【Ⅺ】 すれ違いの章
小学4年生の春。
『嫌だよ…。やめたくないよ…』
ようやく治った擦過傷を撫でながら、幼い小さな手を見つめる。消灯と闇の世界へ落とされた少女。いつもは気持ちよく眠れるのに、今日は全く眠れない。震える瞳はただ過去を見ていた。
ただトラウマだった。
無理矢理、大好きな大太鼓を、親の反対でやめさせられた時のことを…。
目を覚ました瑠璃。
茂華町にある家は太陽の日照時間が、大内市と比べて短い。故に目覚めも少しだけ悪い。
「…いやだよぉ」
そんな事を考えるような瑠璃ではない。
急に幼少期のトラウマをちらつかされ、彼女は錯乱したように布団を握る。
「…いやだよぉ」
口から雫のように本音が溢れおちる。
「太鼓、やめたくない…」
やめたら辛い。そんな過去が、今も昨夜の言葉と相まって、色濃くと焼きついていた。
『あなたに、吹奏楽を始めさせなければよかった』
昨夜の母の不満そうな声に、瑠璃はただ過去から怯えていた。
しかし、今日も授業と部活は通常通りだ。時間は瑠璃の迷いを考慮してくれない。
「…はぁ」
「瑠璃、朝から髪がヘンだよ」
「えっ…?」
友達の伊崎凪咲に話しかけられる。
「そ、そうかなぁ?」
「鏡見てきたら?」
凪咲が言うと、瑠璃は髪の穂先を指でつついた。
「…気づかなかった」
「大丈夫?」
普段とは違う瑠璃の様子に、凪咲は少しだけ心配をしていた。
「…帰り一緒に帰らない?"ふたり"で」
「いいよ」
末、凪咲は部活終わり、瑠璃と一緒に帰ることにした。
しかし、その日の優愛の様子が変だった…。
「…優愛お姉ちゃん、こんにちは!」
「あ、瑠璃ちゃん…」
優愛は心なしか縮こまっていた。
「…なんかゴメンね」
「えっ…?」
謝られている意味が分からなくて、瑠璃は首を小さく傾げた。
「…始めよっか?」
「うん!」
しかし、優愛は今日…不調であった。
とこととん!
「わっ!」
「お姉ちゃん!大丈夫?」
「う、うん。大丈夫よ」
優愛は少し笑って、再びスティックを構えた。
その時だった…。
「今日は息が合いませんね?榊澤さんもいつもよりヘタですね?」
「あ…、すみません」
笠松が入ってきた。優愛は彼女へ小さく謝罪した。瑠璃はそれを心配そうに見つめた。
『やっぱり、瑠璃さんと喧嘩した?』
『えっ…?してないけど?』
優愛が不調。その理由は部活前の白夜との会話にあった。
『瑠璃さん、優愛ちゃんのこと、先輩として見てるか怪しいから』
『…前の土曜日、相楽先輩が来てね。そしたら瑠璃ちゃん、相楽先輩とすごく仲良くなってた』
『そうなんだ…』
『やっぱり、お姉ちゃんって建前かな?』
『どうだろうね?』
白夜は慎重深い性格だ。最悪の思考も当然のように頭へ入れている。
『…ただ瑠璃ちゃんに、聞いたほうがいいよ。優愛ちゃんは先輩なんかじゃない、って言ってたし』
優愛は瑠璃を『妹』というよりも『後輩』として扱っている。だから、先輩視されないのは大変ショックだ。
『もう…瑠璃ちゃんは、私のこと嫌いになったかな?』
『それは…絶対ないよ』
『でも、鍵盤ずっとやってたのに、いきなり2人だけで慣れない太鼓のコンクールに出て、って言われたら、嫌じゃない?』
『確かに、いくら太鼓が好きでも、私だったら嫌だよ。逆に好きな太鼓で皆に恥を見せちゃうもん…』
『好きなもので恥をかいちゃう…だよね』
優愛は瑠璃への不審感を更に募らせていたのだ…。
そもそも、優愛は瑠璃を『ただの後輩』としてしか見ていなかった。
帰りに瑠璃は凪咲へ、優愛の不調を話した。
「へー。榊澤先輩が不調…ねぇ」
「そうなのー。てか優愛お姉ちゃん、ずっと私の方見てきたんだよ」
「瑠璃を?」
「うん」
それはおかしいな、凪咲は思う。
「こんな時期にスランプかな?」
凪咲が独り言のように言葉を溢した。
「すらんぷ?」
その意味が分からず瑠璃は首を傾げる。トランプは知っているのだけれど。
「…調子が悪いってこと」
子供にも分かる言葉にして説明すると、瑠璃は目を細めた。
「…そうなんだ。どっか痛いのかな?」
「どうだろうね」
瑠璃は、彼女の不調の原因が、過去の発言だということに気付いていなかった。
「…でも、私が太鼓やってた時も、そんな時期があったなぁ」
その時、瑠璃が懐かしそうに言う。しかし凪咲はその表情に呼応するように笑い返す。
「だろうね。知ってた。元和太鼓奏者さん♪」
「…んッ、誰にも言わないでよね、それ」
「分かってるよ!」
瑠璃が『天龍にいた事実』を知る者は、当時凪咲たった1人だけであった。
家に着いた瑠璃。
「ただいまぁ〜!」
瑠璃が元気に帰宅を報せると、母が声をかける。
「瑠璃、ジャージから着替えたら、柿を剥くのを手伝って」
「あ、うん」
柿かぁ、と嬉しそうに瑠璃は、ジャージの袖を振り回して部屋へ入った。
パジャマと呼ばれる夜着に変身した彼女は、ピーラーで柿の皮を剥く。
「〜♪」
少しの力を込めて刃を縦へと落としていく。実から切り離された細長い皮が、力なくまな板へと横たわっていく。
「結局、部活では何してるの?」
すると母が小さな声でそう尋ねた。母はいつも考え事をしているのか、瑠璃の話を大抵覚えていないのだ。
「…おね、いや先輩とソロコンに」
「ソロコン。あなたなんかが出て大丈夫なの?」
「うん。伸びが早いって、この前笠松先生から褒められたよ」
「へぇ」
母の声からは何やら不安が滲んでいた。それに気づきながらも、瑠璃はへらりと笑って返した。
「…なら良いけど」
柿の色は真っ赤といえるほど熟れていた。12月前なのに、と思う。今年最後の柿なんだろうな、で瑠璃は何となく納得した。
「とっととん、とん!」
リズムを口ずさみながら、ゆっくりと皮を剥いていく。明日も楽しみだな、そう思っていた…。




