第4話 夜会の終わりに①
夜会は大詰めに差しかかり、まばゆいばかりのシャンデリアの光が会場をさらに豪奢に照らし出していた。高位貴族をはじめ、さまざまな地位の人々が思い思いに談笑やダンスを楽しみ、あちこちで杯を打ち合わせる音が響く。先ほどまでの曲が一度終わると、場内を彩っていた演奏家たちも小休止に入り、やや静けさが広がり始めている。やがて、この夜会の主催者が壇上へと姿を現し、客人たちへ向けて締めの挨拶をする段取りになっていた。
大広間の中央には、一段高い場所が設けられている。床とは異なる色のカーペットが敷かれ、そこから周囲を見下ろす形だ。夜会のクライマックスとして、この壇上に主催者が上がり、恒例のスピーチを行い、最後には王太子ジュリアンが挨拶を添える――それがこの夜会の流れであり、誰もが当然の儀礼のように認識していた。
ロザリア・グランフィールドは、フロアのやや奥でその様子を静かに見守っている。青と銀のドレスが、照明を反射して上品な輝きを帯びていた。表向きは落ち着いているように見えるが、実は内心でどうにも言えない焦燥感と疲れが渦巻いている。先ほどまでの時間、王太子ジュリアンとのやりとりは素っ気なく、肩透かしを食らったような冷たい空気が胸に残っていた。だが、今や夜会も最終セレモニーへ突入しつつある。もう余計な波乱は起こらないだろう――そのはずだった。
「……そろそろ壇上でご挨拶があるわね」
自分の胸中にそっと言い聞かせるようにつぶやく。もちろん、誰にも聞こえない程度の小さな声だ。周囲からはまだ少し話し声が聞こえるが、曲が休止したことで全体の騒がしさは先ほどまでより落ち着いている。人々の視線は自然と壇上へ向かい、主催者の侯爵が一歩前に出て、手を上げて合図した。
「皆さま、本日はご多忙の中お集まりいただき感謝申し上げます。夜もかなり更けてまいりましたが、いよいよこの夜会の締めくくりとして、最後にひと言ずつご挨拶をいただきたいと思います」
そう言って彼が舞台の端へ下がると、続けて何人かの有力貴族が短いスピーチを行った。どれも形式ばったもので、社交辞令や今後の発展を祈る言葉が中心だ。大勢の人々は、ある種のセレモニーをただ「儀式」として消化しているかのように思える。しかし、その儀式の後半には、王太子ジュリアンの挨拶が含まれることを誰もが知っていた。
「ロザリア様、殿下は今日もご挨拶をなさるのですよね? 楽しみですわ」
横合いから声をかけられ、ロザリアはかすかに肩をすくめる。声をかけたのは若い子爵令嬢で、いつも華やかな場に興味津々な様子を見せる女性だ。ロザリアは微笑みで返し、つとめて穏やかな口調で答える。
「ええ、そうなるでしょう。王太子殿下は、いつもこのような場では最後に一言いただくのが慣例ですもの」
「今宵はどのようなお言葉が飛び出すのかしら……すてきな宣言とか、何かあるかもしれませんね」
「さあ……私にはわかりかねますわ。殿下がお考えになっていることがあれば、きっと仰ってくださるはず」
若い令嬢は弾むように目を輝かせ、ロザリアのドレスを褒めちぎりながら離れていった。しかし、ロザリアはそれを見送った瞬間、一瞬だけまぶたを伏せる。先ほどの不穏な冷たさを思えば、ジュリアンが“すてきな宣言”などするはずもない、と彼女は胸の中で思いを巡らせる。何事もなく、無難に挨拶を終えて夜会がお開きになる。それでいいのだと自分に言い聞かせるしかない。
幾人かの短いスピーチが続いた後、やがて主催者が再び壇上の中央に立った。先ほどよりもさらに注目が集まり、会場は自然と静まり返る。最後の締めとして、王太子ジュリアンに挨拶をお願いする流れだと、誰もが思っている。ロザリアもまた、できるだけ端正な姿勢を保ち、ジュリアンが登場するタイミングに備えて心を落ち着かせようとしていた。
「それでは……王太子殿下、ジュリアン・アルディネス様。ご挨拶をいただけますでしょうか」
主催者の声が会場いっぱいに響く。すると、先ほどまで談話の片隅にいたジュリアンが、ゆっくりと壇上へ向かって歩き出した。人々の視線が一斉に彼へ集中し、深い礼や尊敬の眼差しがあふれ返る。彼はその注目を当たり前のように受けながら、壇上の中央に立ち、しばし周囲を見渡した。
「…………」
ロザリアは息を呑む。どこか遠巻きに感じるまなざしが、まさに今、自分をかすめた気がした。しかし、ジュリアンの表情には先ほどのような冷ややかさが宿っている。はたしてどんな言葉が告げられるのか――無難に終わるのであればそれでいい。そう願いながらも、胸の奥にいやな予感が広がっていくのを抑えきれない。
「皆さま……今宵の夜会、楽しんでいただけているでしょうか」
ジュリアンは高貴な声でそう話しはじめる。周囲が静まり返るなか、一部の貴族はかすかなささやきを交わしながらも、その言葉に耳を傾けている。ロザリアはその場に佇み、青いドレスの裾を握りしめそうになる手に力を込めた。まるで、何かが起こりそうだと警鐘が鳴っているようにさえ思えてくる。
「私も、皆さまが社交を楽しんでくださるのを大変嬉しく思います。こうして華やかな場があるからこそ、王都の活気が生まれ、貴族社会も円滑に回っていくのだと、あらためて感じるところです」
彼はやや儀礼的な言い回しを並べ、当たり障りのない言葉を続ける。一見、何も問題のない夜会の挨拶のように聞こえたが、ロザリアはその声のトーンにどこか上の空な冷たさを感じていた。自分がそばにいるわけではないのに、まるで目の前で冷風を浴びせられているような感覚だ。
「けれど、私は……いや、私自身にも変化が訪れています」
ジュリアンの声が微妙に沈むと同時に、壇上の周囲に立つ貴族たちがざわついた。ロザリアも思わず眉をひそめる。「変化」とは一体何を指しているのか。普通であれば、ここで王太子としての新政策や社会的な決断を少し語るくらいかもしれないが、なぜかそれにしては雰囲気がおかしい。
「実は……私には、新しい想い人ができたのです」
そのひと言が、まるで閃光のように会場全体を貫いた。重々しい空気が一気に弾ける。誰もが耳を疑ったようにジュリアンを見つめ、嘘だろう、と目をこするような仕草をする者さえいた。夜会が最終セレモニーを迎えるにあたり、どうしてこんな爆弾めいた発言が飛び出すのか。
ロザリアの胸は、荒々しい鼓動で満たされていく。体が固まってしまったかのように動かせず、瞳を見開いたまま息を詰まらせる。周囲はたちまち動揺の波が押し寄せ、あちこちで「新しい想い人?」とささやく声が聞こえた。ほんの一瞬にして、会場全体が騒然とし始める。
「……え?」
ロザリアは知らず知らずのうちに声を漏らしていた。自分の耳が間違いを起こしたのではと疑うほど衝撃的な内容だったからだ。王太子ジュリアンには婚約者がいる――そう、まさしく自分がその存在だというのに、どうして「新しい想い人」などという言葉が壇上から出てくるのか。頭が混乱する。
「きっと何かの冗談か、あるいは言葉の綾……? いいえ、殿下がそんな冗談を言うはずが……」
心がぐらりと揺れ、足元が崩れ落ちそうになる。周囲を見渡すと、貴族たちの表情は半信半疑、あるいは驚愕と困惑でいっぱいだった。彼らにとっても、王太子の婚約と言えばロザリアと結びついているのが当たり前。そこに「新しい想い人」という単語が飛び込めば、それが重大な変化を意味することは誰の目にも明らかだ。
「少し、静まってください。今、殿下がお話し中ですわ!」
主催者側の者が必死に会場を制止しようと声を上げるが、収まる気配はない。多くの人が「どういうことだ?」と口々に問いかけ、ある者はすでに狼狽しながら周囲とひそひそ話を交わしている。まるで、ここまで順調に進んできた夜会という舞台が、一瞬にして荒波に飲み込まれたかのようだ。