第3話 一瞬の対話③
こうして夜会がさらに進行していく中、ロザリアはまるで観賞用の華のように存在を維持する。誰もが彼女を眺めては「相変わらず美しい」「やはり王太子の婚約者だけのことはある」とささやくものの、肝心の王太子がそばにいないことで、微妙な違和感を抱く者も少なくなかった。
それでも、ロザリアはあくまで自信満々な振る舞いを崩さない。傲慢さと気高さが同居したその雰囲気が、周囲を圧倒しつつも孤独を纏わせている。誰も彼女の本心に踏み込むことはできないし、彼女も周囲に寄りかかろうとはしない。
さらに時間が経ち、ダンスの合間に一層華やかな曲が始まると、一部の貴族が盛り上がって拍手をし、「ロザリア様も踊られたら?」と誘いをかけてくる声があった。しかし、当然ロザリアは遠慮なく断りを入れる。
「申し訳ありませんが、今夜は踊る気分ではございませんの。お気遣いに感謝いたします」
そう告げると、相手も引き下がらざるを得ない。もともと彼女は、王太子殿下と踊ることが暗黙の了解になっている。ここで他の男性と踊るとなれば、かえって周囲の注目や噂をさらに煽るだけだ。ロザリアにしてみれば、夜会とは名ばかりの苦しい舞台に思えてきた。
(本当は、少しでも殿下と――。いや、もうよしましょう。自分がみじめになるだけだわ)
心のなかでそっと吐息をつき、ロザリアは隅のテーブルに用意された軽食やグラスに目をやる。さすがに口にする気があまり起こらないが、少しでも視線を逸らして、寂しい心のうちを悟られたくなかった。
ふと遠目にレオンの姿を探してしまう自分がいる。だが彼は見当たらない。子爵家の嫡男として、きっと別の人々との交流に努めているのだろう。ときおり近くを通りすぎる給仕たちも、彼女に声をかけることなく、そっとスルーしていく。
「……まるで私は一人、取り残されているみたい」
誰にも聞かれない程度の小さな独白が、胸にぽたりと落ちる。この夜会はいつもと同じ華やかさを持ち、周囲には人が集まり、音楽や笑い声が途切れない。にもかかわらず、ロザリアの心はどこか氷のように冷め切っている。ジュリアンの冷淡な態度、周囲の期待、そして自分のプライドが、どれも重くのしかかってくるのだ。
そんなこんなで人波を漂うように歩いていると、いつの間にか会場の端に来ていた。カーテンが揺れる窓際で、外の夜風が少し入り込んでいる。この場所はほとんど人目が及ばない小さなスペースで、彼女はそっとグラスを置いて袖を軽く揺らした。まるでドレス越しにこもる熱を逃がしたいかのように。
そこでちらりと見回すと、遠くのほうでレオンがこちらに視線を向け、焦るように身を引いたのが見えた。彼なりにロザリアを気遣っているのだろう。しかし、彼女は何も言わず小さく首を振り、意図的にそのまま踵を返す。
「心配なんて無用ですわ。私は大丈夫ですもの」
そう心の中でつぶやきながら、結局再度メインフロアへと向かって足を踏み出す。王太子ジュリアンとの会話は最短かつ味気ないもので、ロザリアにとって大きな失望を抱かせる内容だったが、今夜はもう期待するだけ無駄だろう。彼女はその現実を受け入れることにして、自分が笑みを保てるうちに、夜会の場を乗り切るしかないと腹をくくった。
ただ、周囲からはちらちらと視線が向けられ、「婚約者である王太子とあまり絡まない公爵令嬢」という図に、かすかな噂が立ち始めているのを感じる。あえて聞こえないふりをする以外に手はないが、ロザリアの耳にはその断片が確かに届いていた。
「ちょっと様子がおかしくない? いつもならもう少し華やかに挨拶を交わしていたはずよね」
「ええ、殿下も彼女にあまり目を向けていない様子。何かあったのかしら……」
こうしたささやきを完全に無視する強さを持っているつもりでも、やはり胸にひっかかる。ロザリアはそれを押し殺し、あえてさらに笑みを深くしている。一人でも多くの貴族と形式的な会話を交わし、「公爵令嬢としてのロザリア」を守り抜く作業に励む。
夜はまだ終わりが見えず、音楽も切れ目なく流れている。ロザリアはいつしか大きな時計を見上げ、小さく苦笑した。こんなにも長く感じる夜会は久しぶりだ。どれほど神経を張り詰めていたとしても、いつかは限界が来るだろう。
それでも、弱音を見せるわけにはいかない。レオンの遠い視線や、ジュリアンの冷淡な挨拶、周りの貴族の好奇の目。すべてを受け止め、きちんと表面を整えるのが、これまで培ってきたロザリア・グランフィールドの生き方である。
(何があろうと、私は私。婚約者がどうであれ、この夜会では公爵令嬢としての立ち振る舞いを全うするだけ)
そうして改めて決心を固めながら、彼女は夜会の騒がしさの真ん中で凛と立ち続けた。周囲に集まる人々はいつも通りの敬意を払い、あるいは興味本位で言葉をかけてくるが、そのどれもが形式的で、彼女の本音に触れることはない。
まるで遠くから見れば絵画のような光景だ。青と銀のドレスを纏い、微笑みを絶やさない公爵令嬢。そのそばに、守るべき婚約者はいない。けれど、誰もそれを真正面からは指摘しない。ただ、華やかな音楽と装飾の洪水の中で、ロザリアの美貌と孤立感が際立っていた。
遠くからこの状況を見守っているであろうレオンのまなざしを感じ取っては、ロザリアはわずかに胸がざわめく。しかし、彼女はあえてそちらを振り向くことなく、飽くまでプライドと毅然さを前面に押し出して踵を返す。今は、誰も心配する必要などない――そう思い込むしか救われない気がした。
夜会の灯がますます熱気を孕み、溶けるように続いていく。今日という一夜を終えれば、またいつもの日常に戻るだけなのだろう。だが、ロザリアは知る由もなかった。この夜会が、彼女にとっての転機の序章になることを……。それはまだ、この段階では本人にすら見えない未来の話。
その場を早々に引き下がる決断もできず、むしろ夜会がもたらす世間体を守るために残り続ける。完璧に着飾ったまま、公爵令嬢としての役目を果たそうとする。それが彼女の誇りでもあり、同時に心を守る最後の手段かもしれない。だが、王太子ジュリアンの冷たい対応がロザリアの胸に深く刺さっているのは、紛れもない事実だった。
どこかで淡い寂しさに苛まれながら、ロザリアは夜会の喧騒に身を委ねる。微妙に沈んだ空気は隠し切れず、それが表に出るたび、周囲の貴族たちが怪訝な顔をする。あるいは、「二人の間に何かあったのでは?」という新たな噂が広がるかもしれない。そんな最悪のシナリオさえも想像しつつ、それでもロザリアは完璧を装う。自分が「無傷」でいるためには、そうするしかないからだ。
そして、夜会のざわめきに紛れてどこかへ消えたジュリアンを横目に、彼女は心の中で小さく自問する。
「……殿下、一体私に何を求めているの?」
答えはない。彼女の耳に届くのは、高らかな音楽と貴族たちの笑い声だけ。フロアにはまだ踊りが続いていて、きらびやかな装いの人々が流れるようなステップを踏んでいる。ロザリアはその光景を横目に見ながら、胸の奥にわだかまる熱を冷ますように、ゆっくりとまぶたを下ろした。
そうして再び視線を上げる頃には、彼女の表情には決して崩れない微笑みが戻っている。公爵令嬢としての傲慢さと気高さは、誰にも落とせない仮面となって立ち上がっていた。やがてロザリアは周囲から浮かび上がるように、夜会の喧騒へとまた一歩足を踏み入れる。どんなに胸が乱れても、少なくとも今夜の終わりまでは、完璧な貴族令嬢としてそこに留まるしかないのだ――。