第3話 一瞬の対話②
会場の奥の方へ足を運ぶと、ダンスフロアから一歩外れた辺りに小さな一角がある。そこは談話やちょっとした打ち合わせにも使えるスペースで、今は人が少ない様子だった。ロザリアはそのソファの背に手を添え、軽く頭を垂れるように小さく深呼吸をする。
「……ジュリアン殿下、何か事情があるの……? 私には話してくれない理由があるのかしら」
独りごちる声はごく小さい。虚ろな気持ちを抱えたまま、彼女は自分の心を奮い立たせようとする。自分はグランフィールド公爵家の令嬢、簡単に弱音を吐いてはいけない。周囲の人々が期待する立場を守らなければならない。それがロザリアがずっとやってきたことだ。
だが、それでも心の痛みはどうしようもなかった。こんなにも冷ややかな対応をされると、周囲が注目する夜会であればあるほど胸に突き刺さる。表向きは優雅に微笑むしかないのに、それに報われる気配はまるでない。
「ロザリア様、ご体調でも崩されたのでしょうか……?」
声をかけてきたのは、たまたま近くを通った爵位の低い貴族らしき男性だった。親切そうに心配を寄せてくれたが、ロザリアはすぐに笑みでごまかす。
「いいえ、大丈夫ですわ。ただ少し、喉が渇いたので休憩しているだけです。お気遣い感謝いたします」
「それなら安心しました。あまりご無理なさらないでくださいね。せっかくの夜会ですし……」
「ありがとうございます。そういたしますわ」
ロザリアがそっと会釈をすると、彼は気を使ったのか深くは追及せず、そのまま離れていった。ある意味ありがたい対応である。彼女は改めて背を伸ばし、できるだけ堂々とした立ち姿を取り戻す。自分のプライドをここで投げ出すつもりはない。
そんなとき、不意に遠目で視線を送ってくる気配を感じた。ちらりとそちらを見やると、先ほどは姿が見えなかったレオン・ウィンチェスターの姿があった。彼は少し離れた場所から、こちらを心配そうに見つめているようだ。周囲に気づかれないようにサッと目をそらしたが、その一瞬でロザリアは複雑な感情を覚えた。
(彼にまで心配されているようでは、私はまだまだですわね……)
心の中でそう自嘲しつつ、あくまで視線を戻すことはしなかった。幼馴染とはいえ、今の彼女にとって公の場でしっかりと接触するのは望ましくない気がしたからだ。ましてやジュリアンとの婚約があるにもかかわらず、その上、王太子とロザリアの関係がこのように微妙な空気を伴っている状況なのだから。
レオンがどんな思いでこちらを見ているのかまではわからないが、ロザリアには彼に甘える余裕も、取り繕う必要もない。そう言い聞かせるようにスカートの裾を整えると、もう一度夜会のメインフロアへと足を向けることにした。ここで一人塞ぎこんでいると、さらに周囲の憶測を呼びかねないからだ。
ダンスフロアのほうに戻ると、さっきまでとは異なる曲調が流れている。テンポの遅い優雅な音楽が、場の雰囲気を大人びたものに変えていた。貴族たちは引き続き楽しげにステップを踏み、楽しそうに笑顔を交わしている。王太子ジュリアンの姿は見当たらない。おそらく別の部屋か、あるいは邸内のどこかへ足を運んだのだろう。
ロザリアは周囲の貴族たちから誘いを受けることもなく、また自ら誰かを誘おうという考えもなく、ただその光景を端で眺める。目に映るのは仲睦まじい夫婦や、まだ婚約前の若いカップル、あるいは交渉の一環で踊っている者もいる。かつてはジュリアンと共にこのダンスフロアを歩み、それなりに周囲から羨望の眼差しを集めたこともあるのに、今やその相手は自分の近くにすらいない。
「……大丈夫。私が弱音を見せるわけにはいかない」
自らを奮起させるようにつぶやき、軽く肩を落としかけた姿勢を整える。すぐそばを通り過ぎる貴族が彼女のドレスをちらりと見て、目を輝かせているのが視界に映る。そう、その視線こそが、グランフィールド公爵令嬢としての責務を彼女に思い出させる。どれだけ自分の内部が乱れていても、美しく、そして気高い存在であらねばならない。
そのとき、別の貴族夫人が彼女に声をかけてきた。ロザリアはすぐに反応し、穏やかな笑みで応対する。
「ロザリア様、今宵も一段とお美しゅうございますね。先ほど殿下と少しお話されているところを拝見しましたが……何か、新たなお知らせなどはないのでしょうか?」
「いいえ、特にそういったことは。殿下もお忙しいご様子でしたし、私も多くの方にご挨拶しなくてはなりませんもの。あまり長くお話しする時間がありませんでしたの」
「まあ、そうですの。殿下はやはりお忙しいですわよね」
夫人はさりげなく探りを入れているように見えたが、ロザリアはそこで余計な情報を漏らさない。彼女はにこやかに「ええ」と肯定しつつも、それ以上の話題には触れず、かといって失礼のないよう会話を続ける。こうしたやりとりを重ねるうちに、ロザリアは自分の心を落ち着かせる術を少しずつ取り戻していた。
(殿下がどう考えているのかはわからない。けれど、この夜会で波風を立てるつもりはないわ。私は私の役割を果たすだけ)
そう自分に言い聞かせながら、彼女はダンスを楽しむ人々の合間を縫い、ぐるりと広間を一周するような形で動いた。ロザリアが足を運ぶたびに、誰かが「グランフィールド公爵令嬢……」とささやき、ひそかに視線を送ってくる。嬉しく思うか、重荷に感じるかは彼女次第だが、今はせめて周囲に見とがめられないようにするのが最優先。
やがて別室から出てきた使用人が、王太子ジュリアンの動向について小声で話すのを聞いた。どうやら殿下は一時的に会場を離れ、主催者である侯爵家の者たちと打ち合わせをしているらしい。そうであれば、なおさらここでロザリアが彼を探し回るのは無意味だ。
「もしかして、一緒に踊る機会もないまま今宵は終わるのかしら……」
思わず口をついて出た言葉に、ロザリアは自分で驚く。普段は決して口にしない類の寂寥感がそこに含まれていたからだ。婚約者である以上、会場に一緒に姿を見せるのが自然なのに、それすらままならない現実。王太子という立場ゆえの公務があるのか、それとも単に興味を失ったのか――答えはわからない。
それでも、ロザリアは諦めるしかない。自分が追いすがるような姿勢を見せれば、かえって屈辱や噂の的になる可能性が高い。この状況で、堂々と気高さを保つことこそが、グランフィールド公爵令嬢の誇りなのだ。
ふと、視線の端にまたレオンの姿が見えた気がして、彼女は一瞬だけはっとする。先ほど見かけたときよりも、彼はさらに遠巻きにこちらを見守っているようだったが、すぐに人混みに紛れてしまった。その存在は彼女の胸に何かしらの意識を刻ませるが、今は余計な波紋を広げたくないという思いの方が強い。
「……気を遣われているのは私の方かもしれないわね」
レオンが心配そうに見つめていたのは、きっとロザリアが王太子とのやりとりで浮かべていた微妙な表情を感じ取ったからなのだろう。もちろん、それは彼女には嬉しい気遣いとは言えない。公爵令嬢である自分が、子爵家の嫡男に同情されるなど、プライドが許すはずもない。
ロザリアは軽く首を振り、想いを振り払うように再び微笑みを作る。夜会はいまだ盛り上がりを保ち、音楽が小休止を挟むことはあっても、人々の熱はさほど冷めない。一方で彼女自身は、重苦しい気配を胸に隠したまま、ただ形式的なやり取りを続けていた。