ。それに、あの若手の目を見てみろ。完全にお前の話なんて聞いてない。今日の晩飯のメニューか、転職サイトのことで頭がいっぱいだ)
かつての自分も、あんな風に部下を怒鳴っていた時期があった。だからこそ滑稽に見えるのだ。あの課長は自分が部署を回している気でいるが、実際には空回りしているだけ。俺は頭の中にある空想のメモ帳に、「営業課長、今日も絶賛空回り中。若手の心は会社ではないどこかへ」と書き込んで一人で笑った。
フロアを移動し、今度は総務や経理が集まる静かな階へ向かう。
自販機コーナーの奥、非常階段へと続く薄暗い通路で、俺はピタリと足を止めた。
壁に寄りかかるようにして、一人の女子社員がしゃがみ込んでいる。入社三年目の、すれ違えばいつも愛想よく挨拶をしてくれる子だ。彼女の手には、すっかり冷たくなったであろう缶コーヒーが握られていた。
よく見ると彼女は泣いていた。声は出していないが、華奢な肩が小刻みに震えている。
俺の胸の奥で、チクリと痛むものがあった。
(あーあ、あの子、最近連日残業続きだったらしいからな。窓際職員の俺にすら話が聞こえてくるぐらいだ。上司から理不尽な仕事の振られ方でもしたんだろう。……わかるよ。誰にも言えなくて、でも涙だけは勝手に出てくるんだよな)
昔の自分が重なった。俺もあんな風に、非常階段で一人、嗚咽を噛み殺したことがあった。ギリギリまで頑張って、無理をして、周りの期待に応えようともがいて、そしてある日突然、心がポキリと折れる。
俺は助け舟を出してやりたい衝動に駆られた。ハンカチを差し出して「大丈夫か」と声をかけるのは簡単だ。
だが、今の俺は窓際族の冴えないオッサンである。そんな奴に急に声をかけられたら、彼女は余計に惨めな気持ちになるかもしれない。というかセクシャルハラスメントととして訴えられてもおかしくない。それに、下手に同情すれば、彼女のギリギリで張り詰めている糸を、俺の手で完全に切ってしまう気もした。
俺は少し離れた自販機で、温かいミルクティーを買った。
そして、彼女の視界に入らないようにそっと近づき、近くの窓枠にその缶を置いた。わざとらしく「あー、腰が痛てぇ、痛てぇ」と独り言を呟きながら、足音を立ててその場を離れる。
振り返ることはしない。ただ心の中で、(泣くだけ泣いたら、甘いものでも飲んでさっさと帰れ。仕事なんて、命を削ってまでやるもんじゃない)と、精一杯のエールを送った。
それからまた小一時間ほど、他の部署を偵察したり、役員フロアの空気の重さを鼻で笑ったりして、俺は自分の席へと戻ってきた。
「ふぅ……」
重い体を椅子に沈め、マウスを動かしてスクリーンセーバーを解除する。時計は「16:15」を指していた。
隣の若手社員が、呆れたようなため息を小さく漏らしたのが聞こえた。きっと「この人、二時間以上もどこで油を売ってたんだ」とでも思っているのだろう。
それでいい。俺はポンコツの窓際係長でいいのだ。
誰も俺に期待していない。だからこそ、俺はこの会社という巨大な枠組みの外側から、滑稽で、悲しくて、愛おしい、色々な人間模様をじっくりと観察することができる。
他人の喜怒哀楽を勝手に想像し、心の中で大笑いし、馬鹿にし、時に寄り添い、勝手に心配する。心の中はいつだって大忙しだ。
それが、いまの俺の生きがいであり、この理不尽な社会で精神を保つための生き方なのだ。
「さてと……」
俺は誰にも聞こえないような小声で呟き、キーボードにぽってりとした手を乗せた。
頭の中にある『社内パト日記』のページをめくる。明日はどのフロアを巡回しようか。あの泣いていた女子社員が、明日は少しでも笑えているといいのだが。
俺は再び、分厚いレンズの奥の目をトロンとさせ、世界一無気力な顔で、何の意味もないエクセルの表を見つめ始めた。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ピッコマノベルズの執筆や最近漫画原作コンテストというものに参加してみようと思い、それに向けた新たな物語の作成などをしておりバタバタで投稿できておりませんでした(^^;;
皆様、申し訳ありません…!
今回の作品は、息抜き作品です笑
私の職場でよくどこかに行かれる人がおりまして、その方をちょっと想像して書いてみました笑
あくまでもフィクションです笑
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よろしくお願いいたします。




