第8話 繰り返す訪問①
朝の冷たい空気がまだ漂う頃、公爵家の正門前で一人の青年が立ち尽くしていた。淡い茶色の髪に控えめな装い、そして何より、その瞳に宿る強い決意――レオン・ウィンチェスターである。彼は王太子による婚約破棄の一件以来、ロザリア・グランフィールドの身を案じ、頻繁に公爵家を訪ねるようになっていた。
しかし、それが許されるわけではないのは、本人が一番よくわかっている。子爵家の身で王太子の決定を覆す手立てなどないし、公爵令嬢を救うほどの権力も持ち合わせていない。周囲の貴族はもちろん、使用人ですら「子爵家なんて」という冷ややかな目で見ることもあるだろう。それでも彼は諦めず、こうして朝早くから門前で面会を求め続けているのだ。
「申し訳ありません、レオン様。お嬢様は……本日もお会いになれないとのことです」
門を固く守る使用人の一人が、申し訳なさそうに頭を下げる。その顔には同情が浮かんでいた。ロザリアに仕える者たちの中には、レオンの健気な姿勢に心を動かされている者が少なくない。だが、彼らにもどうにもならない事情がある。ロザリアが明確に拒んでいる以上、家の者が強引に面会を通すわけにはいかない。
「そう……ですか。わかりました。でも、せめて、これだけはお渡し願えませんか? 大したものではないのですが……ロザリア様が少しでも気分を変えられればと思いまして」
レオンは小さな包みを取り出し、使用人に手渡す。中にはレオンが最近見つけた美しい本や、気持ちを込めた手紙などが入っている。豪華な贈り物ではないが、ロザリアにほんの少しでも安らぎを届けたいという一心から準備したものだった。
「かしこまりました。確かにお預かりします。お嬢様が受け取ってくださるかはわかりませんが……私どもが必ずお伝えいたしますね」
「ありがとうございます。それだけでも十分です」
レオンは深く頭を下げた。その様子を見つめる使用人の瞳には、やはり同情と申し訳なさがにじんでいる。子爵家ではあるが、若いレオンには誠実さがあり、誰が見てもロザリアを案じる気持ちが伝わってくる。だが、公爵家としては今は何もできない。
結局、門前に佇んだまま会えずに終わる――そんな日がこのところ続いていた。レオンは落胆しながらも、一度ため息をこぼすだけで背筋を伸ばす。引き返す途中、屋敷の前庭にある豪華な花壇や、どこか落ち着いた雰囲気の玄関扉を横目に見るが、そこにロザリアの姿はない。
「まさか、こんな形で顔さえ見られないなんて……でも、諦めるわけにはいかないんだ。ロザリアが苦しんでいるというのに、黙っているなんてできるわけがない」
そう小声で自分に言い聞かせながら、やがて門の外へと足を進める。周りにいた近衛の兵士や使用人たちが、彼の背中に向けて無言の視線を送っていた。気まずそうにも、時に優しげにも見えるその眼差しは、レオンがやっている行動の真っ直ぐさに心打たれている証でもある。
門が閉まり、レオンはまばらな人通りの路地を歩いていく。まだ日の高くない時間帯なので、町も静かだ。子爵家へ帰っても、家の者から「王家の決定に逆らうような行為は控えるように」と釘を刺されるだけだろう。実際、父親も母親も、レオンの行動を危惧している。だが、彼は「だったらどうする? ロザリアを放っておくのか?」と思うと、じっとしていられなかった。
「子爵家ごときが、か……」
王太子やロザリアが口にしたあの言葉が胸に引っかかり、悔しさが募る。レオン自身、身分差など承知の上だが、幼馴染が不当な扱いを受けているのを見過ごせるほど薄情ではいられない。なので、こうして足を運ぶことが彼にできる唯一の支え方だと信じているのだ。
一方、その頃ロザリア・グランフィールドは自室のベッドに横たわったまま、薄暗い天井を見つめていた。昨夜はほとんど眠れず、朝になってようやくうとうとした程度。頭は重く、身体もだるいが、起き上がる気力すら湧かない。
扉の向こうから使用人の声がかすかに聞こえる。どうやらまたレオン・ウィンチェスターが訪ねてきたらしい、という断片的な話。だが、ロザリアは眉をひそめながら布団を握りしめるだけだ。
「……何度来ても、同じなのに」
小さな声でつぶやきながら、ロザリアは歯を食いしばる。レオンの真っ直ぐさがまぶしすぎる一方で、自分には彼を受け入れる余裕などない。――いや、もともと立場の違う子爵家に助けを求めるなど、プライドが許さない。そう思いこもうとするたびに、胸には得体の知れない痛みが走る。
まもなく侍女のソフィアが部屋に入ってきた。少し慎重な足取りで、トレイを置きながら報告する。
「お嬢様、例の子爵家のレオン様が、またいらっしゃっています。門前で何度も面会を求めておられますが……どういたしましょうか」
「相変わらず、何も学ばない人ね」
ロザリアは布団から少しだけ身を起こし、目線を下げたまま冷たい口調を返す。ソフィアはその態度に「やはり……」という表情を浮かべたが、少し踏み込んだ言葉を続ける。
「お嬢様、あの方は本当に心配しておられる様子です。連日足を運ばれる姿を見れば、その強い意志が伝わってきます。周りの使用人たちも、あれほど粘り強いお姿に打たれているくらいで……」
「でも、子爵家に何ができるというの? 結局、王太子の決定が覆るわけでもないし、私の疑いが晴れるわけでもない。わざわざ痛い目を見るだけよ」
冷静な語調を保つが、その声には自嘲が混ざっている。ソフィアはテーブルにそっと花束を置き、ロザリアの顔色を伺いながら問いかける。
「それでも、お嬢様に対して何とかしたいと思う気持ちは本物なのだと思います。お断りになってばかりいると、あの方も心を痛めてしまうのでは……」
「ソフィア、あなたもわかっているでしょう? 私が今さら子爵家の訪問を受け入れたら、周りがどう見るか。『グランフィールド公爵令嬢が身分の低い相手にすがっている』とか、わざわざ話題になるだけよ」
「ですが……」
「もうやめて。話す気にもなれないの。お引き取り願ってちょうだいと言っておいて」
そう言い捨てるロザリアの声は、少し尖っている。ソフィアは苦しそうな眼差しを向けるが、結局それ以上の説得はできない。両親でさえ動けずにいる中、侍女の自分が何を言っても変わらない。ソフィアは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まった後、ロザリアはぐったりと枕に頭を沈める。目を開けば、数日前に部屋に届けられた小さな包みが視界に入ったままだ。中に本や手紙が入っていると聞いたが、いまだに開けられずに放置している。きっとレオンからの贈り物だということはわかるが、それに手を伸ばそうという気が起こらない。
「そんなもの……見ても仕方ないわ。どうせ、慰めの言葉が書かれているだけ」
そうつぶやく声に悲しみがにじむ。幼い頃は確かに仲が良かった。大きくなってからも時折顔を合わせては挨拶を交わす程度には、心にかすかな温かい思い出がある。けれど、今は自分の身分や公爵家の窮地を考えれば、彼の善意を受け入れるわけにはいかないと感じるのだ。彼女のプライドも、それを強く拒絶している。
そんな拒絶が続く中で、レオンは毎日のように現れる。ソフィアをはじめ、周囲の使用人たちはレオンに好意を持ち始めているようだ。ほとんどの人間がロザリアに近づこうとしない状況で、彼だけは顔を上げて必死に言葉を届けようとしている姿に感銘を受けているのだろう。そうした雰囲気がロザリアにも伝わってきて、胸を複雑にする。
「子爵家の力じゃ何もできないはず……。なのに、わざわざ足を運んで、何になるの」
冷たい言葉の裏側には、それでも「ありがとう」と言いたい自分がいるかもしれない。でも、口には出せないし、動けない。結局、毎日そうして拒絶することでしか、自分のプライドを守れない状況に追い込まれている。
午後になっても、レオンは懲りずに門を叩いたらしい。その報せを受けたロザリアはベッドから身体を起こし、窓際まで歩く。思い切ってカーテンの隙間をのぞいてみると、遠くの門の外でレオンの姿が小さく見えた。彼は門前の侍女と何かやりとりしているようで、時折頭を下げたり、小さな包みを渡したりしているのが見える。心なしか、周辺の使用人が困惑しながらも彼に好意的に対応しているのがうかがえる。
「……そんなにまでして、何がしたいの? 本当に私を助けられると思ってるの?」
内心では彼の優しさがありがたい。しかし、婚約破棄と裏切りの罪を押し付けられた公爵令嬢を守れるのは、子爵家などではない。たとえ誠実な気持ちがあっても、王太子に刃向かうほどの力はなく、むしろ逆効果になるかもしれない。そう自分に言い聞かせることで、ロザリアは窓を再び閉める。
何日も続く同じ光景。レオンは朝と午後に足を運び、それでも毎回断られて帰っていく。使用人たちが同情するように「お嬢様、レオン様が来ておりますが……」と報告するとき、ロザリアは毎度「お断りして」と冷たく答える。まるで壊れた繰り返しのような日々を過ごしていた。




