第29話 高まる重圧①
公爵家の石造りの廊下を、ロザリア・グランフィールドはゆっくりと歩んでいた。大きな窓から差し込む日差しが、床の上に柔らかな模様を描いている。つい先日まで、夜に作業をこなす日々が続いたためか、こうした昼間の時間に屋敷内を散策するのは久しぶりのことだった。
両脇に並ぶ使用人たちが深々と頭を下げるのを受け流しながら、ロザリアは気がかりな報せがあることを思い返す。どうやら社交界の一部から、「再び王太子妃として戻るべきだ」との声が上がり始めているという。噂の発信源は決して多くはないが、有力な貴族の名もちらほら聞こえると聞く。
この状況にどんな意図があるのか。婚約破棄され、「裏切り者」扱いで陰謀に陥れられている彼女が、今になって「やはり王太子妃になりうる立場だ」と推され始めるなど、不可解だ。だが、そこにはエレナを快く思わない派閥が動いている可能性があるとも考えられる。ロザリア自身はまだ疑念を捨てられないが、少なくとも「ロザリアの名誉を回復し、王太子の傍に再び戻すべき」という意見が台頭しているのは事実らしい。
「こんな私を、今さら王太子妃に推そうというなんて……何を考えているのかしら」
独り言に近い声を零しながら、ロザリアは廊下の端にある柱の横で立ち止まる。彼女が公爵家で自由に振る舞えるのは、ほんの限られた空間だけだ。外に出れば誹謗中傷が絶えず、エレナ派の激しい妨害も続いている。それなのに、社交界の一部から「王太子妃復帰」を求める声が上がるなんて皮肉と言わざるを得ない。
とくに、両親――グランフィールド公爵夫妻の動向が気になる。婚約破棄以降、公爵家の名誉は著しく傷ついた。それを何とかして回復したいという思惑があるのは、ロザリアにもわかる。だが、いまさら王太子と再度結びつく道があるのかどうか、本人のロザリアが最も疑問視しているのだ。
「お嬢様、失礼いたします」
使用人の一人が小走りで近づき、ロザリアに話しかける。どうやら両親が今すぐ会いたいと呼んでいるらしい。ロザリアはため息をつきながら、「わかったわ、すぐ行く」と告げる。頭の片隅には嫌な予感が漂う。きっと、両親は「王太子妃復帰」に何らかの希望を見いだしているに違いない。公爵家の威信を取り戻すために、娘を再び王家に結びつけようとするのではないか――そんな予測が頭をかすめる。
重厚な扉を開けて入った先は、書斎風の一室。そこに公爵と公爵夫人が落ち着かない様子で座っていた。ロザリアの姿を見るなり、公爵夫人のほうが先に口を開く。
「ロザリア、待っていたわ。大事な話があるの。最近、社交界であなたを王太子妃に戻そうという声が高まっているのだけれど……あなたはどう思う?」
「どう思う、と言われても。私はあの夜会で婚約破棄された身ですわ。今さら戻れなんて、正直言って荒唐無稽だと思います」
ロザリアの答えに、公爵夫人はわずかに眉をひそめてしまう。隣に座る公爵も沈黙していたが、やがて低い声で言葉を継いだ。
「しかし、陰謀が明るみに出れば、お前が不当に婚約を破棄されたことが公になる可能性がある。そうなれば、王太子殿下との関係が修復されてもおかしくはない。むしろ、公爵家の名誉を考えれば、そのほうが好都合ではないか」
「それは……父様も母様も、私を再び殿下のもとに送り込みたいということですか」
ロザリアが厳しい口調で返すと、公爵夫人は苦い表情を浮かべ、少し言葉を選ぶように口を開く。
「わたくしたちとしても、あなたが辛い状況に置かれているのは重々わかっているわ。けれど、グランフィールド公爵家の名誉を回復するには、『王太子の婚約者』という座がどれほど大きな意味を持つか、あなただって理解しているでしょう?」
「……確かに、王太子妃という地位は大きい。けれど、私はもう婚約破棄されているのよ。あの方に『新たな想い人がいる』と公言され、しかも私が裏切り者とまで扱われたんです。それを取り繕うのは簡単じゃないわ」
両親は明らかに家の名誉を何より優先しようとしているように見える。ロザリアが名誉を取り戻し、陰謀を暴く先にある一つの結末として、「王太子殿下との婚約再興」が選択肢に浮かんでいるのだろう。だが、ロザリアの胸には抵抗感が強く押し寄せていた。
なぜなら、最近になってレオン・ウィンチェスターに対して再び意識し始める感情が大きくなりつつあるからだ。王太子との復縁など考えたくもない。むしろ今は、子爵家の彼と戦いをともにする中で心を通わせているのを、薄々自覚している自分がいる。
「王太子とのことをお前自身がどう思っているかは知らないが、陰謀さえ晴れれば殿下もお前の努力を認めるかもしれない。わしらとしては、公爵家のためにも大いに検討してほしいのだよ」
公爵の重々しい口調に、ロザリアは言葉を失う。それが「家の名誉を最優先」する親の本音なのだろう。実際、長年グランフィールド公爵家は王家と強固な結びつきを持ってきた。娘が王太子妃になることで得られる利益や地位は計り知れない。
黙っていると、公爵夫人が追い打ちをかけるように語る。
「エレナという伯爵令嬢があまりに悪質な陰謀を張り巡らせているのなら、いずれ王太子殿下も目を覚ますでしょう。そのとき、殿下が改めてあなたを求める可能性はあるわ。もしそうなったら、あなたはどうするの?」
「わたくしは……」
一瞬、レオンの顔が頭をよぎる。もし殿下が手を差し伸べてきても、自分の気持ちがどう応じるかはわからない。王太子との過去は深いが、あの婚約破棄の痛手が残っているうえ、そもそもロザリアは今、レオンへの想いを秘かに膨らませているのだから。
「もし、万一殿下との復縁が実現すれば、公爵家の地位は完全に回復するばかりか、エレナ派も一気に崩せるわね。あなた自身の名誉も揺るぎなくなる。子爵家の青年とどうこうするより、ずっと安定した未来が待っているのではないかしら」
公爵夫人がそんな言葉を口にするのを耳にして、ロザリアは鋭い眼差しを向ける。やはり両親も、レオンの存在を軽く見ているのだろう。単に子爵家の跡取りにすぎない、と。
王太子の婚約者であることが、どれほど大きな権威を生むかは重々承知しているが、ロザリアの心はすでに王太子から離れている可能性が高い。しかし、彼女がそれを大声で否定すると、あまりにも親を刺激してしまう。噂にまみれた中で、さらに親子関係が崩れるのは避けたい。
「……わたくしは、この陰謀が完全に暴かれるまで、殿下にどうこうされるつもりはないわ。かりに殿下が私に謝罪してきたとしても、簡単に受け入れられないし、婚約を戻すなんて夢にも思っていません」
「ロザリア、それでは家の行く末はどうなる。もう少し柔軟に考えてほしい。グランフィールド公爵家は、伝統と名声を守らねばならないのだよ」
公爵が語気を強めるなか、ロザリアは心の中で葛藤していた。家を救うためには、王太子との復縁が最も手っ取り早い――頭では理解できるが、自分の中でどうしても承諾できない。あの酷い仕打ちを許せないばかりか、いま芽生えつつあるレオンへの想いが膨らみ始めているからだ。
それでも、両親の言い分を全否定してしまうと、屋敷の中での立場が難しくなる。ロザリアは苦しげに唇を噛み、短く息を吐く。
「もう少し時間をちょうだい。今はエレナ派との闘いが大切です。わたくしが動揺しては、せっかくつかみかけている証拠も生かせません。殿下とのことは、それが片付いてから考えましょう」
「……そうか。まあ、今はそれでもいい。だが、いずれは家のために大きな決断を迫られる可能性があると心得ておけ。わしらもお前が辛い思いをしてきたのは知っているが、グランフィールド公爵家もまた大きな危機に瀕している」
「わかりました。お父様、お母様。失礼します」
ロザリアは深く頭を下げ、部屋を後にする。両親が何を望んでいるか痛いほどわかった。自分の名誉回復を利用して、王太子妃の座を再び取り戻させたいのだ。それが家の名誉を完全に復活させる近道になると、彼らは考えている。
廊下を歩きながら、ロザリアはまるで胸をえぐられるような疲労感を覚えた。両親にとっては「理想の帰結」かもしれないが、自分の心はすでに王太子から離れ、レオンに傾きつつある。しかも王太子との婚約が戻るなど、レオンに対する想いを踏みにじる形になりかねない。
「どうすればいいの……。いまさら王太子との将来なんて、想像すらできないのに」
つぶやく声は震えていた。エレナ派との戦いが進むほど、ロザリアを担ぎ上げる声が高まるかもしれない。そうなれば、親だけでなく一部の貴族からも「王太子妃復帰」を強く推される危険がある。そんな未来は避けたいが、状況次第では逆らいにくいのも現実だ。




