第10話 幼き日の記憶②
さらに成長したロザリアは、武芸の稽古にも打ち込むようになる。表面的には華やかなドレスと舞踏、それだけが王太子妃の務めではないというわけだ。危機管理や護身のため、ときには馬術や剣の稽古にも片足を突っ込み、汗と土埃にまみれることすら厭わなかった。その姿はまさに「公爵令嬢なのに、そこまでやるか」と周囲を驚かせるほどだった。
「お嬢様、そんなに無理をなさらず……。その腕では、まだ剣は重いですよ?」
「重くても、慣れれば振れるようになるわ。将来、王太子殿下を守る力を少しでも持ちたいんだから。何があっても対応できるようにしておきたいの」
荒い息をつきながら笑うロザリアの顔には、絶対にへこたれない意志があった。教師や騎士から笑われようと、上品な婦人たちから「そこまでしなくてもいいのに」と呆れられようと、彼女は自分の道を曲げなかった。公爵令嬢が身につける必要のない分野かもしれないが、ロザリアが望むならと家臣が手配した師匠が、全力で指導にあたるという状況も生まれていた。
ソフィアは間近でその努力を見てきたからこそ、今のロザリアに向けられる「高慢」「傲慢」「裏切り」などの言葉がいかに不当かを痛感している。彼女の高いプライドは、生まれながらの性格や公爵家という環境だけでなく、こうして血のにじむような努力を当たり前のように積んできた結果でもあるのだ。誰にも見せない涙を飲み込みながら成長したからこそ、他人に弱みを見せることに抵抗を抱いてしまうのだろう。
実際、ロザリアには優しい一面もある。子ども時代のある日、ソフィアはこんな場面を目撃したことがあった。何かの拍子で庭にいた小鳥が怪我をし、動けなくなってしまったときのことだ。ロザリアは当時レオンと一緒にその小鳥を見つけ、「助けなきゃ」と言って尻込みするレオンを促し、丁寧に巣へ戻そうと奮闘していた。
「そっと持ち上げて……あまり刺激しないように。レオン、手伝って。私一人じゃ動かせない」
「でも鳥が怖がってるし……。大丈夫かな」
「大丈夫よ、私たちは優しくしてあげるんだもの」
その時のロザリアの瞳は純粋な慈しみに満ちていて、身分や損得などまったく考えていなかったように見える。世界のすべてに対して義務感や責任を感じる年齢ではなかったが、それでも自分ができることをしようとしていた。だからこそ、成長した今のロザリアがかたくなに心を閉ざしてしまった姿は、とても痛々しいと思わずにはいられない。
やがて少年期のレオンが距離を置くようになり、ロザリアはさらに自らを「王太子妃になる存在」として固めていった。遊び心を捨て、いつも冷静に振る舞い、どんなに辛い訓練でも弱音を吐かず、「これが私の務め」と己を鼓舞する――そんな日々が続いていた。
「そうして築き上げられたのが、今のロザリア様の誇りなのですね……」
薄暗い廊下でそっと目を開いたソフィアは、誰にも聞こえないかすかな声でつぶやく。あの頃、幼い体でありながら、全力で将来の道に邁進していたロザリア。その尊い努力が、婚約破棄や裏切り者の烙印によって一瞬にして奪われてしまったのが、どれほど無念か――想像するだけで胸が苦しくなる。
ソフィアの回想はまだ続く。当時、屋敷でロザリアの教育係を務めていた女性教師が、彼女の力量をこんなふうに評価していた。
「ロザリア様はまことに勤勉でいらして、普通の子どもなら嫌がる勉強ですら『王太子のためになる』と仰って進んで取り組まれます。あれほどの意志は、そう簡単には揺るがないでしょう。将来はきっと、王太子殿下をしっかりと支えられる妃になられるに違いありません」
それを聞いたソフィアは誇らしく思ったものだった。確かに幼少期のロザリアは、王太子妃になることを夢見て一切の怠けを許さなかった。もちろん時々は苦しそうな顔をすることもあったが、それでも笑顔で「大丈夫」と言い、隠れたところで涙をこぼしていたとしても、誰にも見せず翌日には立ち上がってくる。そんな強い精神が、いま彼女を苦しめる「プライドの高さ」に繋がっているとも言えるのだ。
そして、それは決して「本来の優しさ」を否定するものではなかった。むしろ自分の弱さを出せないからこそ、誰かに対して冷たく見える態度を取ることがあるが、根っこには、周囲を巻き込みたくない気遣いもある――ソフィアはそう感じている。彼女がレオンを拒んだのも、また同じ理由があるのではないかと察しているが、確信を持って確認する術はない。
記憶の中のロザリアはいつも何かしらの課題に追われ、苦しみながらも前を向いていた。その光景を思い返すと、今のロザリアがあまりにも痛々しい。努力すれば報われると思っていた人生が、一夜にして失脚させられた形で奪われ、陰謀かどうかもわからない疑惑にさらされ、立ち直れなくなるのも無理はない。
「お嬢様……。本当は、あなたはこんなところで終わるお方ではありません。私がずっと見てきた、あの輝きが、決して偽りだったわけがないのに……」
ソフィアは廊下で小さく息をついたまま、顔を上げる。扉の奥にいるロザリアはいまだ心を閉ざし、部屋から出ない日々を過ごしている。けれど、彼女の過去を知るソフィアは、諦めたくないと思うのだ。どれだけ周りが困難を訴えようと、ロザリアには乗り越えられる力があると信じている。
回想を振り返る中で思い出されるのは、幼馴染のレオンとの関係だ。確かに大きくなってからは疎遠になったが、幼いころの二人は時折一緒に勉強したり、庭で小さな冒険ごっこをしたりしていた。レオンは将来の立場を考慮しつつも、ロザリアを笑わせようとくだらない冗談を言ったりして、一時的な癒しを与えていた存在でもある。それが今、再び彼がロザリアを救いたいと足繁く通っているのは、ある意味当たり前かもしれない。
「お嬢様にとって、あの思い出は小さな幸せだったはず。いつしか王太子妃になるために、彼との接触を避け始めてしまったけれど……」
そして今、ロザリアを救おうとしているのはレオンをはじめとした一部の人々だ。かつてのロザリアの努力に心を動かされた者たちがいる。ソフィアもまた、その一人として、なんとかお嬢様の笑顔を取り戻したいと願ってやまない。あの幼少期の純粋な笑顔こそが、彼女の本質だったはずだから――プライドも努力も、すべては誰かを守りたいという優しさの裏返しなのだ。
現実では、ロザリアは部屋に閉じこもり、レオンが通ってきても拒否し、両親ともすれ違っている状況だ。それを思うとソフィアの胸は締め付けられそうになる。幼少期の輝きを誰よりも近くで知っている者として、いまの閉塞感は耐えがたい。彼女は廊下で一度目を瞑り、過去の記憶を胸に焼き付けるように深呼吸した。
(あのときのロザリア様は、寝ても覚めても王太子妃になるために努力を惜しまなくて……それが当たり前だった。でも、努力がすべて報われるとは限らないなんて、あまりにも残酷です)
ソフィアの中で、回想がさらに巡る。十代に入り、ロザリアが一層厳しい教育を受けていたころ、深夜まで書斎に籠もって史書を読み、明け方には起きて庭の散歩や馬術の練習をしていた。家臣からは「お嬢様、そんなに無理をなさらないで」と止められても、「殿下のためにいつか役に立つ知識かもしれないから」と聞き入れなかった。そんな彼女の姿をそばで見守り、時折おしぼりを差し出していたのがソフィアだ。
「ご自分の意志でそこまで追い込んでしまうほど、殿下の存在は大きかったのでしょうか……。あの純粋な意欲が、今こんな形で砕かれようとしているなんて……」
思い出すほどに、今のロザリアの現状と重ね合わせると悲しみが込み上げる。プライドが邪魔をして周囲の優しさを受け取れず、そして誰かを頼ることでまた自分の誇りを失うと思い込んでいる――それは結局、幼少期から続く「王太子妃になる使命感」が根づよく残り、その生き方以外を許さない魂の叫びのようなものかもしれない。




