【XⅢ】 閉じ覚ます感覚の章
時を同じくして、クラリネットパート。
「凪咲ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。もうできます」
クラリネットパートは3人だ。3年生1人と2年生1人、そして凪咲だけの1年生1人だ。
「…すぅ」
凪咲はクラリネットを吹き始める。静かに旋律が奏でられる。綺麗な音だった。
「…できてる…。凄い」
「小学校からですので…」
「…だよね」
目の前にいる先輩は、クラリネット歴3年だ。対して凪咲のクラリネット歴は4年。少しでも経験の層が違うのだ。故に実力は殆ど同じだ。
「…瑠璃が頑張ってるから、私も頑張らないと」
「古叢井さん?」
「はい。あの子も頑張ってるから、負けてられません」
「そうよね。ふたり、仲良いもんね」
そう言ってクラリネットの先輩は腰を上げた。
(…だって、私の姉と似てるし)
内なる本音はただ胸奥に隠しつつ、彼女はクラリネットを奏でた。
部活終わり。
凪咲は瑠璃に話し掛けられた。
「…凪咲ぁ、ちょっとだけ相談いい?」
「瑠璃?どうしたの?」
優愛たちの乗るバスが出発するのを見届け、瑠璃の話しを聞こうとする。
「音量?まだ駄目なの?」
「…うん」
瑠璃は音量のことで深刻に悩んでいた。恐らく天龍での影響だろう。
「…どうしても腕でやっちゃうよー」
「流石和太鼓奏者…」
「…うー」
少し不遜そうに頰を膨らませる。
「何?」
「…思いっきり叩けるけど、また皮をぼこぼこにしちゃったんだぁ」
「ぼこぼこ?」
「うん。優愛お姉ちゃん困らせちゃうから、あんまりしたくないんだよ」
その赤い瞳に哀が混じる。優愛のことを考えると、その暴走心が止まるのだろう。
「…はぁ」
瑠璃は小さく肩をすくめる。
音量で注意されるのは、正直言って悩みでしかない。
「私、手加減ができない…。どうしよう?」
優愛には言えない深い悩み。それを打ち明けられたのは…凪咲だけだった。
「知ってた。元和太鼓奏者さん♪」
しかし彼女はこう笑い返すだけだった…。
「んー、瑠璃が叩くの好きなのは分かるけど、どうすれば良いか、って言われるとね…」
「うーん、つい手加減を忘れちゃうんだよね」
「じゃあ、感覚を閉じてみる、っていうのは?」
「えっ?感覚?」
「そう。和太鼓やってた時の感覚を閉じるの」
「感覚……」
和太鼓をやってた時の感覚。
それはいわば―狂気だ。
パーカッションとは、全身でリズムを刻む感覚ではないのか?腕を思い切り振って、時には足にまで力を込める。何よりも感情の高ぶりだ。体や心に溜まったストレスを皮にぶつけていた。時折、自分の皮膚が弾ける音も何だか心地よい。普通の太鼓とは違い、大太鼓は迫力が違った。激情たったひとつ。それが、目の前の空気を容赦なく破壊するという行為が、瑠璃には堪らなく気持ちよかったのだ。
「…うーん、太鼓楽しくて、強くたたいちゃうから、難しいんだよね」
「そっか。あ、信号!」
その時、2人が別れる信号へとたどり着いた。
「凪咲、ばいばーい!」
「瑠璃、また明日ね」
2人はいつものように、手を振り合って別れた。空は薄汚れたようなオレンジ色をしていた。もうすぐ闇に染まるのだと分かる。その空模様に合わせるように、瑠璃は目を細めて悲しそうな顔をする。
(…天龍での感覚を…閉じちゃうかぁ。ぎゅっとしてどーん!をやめるのかぁ)
少しばかり特殊な感性を持った瑠璃にとって、感覚を完全に閉じてしまうという事は難しいのかもしれない。
翌日。
「優愛お姉ちゃんのスティック持ってきたよ!」
「あ!瑠璃ちゃん!ありがと!」
優愛は嬉しそうにスティックを受け取る。やはり瑠璃は妹のようだなあ…と優愛は思う。頭を撫でると、彼女はデレデレと笑ってくれた。頭を撫でてもらいたかったようで、彼女の頬は瞬く間に赤く染まる。
「…もうすぐだねー。本番」
「うん、ちょっと音量が不安だけど」
「そんなに我慢しなくても、間違わなければ大丈夫なのに…」
優愛の残念そうな声に、瑠璃は真紅の瞳を小さく震わせた。その顔は拭いきれない不安に満ちていた。
「今日は思いっきり叩いてみる?」
すると優愛は、練習台のパッドを指さした。真っ黒な打面がチラリと天井を覗いている。瑠璃はこくりと頷いて、ドラムスティックと共に優愛へと駆け寄った。
メトロノームの音と共に複雑なリズムが響く。パッドをたたいているので、打楽器特有の響きはないが、少しずつリズムがズレてしまう。
「…あっ!」
「ズレちゃったね。手首は使った?」
「ううん。ほとんど腕だよ」
「やっぱり、腕だと疲れちゃうよ。長くは持たないから、このコンサートには向いてないのかな」
優愛は瑠璃が傷付かぬように、柔らかい笑みを浮かべたまま言う。しかし対照的に瑠璃は、少し不満そうな顔をして見せる。
「…難しいよー」
「そうだよね。バスドラも入ってるし」
ここで使うバスドラムは、コンサート用バスドラムではなく、ドラムセットに付くバスドラムだ。移動や設置が容易な故、ドラムセット用のバスドラムを使用している。紺の塗装が施されたバスドラムが瑠璃の下腹部をチラリと覗く。影のないそれは冷たく光った。
「…まあ、時間がないから…、手首を使う練習はあとにしよっか?」
「うん」
そう言って、何度も何度も音を合わせたのだった。
「…はぁ~、疲れたぁ」
優愛はひとり家の近くの公園で何かを飲んでいた。缶のコンポタージュだった。
「ふぅ…」
薄白い湯気が、プルタブを引くと同時に立ち込める。コーンの甘い香りが鼻腔を撫でた。
「…おいしそう」
優愛は缶の飲み口を唇へくっつける。静かに飲んでいると、誰かが手を振ってきた。
「…あ、優月くんや」
優月を見つけるなり、彼女は缶の飲み口を親指で拭う。そんな事をしていると、優月は目の前にいた。
「優愛ちゃん、寒くないの?」
彼の頬は少し赤い。
「うん。これ飲んでるから」
優愛は丸い缶を優月に見せびらかす。
「良かったぁ。でも冷めちゃうよ?」
しかし彼には安心と心配で返されてしまった。
「あ、そだね」
優愛はベンチの隙間を指さす。座っても良いのか、優月はベンチに座る。鼓動を鳴らす間もなく、優愛は話し始めた。
「瑠璃ちゃんがね…」
「ん?古叢井さん?」
深い溜息と同時、悩み事が口をついて出てくる。
「音量で苦労してるの」
「…音量?」
「うん。優月くん、遠くから聴いててうるさくない?」
「え、まぁ、たまにドコドコ聞こえるよ。上手いよね」
「え、ありがとぉ」
はっきり言って、音は耳の奥を震わせるくらいに聴こえてくる。だが、別に悪いとは思っていない。瑠璃も優愛も真剣に悩んでいることを知っているから。
「…瑠璃ちゃんって、凄く上手いのに、叩き方が駄目なんだよね」
「叩き方?」
すると優愛は両手を前に出す。
「打楽器って手首を使うんだよね。こう」
優愛は手首をしならせ、何度も振りかざす。よく分からない…というよりは、少し興味が湧いた。
「なるほどね」
優月が納得の声を上げると、優愛は引っ込めた手を鞄に突っ込んだ。
「そ。瑠璃ちゃんはそれが出来てないの」
「大変なんだね」
「まぁ、負けませんけどね」
すると指の中にケースがあった。自信気な笑みと同時、パカッと可愛らしい音を立ててケースが開く。
「それは何?」
優月が尋ねると、優愛はニコリと笑う。
「ねるち。ネイルチップだよ。優月くんも付けたでしょ?」
「…ああ、小学生のときかぁ」
優愛とは少し家は離れど、仲はかなり良かった。確かに優愛は指に何か付けていた。
アクアマリン色のネイルチップ。それを指に付けていく。彼女の小さな手と演奏している時の手。まるで別物に彼は見えていた。
「…優月くんも付ける?」
「え?」
「付けたいの?」
好きな人からの誘い。これは断れない…。
「いいの?」
「うん。サファイア色ならあるよ」
「じゃあ…、ありがと」
「どうぞ」
優愛は可愛らしく笑って貸してくれた。




