第6話 交差する思い②
ロザリアは視線を落とし、もう一度冷たい調子で言葉を発した。
「わかってちょうだい、レオン。あなたが騒いだところで、私にとって何の意味もありません。それどころか……立場の低い子爵家が出しゃばるなんて笑われるだけ。恥の上塗りになるのは、あなた自身でしょう?」
「そ、そんな……。私はただ、あなたを……」
「うるさい。勝手な感傷を押し付けないでちょうだい」
その瞬間、会場は息を呑むほどの静まりを見せた。まるで風が吹き抜け、全員が凍りついたかのように動きを止める。ロザリアの声は、優雅に響くはずの令嬢の口調が、どこか刺々しい氷を思わせる冷たさを伴っていた。
(これでいい……私は私のプライドを守るだけ。それに、あなたをこれ以上巻き込みたくないの)
本心では涙を飲むような苦さを感じていたが、ロザリアはその感情をみじんも表に出さなかった。レオンが表情を失い、そのまま言葉を呑みこむ様子を横目に捉えながら、彼女はスカートの裾を優雅に持ち上げて一礼する。
「……お騒がせして申し訳ございませんでした。私はこれで失礼します。今宵はもう、お話できることはございませんので」
周囲から「ロザリア様……!」という呼び止める声が上がるが、彼女は聞こえないふりをした。ジュリアンは無言のまま壇上にいて、レオンもまた茫然と立ち尽くしている。残された貴族たちは成り行きを見つめるしかない。混乱の渦中、ロザリアは人込みをかき分けるようにして場を去ろうと歩き出す。気高く背筋を伸ばしたまま、まるで“自分を貶めようとしている”王太子と、すべてを守ろうとするレオン両方を拒絶するように。
ある者は、その後ろ姿に「さすが公爵令嬢だ。こんな状況でも動揺を見せない……」と感嘆する声を漏らす。だが、その優美な足取りの裏では、ロザリアの心が張り裂けそうなくらい痛んでいるのだと、誰も気づいていない。
「ロザリア!」
レオンの叫びが遠くから聞こえるが、彼女は振り返らない。王太子の告発が取り下げられない以上、これ以上の争いをしても無駄だと思っている。それに、今は何よりも自分の立場を守るために「冷たい公爵令嬢」の仮面をかぶるしかないのだ。彼を見返してしまえば、弱った自分の感情が溢れ出てしまう気がした。
「……私のことは放っておいてちょうだい」
そうつぶやき、ロザリアはドレスの裾を翻しながら退場を急ぐ。周囲の視線はまだ鋭く突き刺さってくるが、彼女は平然を装ったまま。まるでここは自分の居場所ではない、と言わんばかりの毅然とした振る舞い。きっと何人かが心の中で「冷たい女だ」と思っているに違いないが、今はそれでいい。泣き叫ぶ姿など見せたくない。
フロアの端で、彼女を見送る貴族たちが気まずそうに道をあける。レオンはもう一度「待ってくれ!」と声を張り上げるが、ロザリアはかぶりを振るようにして歩みを止めず、扉のほうへと向かう。華やかな夜会場が一転、地獄絵図のように荒れ果てている現状を後にし、堂々と退場する姿を保つ。
(本当は……助けてほしかった。あなたの存在は、心強いものだった。だけど、子爵家のあなたを巻き込むわけにはいかないのよ)
心の奥底ではレオンの行動を嬉しく思っていた。しかし、それを表に出せば彼はより深みにハマる。何より、公爵家の令嬢が子爵家の助けを借りるとあっては、周囲の憶測を呼びかねない。ロザリアのプライドは、そんな事態を受け入れられなかったし、レオンを危険な立場に追いやることにもなるだろう。
「……これ以上、恥を晒したくないの。殿下の前で、情けない姿など……」
彼女は苦い思いを噛み締めながら、扉に手をかける。まだ夜会は終わっていないが、この場にとどまる必要はもうないように思えた。舞踏も歓談もすべて吹き飛んでしまった今、ここは狭苦しくて仕方がない。その肩を見送る人々が何を考えていようと、振り返る気はなかった。
背後ではまだジュリアンとレオン、そして他の貴族たちの声が入り交じっている。レオンが食い下がろうとするのを、周りが押しとどめているような喧騒が耳に届く。誰かが「馬鹿な真似はやめろ!」と制止しているのが遠くからわかる。そもそも王太子に楯突けば、下手をすればレオン自身の家が危ない。きっとロザリアを守りたい気持ちで動いているのだろうが、それはもう彼女が拒絶した。いや、拒絶するしかなかったのだ。
(ごめんなさい……レオン。あなたの誠実さは知っているけれど、私は公爵令嬢。あなたの助けを借りるわけにはいかない。今は、そうするしか……)
逃げるように扉を開け、廊下へと出る。夜会場の喧騒が背後に遠ざかっていくに従い、ロザリアはか細く息を吐き出した。先ほどまでの強がりが少し剥がれ落ち、頭の中は混乱と痛みでいっぱいになる。ドレスの裾を握りしめながら、彼女は一瞬だけ目を閉じる。
(どうしてこんなことに……。私の未来は、王太子妃としての立場は、もう全て崩れてしまうの?)
そして、泣きそうになるのをこらえて顔を上げる。もしここで涙を流せば、公爵令嬢としての誇りが砕け散ってしまいそうだった。彼女は廊下を進みながら、自分の部屋か馬車に戻る算段を必死に立てる。言葉にならない叫びを心に押し込めながら、背を伸ばして歩く。その足取りは重く、恐ろしく孤独だ。
「ロザリア様……!」
廊下に出たところで、ソフィアや周囲の使用人たちが心配そうに寄ってくる。しかし、彼女は微笑みを装いながら首を振った。
「いいの。何も聞かないで。今は……」
「ですが、お体のほうは……?」
「私は大丈夫よ。これから帰るだけ。ほんの少し落ち着きたいの」
ソフィアの焦った表情にも、「ごめんなさい」とロザリアは目で謝罪する。詳しい事情を話せるはずもないし、話せば心が崩れそうだ。彼女は使用人たちに合図し、馬車の手配を急がせた。おそらく夜会はまだ続いているが、実質的にはもう破綻しているも同然。この場から立ち去るしか選択肢はない。
ふと後ろを振り返ると、会場の扉が開きっぱなしになっており、奥からまだ騒々しい声が洩れていた。レオンの声が混じっているのかもしれないが、もう聞き取りたくはない。ロザリアは大きく深呼吸をして、使用人の先導に従いながら足早に進む。頭がぐらつきそうになり、心臓が高鳴りすぎて息苦しい。
(ごめんなさい、レオン。あなたの優しさは嬉しいわ。でも、この立場の違いを考えて……あなたまで犠牲にするわけにはいかない)
その思いが彼女の胸をきしませる。プライドを隠れ蓑にして、冷たい言葉を浴びせてしまった。ロザリアは自分の判断を否定も肯定もできず、ただ進むしかない。今の彼女は理性と気高さを保つのが精一杯なのだ。誰にもすがることなく、婚約を一方的に破棄されたうえ、罪人の烙印を押されるかもしれない。そんな地獄へ真っ逆さまだというのに、周囲には自分を救ってくれる人はいない。
「馬車をお呼びしました。どうかこちらへ……」
「ええ、ありがとう」
馬車の準備ができたという知らせを受け、ロザリアは静かにうなずく。侍女たちが彼女のドレスの裾を支えたり、体調を気遣う言葉をかけたりするが、ロザリアは「大丈夫ですわ、問題ありません」と繰り返すだけだ。内心、ギリギリのところで自分を支えているプライドがなければ、ここで倒れてしまいそうになるほどの疲労と絶望が押し寄せていた。




