第17話 広がる影響②
使用人が控えめに扉をノックし、「お嬢様、先ほど手紙が届きました。差出人不明ですが……」と告げる。ロザリアは小さく眉を寄せ、「机の上に置いておいて」と答える。何が書かれているかわからないが、こうした差出人不明の手紙が届くのは初めてではない。もしかすると、エレナを讃える一方でロザリアを愚弄する内容かもしれないし、あるいは情報を提供しようとする奇妙な人物からかもしれない。
「エレナの評判が広まるにつれ、私のところにこういう手紙も増えているわ。好奇心や揶揄を含んだものが多くて、読むたびに吐き気がする」
「……お嬢様、本当に大変ですね。私が代わりに捨てておきますか?」
「やめて。どんな形でも、情報を持っている可能性があるなら見逃せないわ。現に、エレナの勢力拡大を嘲笑するような文面の手紙が、この前も届いた。もしかしたら何かのヒントが隠れているかもしれないでしょう」
ロザリアは渋い顔をしつつも、手紙を捨てずにチェックする意志を示す。その姿勢には、彼女の内面で「行動しなければ」という気持ちが芽生えている証拠があった。かつてなら、無視して済ませられた雑音も、いまは恐ろしいほど自身の未来に影響を与える可能性がある。ほんの些細な噂でも、生き延びるための材料になるかもしれないのだ。
「本当なら、王太子殿下が真実を見てさえくれたらいいのに……。殿下は、私が積み重ねてきたものをほとんど見ずに、エレナに心を許しているらしいわね。こんな噂、聞きたくもないけれど」
ロザリアの嘆息まじりの声が静かな部屋に響く。横合いで立っているソフィアは言葉を失いつつも、視線に熱を帯びさせてお嬢様を見守る。そして、ついにソフィアは小さく覚悟を決めたように口を開く。
「お嬢様、私はやはりレオン様の協力が必要だと感じています。お嬢様に届くこうした手紙の中身も、彼と共有することで、新たな手がかりを得られるかもしれません。……大丈夫です。お嬢様を裏切るような人ではありませんから」
「……ええ、わかったわ。もう言わなくてもそうするつもりよ。私が決断しなければ、どんどんエレナが勢力を拡大して、いつの間にか私の話を聞いてくれる人などいなくなる」
ロザリアはやり場のない怒りを含んだ瞳で書簡を眺め、深く息をつく。王太子とエレナの親密さが増すほど、ロザリアの立場は弱まる一方だ。むろん、公爵家の娘というだけなら、ある程度の権威は保てるかもしれないが、「裏切り者」という汚点が張り付いた今、周囲の目は冷たい。そこに、エレナが多くの有力貴族を取り込むという話が重なると、ロザリアには立ち直る術がなくなる。
「そう。私が自分を守らなければ、誰も守ってくれない。父も母も、王家を恐れて手が出せないし……。ならば、レオンと一緒に踏み込むしかない。もしかしたら、彼を利用する形になるかもしれないけど……仕方がないわね」
「お嬢様……」
ソフィアはその言葉に驚きつつも、まったく否定しない。ロザリアが自分の高いプライドを押し殺し、子爵家の協力を必要としていると口にしたのだから、事態がよほど切羽詰まっている証だ。ロザリアはハンカチで唇を押さえ、うっすらと涙をこぼしそうな表情になるが、ぎりぎりのところで耐える。
「エレナが王太子の隣に収まる前に、何とかしなくては……。私がただ罵られて終わるなんて、耐えられないもの」
そのつぶやきは強烈な決意を示していた。王太子妃の座に固執しているというわけではないが、誇りを賭けて捧げた努力を奪われ、偽りの罪で貶められたままで終わるなどあり得ない。それを排除しようとする存在がエレナ自身なのか、あるいは背後にいる派閥なのかはわからないが、ロザリアにはもはや時間がない。
こうして、エレナの勢力拡大の噂がロザリアの耳に届けば届くほど、彼女は危機感を募らせる。それがレオンの協力を受け入れる決意を後押ししていた。すでに「一時的な共闘」としてレオンと取り決めてはいるが、まだ弱々しい糸のような連携だ。しかし、その糸を手放しては奈落に落ちるしかないという恐怖が、ロザリアを突き動かしている。
「……ソフィア、レオンには早めに来てもらうように伝えて。もう一度、じっくり話をしなきゃいけないわ。私が知っている限りの事柄も整理しておきたい」
ロザリアはドレスの裾を握りしめ、わずかに紅潮した頬で指先を震わせる。プライドが邪魔をして、素直に「助けて」とは言えないが、実際は彼の協力がなければ打つ手がないと悟っているのだ。エレナの存在感が急上昇する社交界の現状を考えれば、時間をかけて逡巡している余裕などない。
「承知しました、お嬢様。レオン様と連絡を取って、早めにお越しいただくよう手配いたします」
ソフィアはすぐに頭を下げ、部屋を後にする。その背を見送ったロザリアは、一人きりになると椅子に沈み込み、天井を仰ぎ見た。高い天井の装飾は、王太子妃として迎えられるはずだった栄華を象徴しているかのようだが、今はただ虚しいだけ。そのまましばし目を閉じ、エレナの名を心の中で何度も呪うように繰り返す。王太子殿下のもとに寄り添い、多くの貴族を味方にし、さらにはロザリアの“代わり”として振る舞っている姿が想像される。考えるほどに苦しさと怒りが込み上げてきた。
「エレナ・クレイボーン……。いったい何者なの。殿下を虜にして、私の場所を奪うなんて、よほどの策があるのでしょうね。でも……私だって、こんな形で終わるつもりはないわ」
独り言のようなつぶやきが虚空に消える。こうしてロザリアは、エレナの恐るべき勢力拡大を前に、ついに重い腰を上げる決断を固めたのだ。一人ではどうにもならないという焦燥感が、レオンとの共闘を受け入れるきっかけになった。もはや自ら動き出さなければ、エレナの前に完全敗北してしまう――それが痛いほどわかってきたのだから。
その日の夕方、ロザリアは夕食を控えた時間に両親と顔を合わせたが、彼らは相変わらず王家の動向を気にしてばかりで、娘の名誉を取り戻す方法など具体的に考えていないのが見て取れる。公爵夫人は「今しばらく様子を見よう」と繰り返すだけで、ロザリアからすれば失望を深めるばかりだ。自分がいつまでも萎れていると、エレナに殿下が完全に奪われる――そうわかっていても、両親は世間体を守ることに必死なのか何の行動も起こさない。
「お父様、お母様。……私のことは私がどうにかします。王家と衝突するわけにはいかないでしょうけど、私は私で、潔白を証明する努力をするつもりですから」
そう言い放つと、公爵は驚いた様子で「ロザリア……落ち着け」と言いかけるが、ロザリアは「もう十分に落ち着いています」と切り返す。ここで両親に頼っても、彼らがリスクを負う覚悟はないことを見抜いているからだ。レオンと共闘することなど、両親に話せば反対されるのは目に見えている。
「……どうかこれ以上、私のプライドを傷つけないで。少なくとも、私は私で行動を起こすから。あなた方に迷惑はかけないつもりよ」
公爵夫人は沈んだ顔のまま「わかったわ……」としか言えず、会話はそこで途切れた。ロザリアはもはや両親からの支援を期待していない。エレナが王太子のもとで勢力を拡大している以上、彼らも気後れして王家に抗議する勇気を持てないのだ。結果的に、ロザリアは一層孤立し、レオンとソフィアだけが光になりつつある。




