第11話 募る想いの痕跡③
やがて馬車は公爵家の門前に到着する。車を降りたレオンは、軽く礼をしてから門の使用人に面会を求める。案の定、「大変申し訳ありませんが、お嬢様は体調不良で……」とやんわり拒まれるが、彼は動じなかった。何度も耳にした言葉だ。
「そうですか。……もし可能なら、これだけでも渡してほしいんです。別に高価なものではありませんが、何かの役に立てばと思いまして」
使用人は困った顔をしながらも、レオンのまっすぐな眼差しに押されて包みを受け取る。周囲の人々も見慣れた光景といった様子だが、誰も「いい加減諦めろ」とは口にしない。むしろ、その粘りを知ってか、申し訳なさを含んだ表情でレオンを見つめている。
「お嬢様は……まだ誰とも会う気配がなく、私どももどうにも……。ご気持ちは伝えますので、どうか……」
「ええ、ありがとうございます。何度でも来ますから、どうかよろしくお願いします」
レオンが深く頭を下げ、使用人も辛そうな顔で応じる。その光景はほんの数分で終わり、レオンは門前で立ち尽くす。実際、門の奥にいるロザリアがどう感じているのかはわからないが、少なくともこの行為が無駄ではないと信じたいという気持ちだけが、彼を駆り立てている。
(子どものころの約束を思い出す度、僕は後悔ばかりだ。守ると誓ったくせに、王太子との婚約を知ってから距離を置いて、何もせずにきた。でも今こそ……何かできるなら、全力でやるべきじゃないか)
そう繰り返し自分に言い聞かせ、レオンは門の前を離れる。もしかしたら今日こそと思って来たが、やはりロザリアに会うことはできなかった。だが、不思議と絶望的な気分にはならない。幼少期の純粋な時間、ほんの些細な笑顔や言葉を共有した記憶が、彼の足を止めさせないからだ。
「いつか、あなたが開いてくれるまで、僕は通い続ける。身分など関係ない。君が王太子妃を目指していたあのころの努力を、僕は誰よりも知っているんだから」
そう心で宣言して、レオンは再び子爵家へと戻っていく。人々の好奇や、「子爵家が王家に楯突いても何もできない」という揶揄を浴びながらも、胸に秘めた想いを消すことはできない。あのころのロザリアが示してくれた誇りの輝きを覚えている以上、このまま黙って引き下がる気などさらさらないのだ。
馬車の中で、レオンは窓から流れる街の景色を見送りながら、さらに記憶の奥深くへ潜っていく。実は、一度だけロザリアと交わした約束があるのだ――本当に些細なもので、子ども同士の他愛ない会話かもしれないが、レオンにとっては大切な宝物だった。
「私が王太子様のもとへ行っても、あなたは変わらず優しくしてくれる?」
「もちろんだよ。いつか立派になって、僕が君を……」
そこで言葉を濁したのは、当時の自分が何を言っていいかわからなかったからだ。王太子がいる以上、ふさわしいのは彼であり、レオンではない。でも、レオンはどこかで「将来、僕がグランフィールド公爵令嬢を守る」という夢想を捨てきれずにいた。その一片をロザリアに伝えようとしたものの、うまく言葉にできず曖昧に終わってしまった。結局、それが彼の心に小さなトゲのように残り、また原動力ともなっている。
(あのころの僕は、やっぱりまだ子どもで。君を助けたいと思っても、力不足だった。けれど今は、僕なりにやれることがあるかもしれない。王太子との婚約が破棄された今こそ、僕は子どものころの誓いを果たしたいんだ)
そんな思いを抱えて帰宅すれば、家の者は「今日も公爵家に行かれましたか」と苦い顔をする。レオンの父親や母親は、王家に目をつけられるのを恐れ、「もう控えるように」と言外に示すこともあるが、レオンははっきりと口答えはしないまま、毅然とした態度で「わかりました」とだけ言う。実際は決して止めるつもりはないのだ。
「今度こそ、君を守る。子どものころとは違う。僕はちゃんと自分で考えて動けるようになった。例えそれが小さな力でも、何もしないよりはましだ」
レオンは自室に戻り、暗くなるまで一人になって再び思い出に浸る。幼いころのロザリアがぬれた花を大事に持ち帰り、「レオンに見せたかったの」と言って微笑んでくれた場面を夢のように思い出す。その光が、まるで遠いところへ行ってしまった恋人を想うような切なさを呼び起こすが、同時に生きる希望にもなっている。
(でも、ロザリアは今苦しんでいる。王家に裏切り者扱いされ、大切に築いてきたものを失いつつある。誰も信じられずにいるに違いない。だったら、僕が信じてあげないと。例え拒まれようと、その頑なな心を叩き続けるしかない)
回想を通じて自覚する。自分の想いはもはや止めることができないのだ。幼いころからずっと続いている恋心を、闇に葬るつもりなどない。レオンはたとえ報われなくても、ロザリアが救われるならそれでいいと思い詰めてさえいる。彼女がこの世界に復活する可能性を少しでも引き寄せるために、何度でも門前に立とうと決めていた。
そうして翌朝、レオンはまた早い時間帯から支度を整え、屋敷を出ようとした。母親が困惑した顔で「レオン……」と言いかけるが、彼は「すぐ戻ります」と言い残し足早に馬車へ乗り込む。それを見送る家の使用人たちも、溜め息混じりに「今日も行かれるのですね……」とささやき合う。けれど、レオンは微笑みを返して「心配いりません」と言うだけだ。子どものころ、ロザリアが見せた誇り高い姿勢を思えば、こんな程度で挫けるわけにはいかないのだから。
馬車の揺れに身を委ねつつ、また幼いころの情景が浮かぶ。そこでレオンはふと苦笑する。どうしてこんなに回想ばかりしているのか――しかし、それこそが彼に行動する力を与えているのだ。あのころ感じた恋心、それを押し込めていた寂しさが今になって溢れ出し、「守りたい」という衝動と結びついている。
そして、改めて自覚する。この想いは同情などでは断じてない。単なる幼馴染の優しさでもない。ずっと続いてきた恋心が形を変え、今こそ爆発しているに過ぎないのだ。王太子との距離を理由に身を引くのが当然だと思われるかもしれないが、レオンはそんな世間の常識を捨て、ロザリアの幸せを願うことを選んだ。それが自分の道だと強く感じている。
まもなく馬車が公爵家に到着し、いつもと変わらない光景――重々しい正門と使用人たちの視線――が待っている。やがて門番が姿を見せ、「本日もお嬢様は……」と申し訳なさそうに言いかけるのを、レオンは穏やかな笑みで遮る。
「かまいません。お話しできないのはわかっています。ただ、ロザリア様にお伝え願えないでしょうか。『あなたをずっと待っています』と」
使用人は何度目かわからない繰り返しに、胸を痛めるような表情を浮かべるが、レオンのまなざしに押されて「かしこまりました」とだけ答える。レオンはそれで十分と思っている。先日も何か手紙や品を渡したが、受け取ってもらえたかどうかはわからない。けれど彼は、「自分の想いを届ける」ことこそが大事だと信じていた。
子どもの頃、ロザリアが真剣なまなざしで「私はもっと勉強しなきゃ」と言ったとき、レオンは「僕もがんばるよ」と軽く言い返したことがある。あの約束を果たすためにも、いま彼はどんな言葉も惜しまない。かつて身分差など気にせず、小さな庭で笑い合ったあの記憶が、二人の心を結びつける糸になればいいと願ってやまない。
門前で断られ、またしても中に入れてもらえず、レオンはそれでも微笑みを浮かべて帰っていく。通りがかりの貴族らしき人が白い目で見ているのを感じるが、まったく気にしない。幼少期から続くロザリアへの想いは、この程度で折れるほど弱いものではない。そして、万が一にも彼女の心にかすかな刺激を与えられるなら、それだけで自分の行動に意味があると信じている。
馬車に乗り込む直前、レオンは門を振り返り、静かにつぶやく。
「君があのころから変わらないなら、僕も変わらずにいるよ。たとえ立場が違っても、僕はロザリアを……守りたい」
その言葉は誰の耳にも届かないかもしれないが、レオンの中で確かな決意として燃え上がっていた。もし子どものころ、自分が大胆に感情を伝えられるだけの勇気があったなら、もっと別の未来があったかもしれない。けれど今こそ、その勇気を振り絞らなければならない時が来ている。王家からの不当な仕打ちに耐えきれず、孤立しているロザリアを見過ごすことなどできない――あの幼い約束を思い出すたびに、レオンはそう心に誓うのだ。
やがて馬車が再び町を走り出し、レオンは静かに目を閉じる。この想いは決して同情なんかではなく、子どものころからずっと胸の奥で温めてきた大切な感情。どれだけ大きな壁が立ちはだかろうと、彼はロザリアが心を開いてくれるまで諦めない。それが幼少期のあの花壇や秘密の遊び場、そして小鳥を助けた記憶のすべてが教えてくれたものなのだ――レオンは改めてそれを強く実感する。
いつの日か、彼女がもう一度笑顔を見せてくれると信じて。子どものころからの変わらない想いを抱きしめながら、レオンは車輪の響きを聞きつつ帰路につく。いずれ運命の瞬間が訪れるまで、彼は立ち止まらず走り続けるだろう。ロザリアを救いたいという意志こそ、幼いころに芽生えた恋心の本質――それを今の彼は、かつてないほど痛感していた。




