第16話 再度の申し出③
数十分後、ソフィアが運んできた紅茶を三人で囲む形になり、和やかとまではいかないが、静かな会話が進む。ロザリアは時折、刺々しい態度に戻りかけるが、ソフィアやレオンが丁寧に言葉を選ぶため、大きな衝突には至らない。むしろ、レオンが踏み込んだ問いかけをすれば、ロザリアは一瞬睨みながらも、やがて諦めたように答える――そんな繰り返しが、小さな共闘の第一歩として形を成していった。
「ロザリア……本当は王太子殿下をまだ想っているのでしょう? 結局のところ、それだけ彼を信じていたからこそ、今の絶望が深いのだと思います。しかし、殿下が目を背けているなら、こちらから証拠を示して正面から詰めるしかありません。あなたが協力してくれれば、可能性はゼロではありません」
レオンが真剣に訴えると、ロザリアは顔を伏せたまま小さく息をつく。確かに王太子への想いは消えたわけではないが、彼女にはもう彼を信じる力が残っていない。その隙を突いたのがエレナなのかもしれない――と薄々感じながらも、プライドがそれを口にするのを阻む。
「……王太子殿下のことを、私はもう何も言いたくない。でも、私が知っている事実なら話すわ。それで足りるものならね。あなたの奮闘でどこまでいけるかわからないけど……ソフィアもいてくれるし。少しだけ乗ってあげる」
それはほぼ限界まで追い込まれたロザリアの、ぎりぎりの合意だった。レオンはその一言を聞き、ほっと胸を撫で下ろす。ソフィアも涙を堪えるように目を伏せ、「お嬢様、ありがとうございます」と穏やかに微笑む。
こうして、ロザリアとレオンの険悪な関係は、一時的に「共闘」へと変わる糸口を得た。それはまだ脆い絆であり、いつまた壊れるかわからないが、少なくともロザリアが情報を提供することを拒まなくなったのは大きい。レオンもソフィアも、この機を逃さず、少しずつ事実の解明へ乗り出そうと心に誓うのだった。
「では、後日また伺います。そのときに、ロザリアが思い出したこと、何でも構いませんから教えていただけますか? 些細なことでも構いません。王宮の行事や、殿下の周辺で怪しい動きがなかったか……そういう小さな事象が大切になるはずです」
「わかったわ。けれど、あなたにも宣言しておく。もし、あなたが中途半端な覚悟で動くのなら、即座に縁を切るわよ。私はもう、これ以上傷つきたくないんだから」
「もちろんです。何があっても僕は引かない。あなたとの共闘を最後までやり遂げると誓います」
力強いレオンの言葉に、ロザリアは静かに瞳を閉じて応じる。胸の中にかすかな温もりがよぎるが、それが消えないよう、強く踏ん張っているのが彼女の顔からも読み取れる。
しばらくして、再び訪れた沈黙を破ったのはソフィアだった。空になりかけたティーカップをそっと下げながら、二人に向けて控えめに口を開く。
「では、レオン様。今後の具体的なやりとりは、私を通してでも構いません。お嬢様が直接お話しづらいときは、私が仲立ちをいたしますので……」
「ありがとう、ソフィアさん。それが助かります。ロザリアに負担をかけすぎたくないので」
「……好きにしなさい。別に細かく口出しするつもりはないわ」
ロザリアは膝上で組んだ手をぎゅっと握るが、その表情に先ほどより柔らかさが戻っていることに、レオンは気づいた。決して心を許したわけではない。だが、少なくとも何もしないまま沈んでいくのを待つ日々からは、一歩踏み出す決意を固めてくれたのかもしれない。
ソフィアがレオンを玄関先まで見送る段になると、レオンは奥まった廊下をふと振り返った。まだそこにはロザリアの姿はなく、彼女は応接室で深く考え込んでいるのだろう。レオンは一瞬躊躇しながら、もう一度だけロザリアに声をかけたい気持ちを抑え、静かに唇を噛む。
「よかったですね、レオン様。お嬢様が少しだけでも心を開いてくださって……」
「ええ、ありがとうございます。ソフィアさんのおかげでロザリアが話を聞いてくれました。……僕は必ず、彼女の潔白を証明してみせます。これからが本番です」
「そうですね。私も協力します。お嬢様を、どうか救ってください」
二人はそこで静かに目を合わせ、深く一礼して別れる。レオンは屋敷を出て、淡く広がる青空の下を歩きながら、胸を高鳴らせていた。ロザリアから正式な同意を得たわけではないが、一時的な共闘という形で情報を引き出す余地ができたのだ。
「子爵家に何ができるのか」と問われても、レオンは迷わない。何もできないと思われるからこそ、やる意義がある――そう自分に言い聞かせ、足早に門を出ていく。その姿を公爵家の使用人が遠巻きに見送りつつ、「よほど強い想いがあるのだろう」とささやいていた。
こうして二人の関係は険悪から一転、かろうじて協力関係へと動き出す初動を迎えた。ロザリアのプライドが完全に崩れたわけではないが、レオンの必死の申し出に心が少しだけ揺らいだのも確かだ。ソフィアが見る限り、ロザリアの眼中には「行動しなければどうにもならない」という焦りが透けて見える。何もせず、王太子によって裏切り者に仕立てられたまま沈黙を続けるのは、あまりに屈辱的なため、レオンと少しでも組む道を選んだのだろう。
一方、レオンはこの得難い合意を生かし、今後さらに具体的な証拠探しや、陰謀の糸口をつかむための調査を加速させるつもりだ。それはリスクを伴うが、ロザリアを救う唯一の光と信じている。ソフィアも全力でサポートする意志を示しており、少なくとも孤立無援だったロザリアが行動を起こすきっかけを得たのは大きい。
「……一時的な共闘、か。だけど、これがいつか大きな結果に繋がるはずだ」
レオンは馬車に乗り込みながら、そっと心でつぶやく。離れに秘かに集めている情報をさらに整理し、今度はロザリアから得られる王宮内部の知識を加味すれば、確実に進展が見込める。王太子との関係が絶たれたと思われているロザリアだからこそ、知り得ることもあるかもしれないし、陰謀を見破る糸口となる記憶が眠っている可能性だってある。
そして公爵家の応接室に残ったロザリアは、動揺を隠せずにソファの背にもたれていた。連れてきたソフィアが心配そうに「お嬢様……」と声をかけるが、ロザリアは首を振って黙り込む。自分があのレオンの申し出を受け入れた事実が、今でも信じられないようだった。
「……私は、どうして断れなかったの。子爵家の助けなんて無意味だとわかっているのに……。でも、放っておけば本当に全てを失うと、どこかで思っているのかもしれないわね」
小さく洩らすその声には、悲しいほどの疲労と自嘲が混じっている。プライドだけを拠り所にしてきたロザリアが、一歩だけ他人を頼る道を選んだのだ。絶体絶命の状況が、そうさせたのだろう。かつての彼女なら、弱さを見せるなんて絶対に許せなかったはずだが、今や婚約破棄の屈辱と周囲の冷たい視線が、彼女を崩れ落ちる寸前に追い詰めている。
「お嬢様……。レオン様は信じられるお方だと思います。もちろん身分の問題はありますが、やはりお嬢様に向ける想いは本物ではないかと。幼いころから、ずっとお嬢様を見守っていましたし……」
「わかってる。でも、だからこそ、頼るのは悔しいのよ。今さら子爵家に手を引かれるわけにもいかないし、私自身が弱い姿をさらしているのも腹立たしい。……でも、そうしないと前へ進めないんですものね」
ロザリアの声が少し震えている。彼女は両手を重ねて閉じたまぶたを押さえ込み、呼吸を整えようとする。結局、あらゆる方法を試す前に諦めるより、子爵家と一時的にでも共闘して何かをつかむしかないという判断に至った。それを認めるのは屈辱感を伴うが、同時に救われるかもしれないという小さな希望が灯っているのだ。
「……いいわ。レオンがやるというなら、私もできる限りのことは教える。それでうまくいく保障はないけど、少しでも光が見えれば……」
「きっと、うまくいくように私も手を尽くします。お嬢様が再び胸を張って生きられるように」
ソフィアがそっとロザリアの肩に触れる。ロザリアはそれを拒まないまでも、身をこわばらせたまま視線を落としている。彼女がこの道を選んだ以上、プライドだけではどうにもならない現実に足を踏み込む覚悟が必要なのだ――それが苦々しくもあり、救いのようにも感じられる。その板挟みが、彼女の表情を複雑に染めていた。
こうして、レオンの再度の申し出は、かろうじてロザリアからの承諾を得た形となる。「身分の低い子爵家に何ができるのか」という思いは依然消えないが、何もしないで終わるよりは、というロザリアの葛藤が、ほんの少し前へ進めたわけだ。レオンとロザリアは、一時的な協力関係を結ぶことで、ロザリアの潔白を証明する手がかりを探すという新たな目標を共有する。
だが、周囲の眼差しは依然として冷たく、王宮ではエレナが注目を浴びている今、時間的猶予はあまり多くなさそうだった。子爵家と侍女が中心となった密かな共闘で、いったいどこまで戦えるのか――ロザリア本人も半信半疑ではあるが、もう後戻りはできない。まだ傷ついた誇りは完全には戻っていないが、それでも見捨てられなかった最後の希望が、レオンの行動をきっかけにして芽を出そうとしている。
(本当に救われるとしたら……そう、少しくらい信じてもいいのかもしれない)
ロザリアの心には、言葉にしないままのつぶやきが浮かんでいた。だからこそ、彼女はレオンを完全には突き放さなかったのだ。険悪から一転、「仕方なく」共闘することになった二人が、これから先どんな道を切り開いていくのかは、まだ霧の中である。けれど、ロザリアが沈黙を破るかのように動き出したその一歩は、やがて大きな波紋となって陰謀を浮かび上がらせるきっかけとなるかもしれない――そんな予感がかすかに漂う。
遠く、重たい雲が立ち込める公爵家の空。もしかすると、そこに差し込む光があるのなら、レオンの必死の叫びとロザリアの折れかけたプライドの一線が、重なり合う瞬間が訪れるのかもしれない。こうして、レオンの再度の申し出に応じて、ロザリアの葛藤から生まれた「一時的な共闘」が、運命を大きく動かす最初の契機となるのである。




