第7話 閉ざされた日々②
部屋の外では使用人たちが走り回り、廊下を行き交う気配が絶えない。おそらく「ロザリア様に何か食べさせねば」「ご機嫌を取らねば」とソフィアらが懸命に動いているのかもしれないが、彼女はそれすら無視したい気分だった。扉越しに聞こえる音は遠く、耳を塞ぐまでもなく雑音として心に届く。
「もう、どうにもならない……何もしなくても、ただ噂は広がるだけ」
実際、噂は止まるどころか燃え広がっていた。婚約破棄に加え、王家を欺いていたというスキャンダラスな話題は、社交界の人々にとって絶好の娯楽のネタになってしまっている。表立ってロザリアを非難する者もいれば、「あの高飛車な令嬢が落ちるところまで落ちたんだ」と嘲笑する者もいるという。生々しい中傷が彼女の耳にも断片的に届くたびに、胸が痛む。
「お嬢様……せめて、お茶だけでもお召し上がりください」
再び扉の外でソフィアの声が小さく響く。先ほども同じように励ましてくれたが、ロザリアは心ここにあらずのまま「いらない」と答える。スープや果物など、どれだけ優しいものを用意されても胃が受け付けない。何日もろくに食事をしていない状態で、このままでは体力が衰える一方だとわかっていても、動こうとする気力が湧いてこない。
ソフィアのため息が聞こえ、やがて彼女は足音を立てずに去っていった。ロザリアは申し訳ない気持ちを抑え込んでいる。謝れば、そこでまた余計な会話が生まれるかもしれない。しかし、今は誰とも喋りたくなかった。黙って自分の殻に閉じこもるほかない。そんな不安定な心のまま、彼女は椅子を立ち、窓に近づいて重いカーテンを開けようとする。だが、その手が途中で止まる。
「……外なんて、見たくない」
淡い光が一筋だけ差し込む窓辺。そこには、かつて自分が花を愛で、未来を語り合った思い出すらある。子どもの頃、レオンと過ごした時代も、王太子のために鍛錬を重ねた少女時代も、全てが遠く感じられる。今はただ孤独と絶望が部屋を満たしているようだ。
最終的に窓は開けず、ロザリアはベッドの脇へゆっくりと移動し、そのまま深く沈み込むように腰かける。柔らかな寝具が身体を受け止めるが、心の疲れは癒やされない。両親が王宮に書状を送ったという噂も耳にしたが、きっと王太子ジュリアンが返事をするとは考えにくい。あの夜会の態度を思えば、すべてが手遅れに思えてしまうのだ。
「公爵家の令嬢なんて、肩書き一つでしかなかったのかもしれない。少し歯車が外れたら、こんなにも簡単にすべてを失うなんて」
自嘲気味に笑うが、それもすぐに途切れた。目を閉じ、部屋の暗さを感じるうちに、意識が朦朧としてくる。眠りたいような、眠れないような不快感が続き、はっきりとした疲労だけが身体に溜まっていく。夢に出てくるのは、夜会場での断罪かもしれない。あの時の光景が脳裏にこびりついて離れない。
しばらくすると、扉の外でまたささやき合う声が聞こえた。両親か、それとも執事か、詳しいことはわからないが、「どうにかしなければ」「王家との関係が……」といった言葉がかすかに聞こえてくる。公爵夫妻も娘の将来を案じつつも、下手に動けない。結果としてロザリアは、誰からも具体的な救いの手を得られないまま部屋に閉じこもっているのだ。
「全部嫌……全部、嫌」
ドレスを丁寧に着替えることもなく、崩れるようにベッドに倒れ込む。髪は乱れかけているし、意識もはっきりしない。とにかく空虚感だけが際立ち、時折涙がにじむが、声を上げて泣くことはない。誇りがそれを許さないのだ。子どもの頃に父母から教えられた「公爵令嬢である自覚」が、彼女を無言の檻に閉じ込めている。
(本当は、誰かに話を聞いて欲しい。私は無実だと、皆に証明したい。でも、もうそんな余裕はどこにもない)
噂は刻一刻と拡大していると、ソフィアから聞かされていた。「王太子に公に嫌われた」「本性が暴かれた」「裏では何らかの陰謀を企んでいた」――噂の形はさまざまだが、共通するのは彼女を孤立させる内容ばかり。公爵家に親しんでいた者たちも、今は様子をうかがうばかりで表立った行動を取ってくれない。
ロザリアはベッドの上で小さく丸まりながら、薄暗い天井を睨む。覚えているのは、鮮明な夜会の断罪の記憶と、そこにいた王太子とレオンの姿だけ。彼女は王太子への怒りと裏切られた悲しみ、そしてレオンが示してくれた情を突き放してしまった自責の念という、相反する感情を同時に抱えている。
「外に出るわけにはいかない……。出て行けば、さらに騒ぎ立てられて、王家の怒りを買う可能性がある……。それとも、何か手立てはあるの?」
自問自答を繰り返しても答えは出ず、ただ疲れが増すばかり。数日間、ほぼ部屋に閉じこもっている状態では、体力も限界に近い。食事をとらないままでは、やがて倒れてしまうだろうということは理屈ではわかっているが、それすら気にかける意欲が湧かないのだ。
沈んだ静寂を破るように、再びソフィアが扉を控えめに叩く音が聞こえた。返事はしないが、ソフィアは慎重に中へ入り、先ほど置いたままの食事を下げようとする。ロザリアは背を向けたままだったが、声をかけられずとも、侍女の視線を感じる。その視線には「何とか食べてほしい」という切実な願いが込められているようだ。
ロザリアはちらりと皿に視線を送るが、何も言わず再び枕に顔を沈める。ここでソフィアが強引に口を開かせようとしても、無理に口を動かすことはできない。結局、ソフィアはため息をこぼして食事を下げるだけだ。それを見送りながら、ロザリアは心の中でごめんなさいとつぶやく。しかし声には出さない。たとえ謝ったところで状況は変わらないし、自分の弱さをこれ以上見せたくない。
扉が閉まると、再び部屋は元の暗さに包まれ、あたりにはロザリアのかすかな呼吸音しか聞こえなくなる。外の世界では、彼女が部屋に閉じこもっているという話がまた不穏に広まり、人々は「やはり後ろ暗いところがあるから隠れているのでは」「公爵家も終わったな」などと無責任なことを言っているかもしれない。彼女がそれを耳にしなくとも、噂は確実に広がり続ける。
「いつまでこの状態が続くの……」
小さく震える声で、ロザリアは質問するようにつぶやく。誰に向けた言葉でもなく、ただ部屋の空気に飲み込まれていく。夜会から数日間、ずっと同じ問いが頭の中を巡っているが、答えは一向に見つからない。誰も救いの手を差し伸べてはくれないし、彼女自身が動く気力もないのだ。
かつて、数多くの人々から称賛され、「王太子の婚約者」として一目置かれたことが、今では逆に重くのしかかる。尊大に振る舞っていたと嫌味を言う者さえいると、使用人が漏らしていた。そうした陰口にまで反論する術はなく、ただ聞かされるだけの毎日だ。
それでも、ロザリアは扉を開くことができないでいる。外へ出れば攻撃を受ける未来が見えていて、それに耐えられるほどの強さを失っていた。誰かに手を差し伸べられても、プライドが邪魔をして素直に受け止められるだろうか。レオンのことを思い返すたびに、あの夜の拒絶が胸を締めつける。彼なら何とかしてくれたかもしれないとかすかな期待が芽生えそうになるが、だからこそ冷たく突き放したのだ。
「……全部、私は自業自得なの?」
そのつぶやきに返事はない。ただ、静寂が悲哀を含んで耳を塞ぐだけ。ロザリアはゆっくりと目を閉じる。闇の中にいるほうが心地よいとさえ感じてしまう。「立ち上がれ」と励ます声もないからこそ、いつまでもこの自己憐憫に浸れる。でも、それが彼女を救うことはないと、わかっていても抜け出す力がわかない。
こうしてロザリアは、扉も窓も閉じきった薄暗い自室で、ますます沈んでいく。外の世間は「公爵令嬢の婚約破棄」というスキャンダルに、半ば狂乱のような興味を示している。王家への裏切り疑惑という負のレッテルは、まだ弱々しい火種だが確実に燻っていて、噂が燃え上がるのは時間の問題かもしれない。
部屋に残されたわずかな光が、ロザリアの銀髪をわずかに照らし出す。普段なら高貴で美しい姿が目を引くが、今はやせ細った心を映し出す鏡のようにしか思えない。周囲からは結婚のため、王太子妃になるため、と言われ続けてきた人生。その行き先が突然断たれ、さらに罪人のような扱いを受けるなど、想像の範囲外だった。
(ここで塞ぎ込んでいても……わかっているけれど……何もしたくないの)
もはや、夜会での美しいドレスや豪奢なアクセサリーを身につけても、誇りを感じられる日常には戻れないだろう。それがどれほど価値のないものに思えてきたことか。王太子の言葉一つで、人生がもろくも崩れるのなら、自分が大切にしてきたすべては一体何だったのだろう――答えのない問いを噛み締めながら、ロザリアはただ部屋に閉じこもる。
こうして彼女の失意の日々は続いていく。プライドを捨てきれないがゆえに、助けの手を受け取れず、噂に打ち勝つ力も湧かない。心配するソフィアを邪険に扱い、両親を頼れないまま、外界の喧噪を遠巻きに聞くだけの日々。まるで目を閉じ、耳を塞いで、荒れ狂う嵐が通り過ぎるのを待っているようなものだが、嵐が本当に過ぎ去る保証はどこにもない。
それでも、部屋の奥底でかすかに輝く希望があるとすれば、それはロザリア自身の中に眠る“誇り”かもしれない。もしそれまで手放してしまえば、本当に全てが終わってしまう。今は何もできなくとも、いつか立ち上がる日は来るのだろうか――果たして、それがいつ訪れるのかは、誰にもわからなかった。
重苦しい静寂と揺れる不安の狭間で、ロザリア・グランフィールドは暗い部屋にひとり閉じこもり続ける。婚約破棄と裏切りの噂に蝕まれていく心。外の世界で噂が燃え盛るたびに、彼女は心を鎖で巻きつけるかのように硬く閉ざし、ただ時間が過ぎ去るのを待っていた。立ち上がる勇気を得られる日は、本当に巡ってくるのだろうか――そんな疑問が、室内の静けさに紛れて虚空へ溶けていくだけだった。




