第23話 振り返る関係①
王太子ジュリアン・アルディネスは、半ば投げ出すようにデスクに置かれた書類へ視線を落としたまま、身じろぎもせずにいた。
書斎の窓際には昼間の名残がかすかに差し込み、薄暗くなる前のわずかな光が床を照らしている。空気はしんと静まりかえり、物音ひとつしない。侍従たちは「殿下がお疲れだ」と感じ取り、しばらく一人にしておこうと判断しているのだろう。
ジュリアンは誰もいないこの空間で、ほんの少しだけ自分の思考に浸り込む時間を得ていた。手元の書類は、エレナ・クレイボーンが提案してきた次の行事計画に関する確認事項。数多くの貴族名が連なり、準備を急ぐ必要がある旨が記されている。しかし、ジュリアンはその一文字も目に入らないかのように、意識を遠い記憶へと飛ばしていた。
――エレナ・クレイボーン。
あまりにも儚げで優しい微笑みを浮かべる彼女と初めて会ったのは、王宮の庭園の一角だった。思えば、その出会い自体がいかにも「準備された」ような偶然だったのかもしれないと、今になって思う。ロザリアとの関係に息苦しさを感じ始め、周囲の貴族や官吏たちからの重圧に押しつぶされそうになっていた時期。
当時、ジュリアンはロザリアとの婚約に疑問を抱きつつも、周囲の期待に応えるために、そのまま婚約者としての彼女を受け入れるしかないと思っていた。だが、どうしても自分が相応しくないように感じられ、彼女が完璧な王太子妃候補であるほど、そのプレッシャーに押し潰されていたのだ。
そうした鬱屈を抱えていた折、王宮の片隅の小さな噴水の前に、儚げな女性が立っていた。それがエレナとの最初の邂逅だった――と、彼は記憶している。
「殿下、もう少し気を楽に持たれては……」
そのとき、近侍に促されて足を向けた先に、淡い色のドレスを身にまとった伯爵令嬢が、礼儀正しく一礼していた。深い青紫の瞳が印象的だったが、その瞳はどこかか弱い光を宿しており、まるで小動物のように彼を見上げていた。ロザリアにはない、かすかな「依存」を感じさせる雰囲気。ジュリアンはそれまで「完璧さ」に圧倒されることに慣れすぎていたせいか、この控えめな立ち居振る舞いに安堵したのを覚えている。
「殿下……王太子としての責務はとてもおつらいでしょうね。もし私がお役に立てるなら、些細なことでもお聞かせください」
そう言って穏やかに微笑んだエレナ。初対面のはずなのに、彼女はあまりにも自然にジュリアンの孤独へ寄り添う言葉をかけてきた。今思えば、その言葉の選び方、間の取り方が見事なほど巧妙だったのかもしれない。けれど、当時のジュリアンは疲れ切っていて、誰かに理解してもらえるなら救われるという思いにすがるように、エレナと会話を重ねてしまったのだ。
――ええ、あのときのエレナは「殿下の弱さ」を求めてくれるかのように振る舞っていた。
ロザリアにはできない柔らかさがそこにはあった。ロザリアは厳しくも正しい振る舞いを示し、王太子を軸として支えるタイプだった。だが、ジュリアンが抱える孤独や劣等感、疲れ切った心を真正面から癒やすような場面は多くなかった。「殿下がふさわしい姿であらねばならない」という共通認識が強かったからだ。
その一方で、エレナは「殿下のお心がどうか軽くなりますように」と語り、一切の厳しさを求めなかった。王太子としての責務よりも、一人の青年としてのジュリアンを大切にしてくれるかのような甘いささやきを、さりげなく繰り返した。ジュリアンの弱みに刺さるその優しさに、彼はまるで水を得た魚のように安堵したのだ。
「……そうやって、私はエレナを信用してしまったんだな」
自室の書類を前に独りごちる。あのときは「ロザリアが相手では息苦しい」という自分の欠点を隠すためにも、「癒やし」を求めてしまった。そんなジュリアンの複雑な感情を、エレナは読み取っていたのだろう。
彼女は王宮の茶会や小さな集まりに巧みに姿を現し、機会を見つけては「殿下、本日は大変そうですね」「もしお疲れでしたら、わずかでもお手伝いさせていただけますか」などと声をかけてくる。ロザリアがいない場面を狙ったように、エレナはジュリアンへ接近していったのかもしれない。
その過程で、ジュリアンはエレナに悩みを打ち明けるようになった。王太子としての重圧、名門公爵令嬢ロザリアとの婚約に対する負い目、そして周囲が作り上げる「完璧な王太子像」に押しつぶされそうな苦痛。通常、こうした弱音は王宮の誰にも言えないものだ。だが、エレナはそれを「殿下は殿下のままでいいのでは」と言わんばかりに肯定してくれた。
やがて、ジュリアンは無意識に「もっとエレナと話がしたい」と思うようになる。いかに忙しくても隙間の時間を見つけ、彼女との会話に安らぎを求める。ロザリアはそのころ、ジュリアンの様子を心配していたかもしれないが、当時のジュリアンには「ロザリアと会うと叱咤されるようで苦しい」と感じる瞬間があり、エレナの甘い言葉に逃避していたのだ。
――たとえば、王宮の小さなバルコニーでの出来事。
久しぶりに一人で夜風に当たろうとバルコニーへ出たジュリアンを、まるで待ち受けていたかのようにエレナがやってきた。控えめなドレスを纏い、屋内の明かりを背にしてシルエットだけが儚げに浮かび上がる姿に、一瞬どきりとした覚えがある。
「殿下、こんな夜更けに風にあたるなんて……お体に障りませんか? あまりご無理なさらないでくださいね」
「エレナ……そんなに遅い時間でもないさ。君こそ、どうしてここに?」
「偶然ですわ。殿下がここにいらっしゃるのを見て、気になって……。もしよければ、少しお話を」
王宮内を散策すること自体は不自然ではない。しかし、それを「殿下の疲れを察したかのように」時機を逃さずやってくるエレナの行動が、今になって思えば計画的だったかもしれない。
あの時、エレナはジュリアンの憂い顔を見つめ、「殿下はいつも皆に囲まれていながら、本当はお一人で戦っているのですね……」とつぶやいた。まさに、ジュリアンが最も認められたいと願う一方で、誰にも言えない孤独を表現してくれた。その一言に、ジュリアンの心は不思議なほど楽になったのだ。
(ロザリアは常に自分を鼓舞するタイプだった。私が弱音を見せると「殿下なら大丈夫」と強く背中を押す。でも、それが私には苦しかった。エレナのように、ただ受け止めてくれる相手がどれほど心地よく感じたことか……)




