第7話 閉ざされた日々①
あの日の夜会での衝撃が冷めやらぬまま、数日が過ぎ去った。
その間、ロザリア・グランフィールドは自室の扉を固く閉ざし、ほとんど外界と顔を合わせていない。かつて公爵令嬢として社交界の中心に立ち続けた姿は影を潜め、屋敷の中でも彼女の姿を見かける者はほとんどいなかった。
薄いカーテンがかかった窓からはかろうじて外の光が差し込むが、部屋の空気は沈んだ空気に包まれている。普段なら陽光の下で輝くはずの銀髪が、今はくすんだように見え、青い瞳にも活気が感じられない。ロザリアは椅子に身体を預け、机の上に置かれた書類や花瓶にも目を向けず、ただじっと黙りこんでいる。
扉の向こうでは、使用人たちの慌ただしい足音や、下働き同士のささやきが時折聞こえてくる。彼女の耳には、それが異様に遠く感じられた。まるで別世界の話のように思えるのだ。この部屋の中にいる限り、あの日の出来事――婚約破棄と王家への裏切りの疑惑――すべてが悪い夢だったと信じたい。けれど、現実は無情にもそこにある。
「……お嬢様、失礼いたします」
小さな声と共に、侍女のソフィアが控えめに扉を開けた。ロザリアの部屋に入ることを許された数少ない使用人の一人だが、ここ数日はほぼ空振りに終わっている。ロザリアは彼女をまともに相手にするでもなく、食事を運んでくるのを黙って受け取るか、あるいはそれさえも拒むことがある。
ソフィアはトレイに載せた軽い食事と温かいお茶をテーブルに置く。気を遣うように、ゆったりとした仕草で動くが、ロザリアは顔を上げようとしない。部屋の中に漂う沈黙が胸を締めつけるようだ。
「お嬢様、少しでも食事を召し上がってくださいませ。冷めないうちに、口へ運んだほうが……」
「……放っておいて」
ロザリアの声は低く押し殺され、まるで床に向かって落ちていくようだ。ソフィアはその言葉にかすかに眉を寄せながらも、静かに頭を下げる。この数日、ロザリアはほとんど口を開かず、何を問いかけても「今は話したくない」という態度を続けている。それでも侍女として仕える彼女は、少しでも助けになりたいと足を運んではいるが、状況が好転する気配はなかった。
ソフィアは机の脇に置かれた花瓶を見て、萎れかけた花を取り替えようと手を伸ばす。しかし、ロザリアがそれを目に留めている様子はなく、背後からの気配にも反応を示さない。いつもなら香りに敏感で、花の種類や生け方にこだわる彼女が、今はまるで無関心だ。
「お嬢様……。せめて新鮮な空気を入れるために、窓を少し開けませんか?」
「結構よ。外の声を聞きたくないから、閉めたままにして」
それだけ言うと、ロザリアは浅く息を吐き出す。窓の外からは、時々馬車が走り去る音や、屋敷の門の近くで語られる使用人たちの会話が遠くに聞こえてくる。けれど、それ以上に、そこには世間からの冷たいささやきが待ち受けていると感じるのだ。
あの夜会から数日。婚約破棄と王家への裏切り疑惑の話はすでに社交界全体を駆け巡り、どこへ行っても「グランフィールド公爵令嬢が追放されるかもしれない」「おごり高ぶった令嬢が、隠れて不正を働いたらしい」などといった噂が飛び交っているという。夜会に出席していた人々も、またその周囲も、こぞってロザリアの話題を口にしているらしい。
公爵家の使用人たちも、屋敷の外へ出るたびに問われるらしく、戸惑いと不安を隠せない。それどころか、一部の有力者からは「グランフィールド家は終わった」「王家の怒りを買ったのだろうか」などという冷やかな視線が向けられ始めているそうだ。ロザリアの両親もまた、王家に直接働きかけることを試みているものの、決定的な行動はまだ取れないでいる。下手に動けば、娘のみならず一家全体が王家の敵とみなされる恐れがあるからだ。
「お嬢様、何かご入り用はございませんか。お好きな詩集や手習い道具をご用意できますが……いかがでしょうか」
「いらない……全部いらない。今は何もしたくないの」
ロザリアの声が苛立ちをはらんでいるわけではないが、その拒絶は明確だった。ソフィアはそれ以上の言葉をかけずに小さく頭を下げる。気遣っても、彼女の心は開かない――そう悟っているからだ。
「少し休みます。お願いだから、私を一人にして」
ロザリアがこぼれるように言う。ソフィアは名残惜しそうな表情を浮かべながらも、「かしこまりました」とだけ答えて部屋を出ていった。扉が閉まると、静寂が再び部屋を支配する。
彼女はやや強く瞳を閉じ、そのまま椅子にもたれかかる。何も考えたくない一方で、頭の中には先日の夜会の光景がありありと蘇る。王太子ジュリアンの冷酷な言葉と、押し寄せる視線、そして子爵家のレオンが必死に声を上げてくれたときの情景。それらが胸に鋭く突き刺さり、何度思い返しても心が痛む。
婚約を破棄されただけならまだしも、王家を欺いたという疑惑までかけられたのだ。そんな理不尽な烙印を押されれば、これまで築いてきた名誉や功績など一瞬で崩れ去る。何より、社交界では、王太子の発言に逆らうわけにもいかないだろう。あの場ですでに事実かのように流布されたことで、ロザリアの名はあっという間に「裏切り者の可能性がある令嬢」として広まっている。外に出るどころか顔を見せるのさえ躊躇われるほどだ。
「……誰も助けてくれない。自分でやらなきゃいけないんだろうけど……何をしたらいいの?」
独り言のようにつぶやいてはみるが、答えはない。ただ虚無感だけが押し寄せてくる。幼いころから一直線に王太子妃の道を目指していた彼女には、その未来こそが人生だった。勉強も礼儀も、苦しい鍛錬もすべては王太子に相応しい令嬢になるため。けれど、それが根こそぎ奪われた今、何を目指して生きればいいのかさえわからない。
扉の外では、両親と思しき話し声がかすかに響いた。おそらく公爵夫妻が、娘の様子を気にかけているのだろう。
「……どこかへ陳情するにしても、王太子を敵に回すなどできない……。それでいて黙っていれば、ロザリアが悪者になってしまう」
「王太子に直接会いに行くわけにはいかないの? 話し合いの場を設ければ、何か誤解が解けるかもしれない」
「……慎重に動かねば、より大きな禍を招くだけだ。今は時機を待つしか……」
両親の話はそこから先、よく聞き取れないが、少なくとも「娘を救おう」と焦っているわけでもないようだ。彼ら自身が王家への睨みを恐れ、強く行動に移せずにいるのが手に取るようにわかる。もちろん、ロザリアのことを娘として思っていないわけではないだろうが、ここは貴族社会だ。名声と権力を重んじる以上、王家を相手に軽はずみなことはできない。
(……お父様もお母様も、私をどうにもできないのね)
ロザリアは一瞬、両親を恨みたい気持ちが湧くが、それをぐっと押さえ込む。恨んでも状況が良くなるわけではない。それどころか、屋敷の中でさえ味方が少ない現実に打ちのめされるだけだ。皆、王家の不興を買うまいと静観しているのだろう。使用人たちも長年仕えているが、結局は口を噤むしかない。
「こんな私を守ろうなんて言ったら、家全体が危うくなる……。そんな現実、よくわかってる」
口元からもはや笑みすら浮かばない。抜け殻のように机に肘をついて、無意味に視線を彷徨わせる。散らかったままの手紙や書簡が目に入るたびに、「婚約破棄」「裏切り者」「スキャンダル」といった言葉が脳裏をよぎり、胸に重くのしかかる。
ふと、先日の夜会でのレオンの姿が思い出される。あのとき、王太子の断罪に異議を唱え、必死にロザリアを庇ってくれた幼馴染。それなのに、彼女はプライドから冷たく突き放してしまった。もしかしたら、あの行動で彼に深い傷を与えたかもしれない。それを考えると、罪悪感が心を締めつけるが、同時に自分の弱さを見せたくない思いが混ざって素直になれない。
「彼の気持ち……正直、嬉しかった。でも、私は子爵家に助けを求めるわけにはいかない」
少しだけ唇をかみ、夜会の記憶を頭から振り払おうとする。あの場での惨状は悪夢のようだったが、現実はもっと厳しい。今やロザリアは「王家への裏切りを働いた可能性のある令嬢」であるという悪評が、社交界中に蔓延しているのだから。外に出れば、どんな視線が待ち受けているかわからない。
「ソフィア……。どうすればいいの?」
そう小声でつぶやいた瞬間、いつもなら部屋に駆け寄ってきそうな侍女の姿はないと気づく。先ほど自分が「放っておいて」と突き放したばかりだ。ロザリアは何ともいえない虚しさを覚え、椅子から立ち上がることもできずにいる。
かつては、王太子妃として完璧を求められ、それを当然と思い込んでいた自分が、今や部屋に閉じこもり何もしない日々を送っている。それでもプライドだけは捨てられない。外に出て噂に直面する勇気など到底持ち合わせていないし、むざむざ人々の嘲笑や侮蔑を浴びに行く気にはなれないのだ。
「公爵令嬢として私が築いてきたものは、一体何だったの……?」
答えは風の中にあるのか、それとも最初から何もなかったのか。静かな部屋の空気が重く、カーテンの隙間から一筋の光が差し込んでいるが、それすらもぼんやりと見えるだけ。ロザリアはもう一度椅子にもたれ、瞼を下ろした。




