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第1話 青と銀の煌めき②

 優美な階段を下り、広いホールを抜けると、玄関先で馬車が待機していた。御者の姿勢は正しく、車体にはグランフィールド公爵家の紋章が浮かび上がっている。迎えに立つ執事が(うやうや)しく頭を下げ、ドアが開かれた。


「お嬢様、馬車の準備は万端でございます。ご出発されますか?」

「ええ、行きましょう」


 ロザリアは緩やかに首を縦に振り、ドレスの裾を少し持ち上げながら馬車に乗り込む。ソフィアも続いて乗り、扉が閉じると、その独特の静寂の中でクッションの柔らかさを感じた。馬車の揺れがロザリアの心をわずかに落ち着かせるようにも思える。


「夜会……いつもとそう変わりないはずなのに」


 馬車が動き始めると、車輪の音が石畳を踏むリズムを刻んでいく。ロザリアは窓の外に目を向け、夕暮れ時の景色が少しずつ後ろへ流れていくのを黙って見つめた。風がほんのりと冷たく、頬を撫でる。これから始まる宴では、王太子ジュリアンとどう向き合うべきなのだろう。長い間、まともに会話を交わす機会が減っていたせいか、互いの本音が見えづらいと感じている。


 もっとも、自分が夜会に臨む姿勢は変わらない。公爵令嬢に相応しい立ち振る舞いを忘れず、何があっても毅然とした態度を保つつもりだ。周囲がどう期待していようと、失礼のない振る舞いを心がければいいだけのこと。でも――心のどこかに小さな引っかかりが残る。普段と変わらない夜会だと自分に言い聞かせても、何かが起こりそうだという予感が拭えないのだ。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


 ソフィアの声が車内を柔らかく包み込む。ロザリアは一瞬だけそちらに目をやり、小さく笑みをこぼす。


「ええ、大丈夫。少し考えごとをしていただけよ」

「そうですか。もし何かご不安なことがあれば、遠慮なくおっしゃってください。無理をする必要はありませんよ」

「わかっています。でも、公の場に出る以上、ある程度は背筋を伸ばさなくてはね」

「お嬢様らしいですね。どうぞご自愛なさってください」


 ロザリアは隣に座るソフィアを見やり、こうして言葉をかけてもらえるだけでも随分と違うのだと感じる。華やかな衣裳に身を包み、周囲から憧れの目で見られる立場であっても、常に隙なく行動しなければならない。そんな状況を続けるうちに、彼女は自分自身が何を望んでいるのか、時々わからなくなることがある。それでも、信頼できる侍女がいるというのは大きい。


 馬車は邸の門を出て、大通りへと差しかかる。王都の中心部へ向かう道は整備されているため、車輪の揺れは比較的穏やかだ。夕暮れの空が淡い紫色に染まり始め、建物や街路樹が美しいシルエットを浮かび上がらせている。人々のざわめきが遠くに聞こえ、町はこれから訪れる夜の活気を迎えようとしているようだ。


「ジュリアン殿下は……今夜、どんな顔を見せるのかしら」


 小さな独り言をつぶやくと、ソフィアがわずかに視線を向けた気配があった。けれど彼女は口を挟まず、ただロザリアの言葉を受け止める。そういうところが、ロザリアはありがたいと思う。何かを話したいわけでもなく、かといって黙っていてほしいわけでもない――言葉にしがたい心のさざ波を、見守ってくれる存在がここにいる。


 王太子との関係は、よそ目には円満に見えるかもしれない。もともと婚約者として周囲に公言されているのだから、そう思うのは当然だ。だが、実際は少しずつ溝が生じているように感じてしまう。先日の夜会でも形式的な挨拶だけで終わり、深い会話をしたわけでもない。今日もその延長になるのだろうか――そんな思考を振り切るように、ロザリアは馬車の座席に深く背を預けた。


「いずれにせよ、夜会が始まればわかること。私にできるのは、今までどおり誇りを持って振る舞うことだけです」

「ええ。お嬢様が堂々とされていれば、きっと周りも落ち着くと思います」


 ソフィアの言葉にはためらいがない。おそらく彼女も社交界の厳しさを心得ているのだろう。そうやって過剰に助言せず、しかし必要な支えを与える絶妙さが、長年ロザリアに仕えてきた侍女ならではの配慮だと感じる。


 しばらくの間、馬車の中には小さな沈黙が訪れた。だが、その沈黙は重苦しさではなく、静かな覚悟の時間というべきかもしれない。ロザリアは自分の呼吸を整えながら、「公爵令嬢」としての自分を再度意識する。外の風景が少しずつ暮色に溶け込み、あたりにはランプや明かりが灯り始めている。すれ違う馬車も増え、華やかな衣装を着た貴族らしき人影が窓越しに見える。みながこれからの夜会に胸を躍らせているのだろう。


「そろそろ会場が近いかもしれませんね」

「そうね。……本当に、気を引き締めて行かなくては」


 ロザリアは窓の向こうに視線を留めながら小さく息をつく。自宅を出る際に感じたあの緊張は、いまだに胸の奥に残っている。だが、これ以上考え込んでも仕方がない。夜会に足を踏み入れた瞬間からは、周囲の注目を一身に浴びながら、優雅に、完璧に、貴族の花として振る舞わなければいけない。多少の不安や疑念があっても、ここでくじけるわけにはいかないのだ。


「お嬢様、もし何かあったらすぐお呼びください。私はいつでもお手伝いできるように待機しています」

「わかってるわ。ありがとう、ソフィア」


 その言葉を最後に、ロザリアは静かにまぶたを閉じる。馬車の心地よい揺れが身体をかすかに揺すり、耳には車輪の回転音だけが一定のリズムで流れている。目を閉じたまま呼吸を整え、頭の中で今夜の振る舞いをイメージしてみる。誰とどんな会話をするのか、王太子ジュリアンがどう出るのか、そのすべてを余裕をもって受け止めるために、自分を鼓舞しているのだ。


 ――いつもと同じ夜会のはず。完璧であれば何も問題は起こらない。私は公爵家の令嬢、そして王太子の婚約者。堂々と誇りを持って臨めばいい。それだけのこと。


 馬車は徐々にスピードを落とし始めた。おそらく会場が近いのだろう。ロザリアは目を開け、背筋を伸ばす。車窓の外には、明るい光を放つ豪奢な建物が見えてきた。入り口にはたくさんの馬車が止まり、人々が華やかな服装で降り立っている。王都でも屈指の大きなホールを使った夜会らしく、その装飾や門構えは、見慣れているとはいえ改めて圧倒されそうになるほどだ。


「ここからは、いつものわたくしでいればいい。大丈夫」


 小さな声でそう口にし、ロザリアは深く息を吐いた。ソフィアを含めた周囲の助力があるとはいえ、最後に大切なのは自分自身の心の強さだ。万が一、王太子の態度に驚くような点があっても冷静に切り抜ける。そして公爵家の令嬢として、どこまでも高潔に振る舞う。それこそが彼女に課された使命であり、彼女自身が築いてきたプライドでもあった。


「お嬢様、扉をお開けしますね」

「ありがとう。さあ、行きましょうか」


 馬車が完全に止まり、ソフィアが先に外へ降りてから、ロザリアの手をとってサポートする。青と銀のドレスの裾が地面につかないよう気をつけながら、ロザリアは静かに足を下ろした。そこにはすでにいくつもの視線が注がれている。出迎えの係や他の貴族も、彼女が馬車を降りる光景に見とれているのがわかる。


「すごく……素敵なドレス」

「見て見て、公爵令嬢よ。なんて綺麗なのかしら」


 かすかに聞こえてくるささやきを耳にしながら、ロザリアはさも当然という風に背筋を伸ばした。こういう場での周囲の目には慣れている。視線を気にしているようでは公爵令嬢の名がすたるというものだ。だから彼女は涼しげな笑みをたたえ、まずは会場の入口へゆっくりと歩み出す。スカートが揺れるたびに、青と銀のコントラストが周囲の光を受けて上品に輝いた。


 そうして夜会の開かれる広間へ続く廊下を進む間、ロザリアは何度か促されるように軽く会釈を返す。その姿は他人から見れば完璧な公爵令嬢そのもので、どこにも隙がないように映っているだろう。


 ――しかし、この夜会の先に、どんな出来事が待ち受けているのか、現時点では誰にもわからない。王太子ジュリアンとのやりとりがどう転ぶか。あるいは社交界で予期せぬ波紋を呼ぶかもしれない。そんな不確定な未来に対する不安を、胸の内側でぎゅっと抑え込むしかないのだ。


「お嬢様、夜会が素晴らしいものになりますように」


 ソフィアの小さな声が背後から届く。ロザリアは聞こえないほどの小さな声で、「ありがとう」とだけつぶやいた。その瞳にはまだ決意と小さな迷いが同居しているが、唇には揺るぎない微笑を浮かべる。これが彼女の流儀。周囲を圧倒するほどの美貌と気高さをまといながら、決して立ち止まらない。


 やがて、広間へと繋がる大きな扉が見えてきた。そこを越えれば、絢爛豪華な世界が待っているだろう。音楽の調べ、シャンデリアの輝き、集う貴族たちの視線――すべてがロザリアの到着を待ち受けている。彼女はわずかに顎を上げ、呼吸を整えた。静かな鼓動とともに、高鳴る期待とかすかな不安を胸に秘めつつ、一歩足を踏み出す。


 ――そう、ここからが本番。たとえ何が起ころうと、公爵令嬢としての矜持を守り抜き、堂々と美しい姿を披露する。それこそがロザリア・グランフィールドに課せられた役割であり、誇りでもあるのだから。


 外からの光が廊下を染め、ドレスの裾がきらめきをまとい始める。次の瞬間、扉の向こうから華やかな音楽がかすかに聞こえ、まばゆい明かりが差し込んだ。ロザリアは迷いなくその先へ歩みを進める。その背後には静かにソフィアが続き、彼女が決して一人ではないことを示していた。


 こうして、公爵令嬢としての誇りを胸に、ロザリアの「運命の夜会」の幕が上がろうとしている。

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