第14話 王太子の変化②
近くに仕える近侍は、その光景を見てほんの少し心を痛めている。ロザリアとの婚約が破棄され、しかも「裏切り者」とされて以来、ジュリアンは表向き強気で振る舞っていたが、実際には相当なストレスを抱えていたからだ。彼を癒やしているのが、いまやエレナであるという事実は、ロザリアを知る者からすれば複雑な感情を呼び起こす。だが、王太子の心を救うという点において、エレナの存在が確実に大きくなっているのも否定できない。
「……殿下。よろしければ、こうしてゆっくりお話しする時間を、また設けてくださいませ。私も、殿下のお側で少しでも落ち着いていただけるよう、努めたいのです」
「うん。ありがとう。……正直、助かるよ。周囲は何かと私を追い詰めるような目を向けてくるから……君と話していると、少しだけ自由になれる気がする」
そう言ってジュリアンは、短いながらも手を軽くエレナの方に伸ばしかける。周囲が息を呑むように静まったが、彼はすぐに思い直したように、手を引き戻して目を伏せた。あまりに露骨な接触は避けねばならないという王太子としての理性が働いたのだろう。
エレナはそれを受けて、「殿下、無理をなさらずに」と優しく微笑む。彼女の態度は決して派手なものではなく、低姿勢で王太子を立てるような物腰だ。ロザリアが持っていた威厳や気高さとは対照的に、エレナは「寄り添う」という姿勢でジュリアンを包み込んでいる。ジュリアンにとって、それは必要な「癒やし」なのかもしれない。
とはいえ、その優しさがどこまで本物か、あるいは裏があるのか、外野からは不明だ。少なくともジュリアンは表情を和らげ、エレナに傾倒しつつあるのは明白と言える。かつてロザリアが示した厳粛な努力や高貴さとは正反対の甘い心地良さを、エレナは与えているのだ。
再び風が吹き、庭の木々がさわさわと揺れる。エレナはその音を耳にしてか、少し顔を上げて空を見渡した。まるで「殿下と過ごすこの時間が愛おしい」とでも言いたげな微笑を浮かべている。その仕草に、ジュリアンが釣られるように目を細めた。そのまま二人はしばしの間、静かな沈黙に浸る。余計な人が口を挟むことも許されない空気が漂い、侍従や近侍も控えめに距離をとっている。
「殿下……明日はいくつか公務の予定があるそうですね。お身体は大丈夫でしょうか」
「そうだね、明日は会議やら、書類の山をこなさなきゃいけない。たぶん夜遅くまでかかるだろうな……」
「もしお疲れがピークに達したら、またこうして息抜きをしてはいかがでしょうか。少人数でゆったりとお茶を楽しむだけでも、きっと気が楽になるかと存じます」
「そうだな……エレナ、また話し相手になってくれるかい?」
ジュリアンの問いかけに、エレナは恥じらうように微笑んでうなずく。そのシーンを目撃した侍従の一人は思わず目を伏せ、苦い気持ちを抱いていた。まるで王太子がこの伯爵令嬢に心を許し始めている証拠にも見えるが、かつてそんな特別な位置にいたのはロザリアだったからだ。
「……殿下、ご意向があれば、私どもがまたこの庭を整えておきます。お嬢様方に快適に過ごしていただけるよう、準備を整えますゆえ」
侍従が差し出がましくならない程度に提案すると、ジュリアンは「うん、頼む」と素っ気なく応じる。その声色はどこか塞ぎ込んだようでもあり、エレナと会話しているときの柔らかさとは微妙に差がある。傍目には、王太子がエレナにだけ心を開き、周囲に対しては距離を置いているように映っていた。
茶会が終わりに近づき、侍従たちが軽食を下げる準備を始める。エレナは再度、ジュリアンに頭を下げ、別れの挨拶をするつもりで席を立ちかけたが、ジュリアンが軽く彼女の名を呼んだ。
「エレナ……あとで少し、書斎に来てくれないか。もう少し話したいことがある」
「ええ、もちろん、殿下が望まれるなら」
公衆の面前で声を上げず、二人だけが聞こえるくらいの小声で交わされるやりとり。そこには親密さを隠そうとしない雰囲気があった。周囲の護衛たちも、それを特に止めることはない。この段階で、エレナが王太子と「親しい間柄」であることは周知の事実になりつつある。後で会う約束をするなど、まさにロザリアが婚約者だったころには許されていた特権だ。
そして、その場を後にしたエレナは、手持ちのパラソルを開きながら侍女の支えを受け、小さく笑みを浮かべる。遠巻きに見れば儚げな婦人の何気ない仕草だが、彼女の瞳の奥には何か静かな闘志か、企みのようなものが宿っている気配がある。誰も言葉にしないが、その印象を受け取ってしまう者もいるはずだ。じっと見つめる侍従の一人が、「何かおかしい」と胸を騒がせている。
こうしてジュリアンは、ロザリアを切り捨てた後の孤独感を埋めるようにエレナにのめり込んでいく。王太子としての責任を背負いながらも、彼女と向き合う時間だけが「逃げ場」となり、重圧からの解放となっているのかもしれない。だが、その関係が本物の愛情なのか、エレナの巧妙な誘導によるものかは、まだはっきりとわからない。周囲からは「ジュリアンが疲れているからこそ、あの手の優しさに弱いのだろう」と見る者もいれば、「エレナ様こそ、殿下を操っているのでは」と疑う者もいる。
王宮の廊下では、エレナが立ち去った後も、侍従や近衛騎士がひそひそと話していた。
「殿下はどうしてあそこまで心を許しているんだろう。ロザリア様との婚約破棄が影響しているにしても……」
「我々が口を出すことではありませんが、あの伯爵令嬢の周りには怪しい影がちらつく、と耳にします。殿下が利用されなければいいのだが……」
「だが今は、殿下の心の支えとなっているようにも見えるし、あまり粗略にも扱えない。困ったものだ……」
彼らの声は低く抑えられ、明確な行動に移せるわけではない。ジュリアンがエレナを望んでいるなら、側近たちも静観するほかない。とはいえ、王太子として国の行く末を左右する立場にありながら、こんなにも一人の女性への依存を見せていることに危機感を抱く者もいるのは確かだ。
結局、ロザリアとの婚約破棄後、ジュリアンは「新しい想い人」としてエレナに傾倒している、という図式が社交界にも王宮内部にも浸透していった。加えてエレナの背後で暗躍する派閥の存在もささやかれ始め、「いずれはロザリアに代わってエレナが王太子妃になるのではないか」という噂が高まっている。その噂に乗じて得をしようとする一団がいる一方で、ロザリアを知る人々は不審と憂慮を募らせる。まるで大きな陰謀の歯車が回り始めたかのように――。
ジュリアン自身はというと、エレナの傍らにいるときだけ心が落ち着き、まるで救われるかのような錯覚を抱いている。ロザリアとの関係は、今思えば「義務」や「周囲の期待」によって縛られていたとも感じる。その点、エレナは一切そんなプレッシャーを掛けない。むしろ「殿下のご意思を尊重する」という姿勢を保つだけに、ジュリアンにとっては甘美な慰めなのだ。
「……エレナ、ありがとう。君と話すと、いろいろな想いから解放されるんだ」
書斎に招かれたエレナを前に、ジュリアンは改めて微笑む。エレナは控えめに微笑を返すが、その瞳は決して無垢なだけではない。「殿下をここまで導いた」という満足げな自信が垣間見えるようでもある。しかし、ジュリアンの心にはその警告音はまったく響かない。疲れ切った王太子は、エレナの謙虚さと優雅なささやきに安らぎを求めてしまうのだ。
こうして、ジュリアンは公の場では王太子としての責務をこなしながら、隙を見つけてはエレナと会合を重ね、傾倒していく。それが正式な「次の婚約」と決まったわけではないが、周囲にはもうロザリアと対照的な存在として認識され、王太子が「新しい愛」を得たという噂が広まるのも時間の問題だ。実際、ロザリアとの比較は絶えず意識され、「かつての婚約者は気高いが窮屈だった」「今度の令嬢は殿下に寄り添う優しさがある」と評する声も少なからず聞こえてくる。
その裏には、エレナの側につく派閥が情報操作や噂の流布を行っているのかもしれない。何せ、王宮内の有力者が絡んでいるらしいし、ロザリアの「裏切り」疑惑を盛んに吹聴することで、王太子の心変わりを肯定しようとする動きすら伺えるのだ。ジュリアンはその事実に気づかず、いや気づいていても、もはや深入りしようとしないのかもしれない。自分には、ただ一息つける時間が必要なのだという意識が勝っているのだ。




