第2話 夜会に集まる視線②
そうして、彼女は再び公爵令嬢としての「役割」に頭を切り替える。周囲から声をかけられるたび、優雅な挨拶を返し、軽い会話をこなしていくのだ。ほどなくして、知り合いの伯爵令嬢や公爵家の従姉妹に声をかけられ、彼女たちと笑顔を交わしながら円卓の近くへと足を運ぶ。
「ロザリア様、本当にお美しい……今夜は王太子殿下と何か特別な発表があるのかしら? なんて勝手に想像してしまいます」
「王太子殿下とは、まだ何も……そういう場は設けておりませんわ」
「でも殿下もあちらにいらっしゃいますよね。あとでお二人でお話になられるのでは?」
「どうでしょう。もし殿下がその気なら、お声をかけるでしょうけれど」
そう言いながらも、ロザリアの心にはかすかな違和感が残ったままだ。先ほどジュリアンと視線が合ったとき、まるで他人行儀な空気を感じた。これまでも、婚約者としての密接なやりとりが少ないわけではないが、あれほどよそよそしい雰囲気を隠そうとしなかったことはなかったはずだ。
「そういえば、殿下は最近、あまり社交の場でロザリア様と一緒にいるところを見かけないと聞きましたわ。お忙しいのかしら?」
「殿下のお考えは、私からはわかりかねます。ですけれど、王太子としての務めを優先されているだけではないかと」
柔らかな微笑みの裏側で、ロザリアは王太子との間に何が起こっているのか、自分でも把握しきれていないことを痛感する。公の場では形式的な挨拶こそあるものの、それ以上深く言葉を交わした記憶があまりに少ない。かといって彼女のほうから積極的にアプローチするのも、彼があまり好まない様子を見せる以上は難しいのだ。
「ロザリア様……もしかして、ご心配なことがおありなのでは?」
「いいえ、そんなことはありません。たまたま少し考え事をしていただけですわ」
問いかけた伯爵令嬢にそう返しながら、ロザリアは息を詰まらせる。この程度の取り繕いなら朝飯前でこなせるが、内面のざわつきがとれないままでは、そのうち周囲に不審がられてしまうかもしれない。だからこそ、彼女は意図的に会話を切り上げ、ほかの知り合いがいるグループへ移ろうとする。
しかし、その途中で思わぬ人物に行く手を塞がれた。ロザリアよりやや年下と思しき女性たちが、きらびやかなドレスを身にまとい、露骨に「王太子の婚約者」を目の前にした興奮を隠していない。嬌声に近いトーンで話しかけてくる姿は、ロザリアの目には少々浮ついた雰囲気に映った。
「お初にお目にかかりますわ、ロザリア様! こうして間近でお話しできるなんて光栄です!」
「本当に、あの殿下の婚約者としてお噂のグランフィールド家の……うわあ、すごい……!」
彼女たちは好意的なのか、それとも単純にミーハーなのか。どちらにせよ、ロザリアにとっては対応に困るタイプだ。適度に微笑みながら、最低限の礼儀だけを守って言葉を返すほかない。
「お見知りおきいただきありがとうございます。今夜はお楽しみになっていますか?」
「はい! それにロザリア様の美しさ、噂以上です。王太子殿下も誇らしいでしょうね!」
「……そうだといいのですけれど」
ロザリアは曖昧な言い回しで言葉を濁す。この状況で王太子の話題を深く掘り下げられるのは、正直うんざりだった。彼の態度が先ほどから気になって仕方がないのに、ここで浅はかな会話に巻き込まれたくないというのが本音である。彼女はやんわりと距離をとり、次のタイミングで会釈をしてその場を離れようとする。
「ごめんなさい、少しご挨拶をしてまいりますので失礼させていただきますわ」
「あ、はい……また後ほどお話しできればうれしいですっ!」
彼女たちをうまくかわし、ロザリアはホールの奥へと足を進める。人の波を縫うようにして移動する中、耳に飛び込んでくるのはさまざまな会話や音楽の旋律。大きなシャンデリアが照らす床には、多彩なドレスの影が映り、華麗に舞う者たちもいる。彼女の青いドレスもまた、照明を浴びるたびに微妙な色合いを変え、シックな輝きを放っていた。
「ロザリア様、少しお時間をいただいてよろしいでしょうか?」
別の男性貴族が声をかけてきて、挨拶とともに軽い会話が始まる。要するに、ロザリアの両親――公爵夫妻に対して伝言を頼みたいという趣旨だった。公的な話題であれば彼女も受け答えしやすい。
「かしこまりました。父にも母にもお伝えしておきます。詳しいお話は、また改めて席を設けていただく形で構いませんか?」
「助かります。ありがとうございます」
さほど長い会話ではなかったが、こうした小さな依頼を夜会の場で取り付けるのもまた、貴族社会ではよくあること。ロザリアは一通りの礼を交わし、再び広いフロアを見回す。すると視界の先に、ジュリアンが身を置く一角がちらりと目に入った。周囲には伯爵令嬢や他の貴族が集まり、彼はにこやかに言葉を交わしているようだ。
「殿下……」
意を決して一歩足を向けかけたが、タイミングを見計らう前に別の貴族がジュリアンに話しかけ、彼もそちらへ対応を向けている。まるでロザリアが近づこうとする意志を感じ取り、あえて微妙に避けているかのようにも見えた。これは考えすぎだろうか、と彼女は口の中で小さく息をつく。
追いかけるような形になるのは体裁が悪いし、彼が望んでいるとも思えない。だからロザリアは、そのまま引き返すように別方向へ進むことにした。堂々とした足取りと、微笑みを欠かさない表情は、どの貴族にも隙を見せないものになっている。だが、内心では複雑な感情が渦巻いていた。
レオンとの短い再会も、ジュリアンの遠巻きな態度も、どれも心を落ち着かせてくれない。幼馴染に対して抱く何ともいえない懐かしさと隔たり、そして婚約者であるはずの王太子への違和感。社交界の中心として振る舞う彼女の笑顔には、そうした葛藤が小さくにじんでいる。
「……大丈夫、いつもどおり。完璧でいれば、誰にも疑われることはない」
ロザリアは胸の奥でそう自分に言い聞かせる。そして、また新たに声をかけてきた若い公爵家の令息たちに、艶やかな微笑で応えるのだ。彼女の周囲は絶え間なく賑わっているが、どこかしら微妙なギャップが心に残る。それは夜会という煌びやかな場所だからこそ、より鮮明に浮き上がってくるのかもしれない。
「グランフィールド公爵令嬢、よろしければ一曲お相手を――」
「申し訳ありませんが、今は少し用事がございますの。またの機会に」
軽く会釈を返しつつ、ロザリアはダンスの誘いを上品に断る。どんなに華やかな場であっても、彼女が公に踊る相手は基本的に王太子ジュリアンであるというのが定説になっていたし、今ここで他の貴族と踊るのは望ましいことではない。もっとも、ジュリアンは先ほどの様子からしても、彼女に声をかける気配などまるで感じられないが……。
床に反射する光が、ロザリアの青い裾をゆらめかす。演奏がひときわ盛り上がりを見せ、人々の笑い声と会話が重なり合って耳をかすめる。横切っていく豪華なドレスや、威厳ある男性たちのタキシードが視界を彩り、それはまさに王都の社交界ならではの光景だ。
その中心にいるはずの自分が、なぜこんなにも孤独に感じているのだろう――。ほんの一瞬、そんな思いが胸を駆け巡る。それを表に出すわけにはいかない。ロザリアは肩の力をわずかに抜き、再度口角を上げる。どれだけ頑張っても「傲慢な公爵令嬢」という評判はある程度あるわけだし、ここで無理に誰かと親しげにする必要もない。彼女は自分の立ち位置を、長い年月の中で学んできたのだ。
「お嬢様、よろしければこちらのお席で少しおくつろぎになりませんか?」
どこからともなく現れた給仕が、ドリンクを勧めるとともに休憩用のソファ席を案内しようとする。ロザリアは微笑みだけで応じ、一度は素直にグラスを受け取って、その場を離れようとした。しかし、立ち止まりかけたとき、遠方の人混みの中に再びレオンの姿がちらりと見えた。誰かに挨拶をしては頭を下げ、懸命に社交をこなしているように見える。
「レオン……」
つぶやきは声にならない。ロザリアはその背中を見つめつつ、記憶の中で蘇る幼い日々を一瞬思い出しかけたが、すぐにかぶりを振り、視線を逸らす。今ここで気を取られても、何の得もない。わざわざ会話を続ける理由もなければ、みずから距離を詰める義務もないのだ。過去は過去として胸にしまっておけばよい。
「失礼いたします。お嬢様、ご気分でも悪いのですか?」
先ほどの給仕が、立ち止まったロザリアの様子を心配そうに見る。彼女はすぐに“いつもの”微笑みを浮かべて首を横に振った。
「大丈夫ですわ。少し、考えごとをしていましたの。お気遣い、ありがとう」
「それでしたら何よりでございます。もし何かございましたら、お呼びください」
給仕が去っていくと、ロザリアは軽く息をついて、周囲の貴族が何を話しているのかに耳を傾けてみる。どこでも話題になっているのは、この夜会がどれほど豪華か、どの貴族が誰と手を組みそうか、あるいは王太子が最近どんな話題を提供しているか――そんなところだ。どれも特筆すべき変化は感じない。
結局のところ、今夜はまだ始まったばかりで、何か波乱が起きる気配がすぐにあるわけでもない。ただ、彼女にとってはジュリアンの態度やレオンの登場など、気になる要素が重なっていることは事実だ。あとは時間の経過とともに、どのように話が展開していくかを見るほかない。