第23話 振り返る関係②
ジュリアンは書斎の椅子にもたれかかり、頬に手を当てる。あのとき、「こんなに楽に話をできるなら、もっと早く彼女に出会いたかった」とさえ思った。自分にとってエレナは救いだった。だが、一連の婚約破棄騒動を経て、今になって見ると、その優しさがどこか「都合のよい」共感だった可能性が高いと疑わざるを得ない。
彼女の言動を振り返ると、あの言葉の選び方やタイミングが、まるで先回りしてジュリアンの弱点を突いていたかのようだ。それが彼を救うどころか、ロザリアとの関係を一気に破局へ導いた大きな一因となったと考えると、多少なりとも計算があったのではないかと思わずにいられない。
「エレナ……君は本当に私を想ってくれていたのか? それとも、誰かが君を使って私を操作していたのか?」
声に出して問いかけても、答えは返ってこない。当時、ジュリアンはエレナに惹かれるまま、彼女が示す優しい言葉に救われ、周囲の誘導を受け入れていた。「ロザリアの婚約破棄」という形で、全面的に新しい愛へ舵を切ったが、それがあまりにも早かったのは、あのときエレナの周囲が巧妙に働きかけていたからではないか――そう思うと、胸が冷たくなる。
彼女はいつも控えめだったが、決して影だけに徹するわけではなく、タイミングを見計らって殿下に提案を投げかけてきた。時には小さな茶会や、慰労のための会合を提案する。ジュリアンが承認すると、そこに有力貴族が集められてエレナと顔を合わせ、「伯爵令嬢エレナは気立てが良い」という評判を大きく広める機会に変わっていた。あれがすべて自然に進んだわけではなかったかもしれない。
「しかも、その頃から、誰かがロザリアの『裏切り』に関する文書を私の耳に入れようと躍起だった。私はそれに乗せられて……」
ジュリアンは息を詰まらせる。ロザリアを疑うための材料を、当時はやけに容易に手に入れられた。ロザリアが本当に裏切るはずがないと薄々思いつつ、追いつめられた王太子の弱さを突かれ、「新しい愛」を求めたいという気持ちが先行してしまった結果、「裏切り」を信じてしまった。そこにエレナやその派閥の巧妙な策略があったのだろうと、今のジュリアンは思えてならない。
(いま振り返ると、すべてが整いすぎていた。私はただ、ロザリアから逃げたかっただけなのに、それに応じてエレナが差し出す癒やしが用意されていたかのようだ)
あのときは「殿下のお心を最優先に」と微笑みながら、エレナはまったく厳しさを求めなかった。ロザリアは王太子としての理想をジュリアンに望み、それが苦しかった彼は現実逃避をしたかっただけ。そこにエレナが現れ、言葉巧みに共感し、ロザリアの悪評を広める動きが同時進行で進んでいった――。
改めて思い返すと、すべてが不自然なほどスムーズだ。通常、王太子の目に留まるためには相応の時間や手続きが必要だが、エレナの場合は瞬く間に公務や行事へ顔を出し、周囲の貴族たちから「新しい愛」として認められるに至った。これが自然発生的に進んだとは到底信じがたい。
「だけど……私はもうエレナを、ただの儚い女性とは見られなくなっている」
控えめな笑顔の裏にある、計画的な視線や言葉遣い。彼女の周囲を取り囲む貴族派閥の気配。そして、ロザリアが失脚して以降、エレナは短期間で王太子の隣を堂々と得て、さまざまな行事を主導する立場になっていった。そう考えれば、エレナが自分に投げかけた優しさや共感も、すべて計算の産物だったかもしれない――この疑惑を捨て去ることができない。
「ロザリアを見捨てたのは私だ。でも、その裏で誰かが糸を引き、エレナはその駒として動いていたのなら……私は王太子として、あまりにも惨めじゃないか」
彼はもう一度デスクの上に両腕を置いて、その上に頭を沈ませる。あの儚げな微笑みに救われたと思った自分は、果たして本当の愛を得たのか、それとも利用されただけなのか。今となっては区別がつかなくなっている。実際、エレナが王太子の心に入り込んだ後、王宮内の書簡や行事に次々と彼女の名前が記され、それを周囲が当たり前のように受け入れる光景が生まれたのは、この国の伝統的な手続きから見ても異例だ。あまりに手際が良すぎる。
(私は「新しい想い人」としてエレナを選んだと宣言した。あれからは後戻りできない。ロザリアとの婚約は破棄し、多くの場で「私の隣はエレナ」と認められつつある。もしもエレナが本当に純粋な心で私を想ってくれているなら、それはそれでいいのかもしれない。だけど、どうしてこんなにも私の弱みを突くように行動できるのか――)
沈黙の中で時間が過ぎ、やがて夕暮れの気配が書斎の窓を薄暗く染め始めた。ジュリアンは頭をもたげ、昏々とした思考を中断するように喉を鳴らす。今は会議も終え、執務に一区切りをつける時間だが、気が滅入ったままで仕方がない。侍従を呼べば「エレナ様がお待ちです」とか「貴族たちが次の茶会の打ち合わせを」などと告げられるのが目に見えている。
彼女に惹かれた自分の気持ちは嘘ではない。それは事実だ。威圧的な何かを求められるのではなく、ただ「あなたがあなたのままでいい」とささやいてくれる存在がどれほど救いだったか――そこに偽りはないはず。だが、その一方で、急激に彼女を取り巻く派閥の動きや、裏で広まっていたロザリアへの中傷が絡むと、あまりにも出来過ぎのように思えてくるのだ。
「私の弱さを見透かして、その空白にするりと入り込んだのがエレナ。そんな図式が成り立つのなら……私は完全に『都合のいい王太子』として操られていたのかもしれない」
彼は軽く頭を振って独り言を噛み殺す。たとえエレナの裏に派閥がいようと、実際に助けられた感覚を否定するのは苦しい。しかし、ロザリアとの決別があまりにスピーディーで、そして惨いやり方だったのも事実。周囲の誘導を望むままに受け入れてしまった自分に対して、ジュリアンは強い自己嫌悪を覚える。
それでも、彼はまだエレナを完全に否定しきれない部分がある。その矛盾こそがジュリアンの苦悩の根源だった。彼女が差し伸べた優しさは本当に嘘だったのか? 計算だとしても、そこに少しの真心はなかったのか? その答えを持たないまま、王太子として日々をこなさなければならないのだ。
「ロザリアがどんな思いで私のもとを去ったか、もう一度きちんと考えるべきだったのに……。あの夜会の騒動は、私が与えられた『裏切り』という情報を鵜呑みにしてしまった結果。もしあれが捏造なら……私は取り返しのつかない罪を犯したことになる」
胸をかきむしるように苦しむ。この世界で最も愛され、尊敬を集めるはずの王太子が、内心ではこうして自分を責めているなど、誰が想像するだろうか。ロザリアが突き止めようとしている陰謀の存在を、彼はまだ明確にはつかんでいないものの、本能的に「これはおかしい」と感じている。
エレナに関する動きが加速しているほど、ジュリアンの心に疑問が膨らむのだ。「なぜ、こんなにも短期間で私の周囲を固め、王太子としての名前を利用して行事を連発できるのか?」と。彼女への好意があったからこそ、そこに目を背けてきたが、今になっては不自然さを抑えきれない。
「もう少し……もう少しだけ、私はこのまま黙っていたら、いったいどうなる? ロザリアが傷つき続けて、エレナが王宮を思うがままに牛耳るのか。それが果たして王太子として『正しい』姿なのか……」
暗い部屋のなか、ジュリアンは立ち上がって一度だけ深呼吸する。どうやら、そろそろ侍従を呼んで王宮の夜の行事に顔を出さなければならない時間が近い。だが、彼はわずかながら決意が揺らいでいる。昔の自分なら、「王太子としての義務だ」と割り切って出ていっただろうが、今は心のどこかで「こんな行事をする理由は何だ」と疑問を抱いてしまう。
(エレナ……君はどうしてあそこまで私に優しかった? ただ弱さを受け止めてくれただけなら、ロザリアとは違う意味で私を救ってくれたのかもしれない。でも、その過程で裏でロザリアを貶める動きがあったとしたら……私は……)




