第5話 衝撃の言葉②
ジュリアンは場の混乱を見下ろしながらも、さらなる追及を行うようには見えず、ただ淡白な目をしている。いや、もしかすると背後に誰かの糸が絡んでいるのではないか――周囲にいる貴族たちの中には、そんな疑惑を抱いている者もいるかもしれない。いずれにせよ、今は理不尽な言葉が一方的に流されている状況だ。
「殿下、これはあまりにも唐突な宣言かと……せめて、もう少し詳しい説明を……!」
主催者の侯爵が勇気を振り絞って進言するが、ジュリアンはそちらを見ることなく、小さく息を吐くのみ。まるで誰にも相談せず、独断で進めているかのようにも映るその姿に、周囲は動揺を隠せない。もはや夜会の終わりを飾るどころか、最悪の幕引きが始まろうとしていた。
そのとき、場内で最も苦しそうな顔をしていたのは、間違いなくロザリアだ。彼女は頭の中で必死に状況を整理しようとするが、圧倒的な怒りと恥辱、それに漂う悲しみが邪魔をして考えがまとまらない。焦点が合わない視界に人々の姿がちらつき、豪奢なシャンデリアの光がまぶしく刺さる。
(私は……どうするべき? 婚約が破棄されてしまうなら、公爵家の名誉は……それだけじゃない、王家への裏切りという罪を押し付けられて、私はこれからどうなるの?)
答えなど見つかるわけもなかった。まさに今、この場で婚約破棄が宣言されたばかりなのだから。そのうえ、根拠不明の罪までかけられている。プライドの高いロザリアでさえ、この瞬間は自分が崩れ落ちてしまいそうな恐怖を感じていた。
すると、遠くの人混みの中からわずかにレオンの声が届いた気がした。
「ロザリア……!」
一瞬、彼女はそちらを向きかけるが、顔を上げることができない。ここで助けを求めるような視線を送るわけにはいかないのだ。彼が何を言おうとしているか、耳には届かない。ただ、その場で呆然と立ち尽くしているという印象だけを受ける。そして、レオンだけでなく他の貴族たちも皆、言葉を失う光景が広がっていた。
(誰も助けてくれない……当たり前よね。相手は王太子なのだから)
胸の奥で自嘲気味な思いがこみ上げる。しかし、その浮かんできた苦い感情を飲み込み、ロザリアはわずかに顎を上げた。視線はジュリアンを捉えているが、彼女の眼差しには怒りと誇りが混ざり合っている。自分の名誉を潰そうというなら、それに見合うだけの大義名分を示せ――彼女の瞳はそう訴えているかのようだった。
それでも、ジュリアンは彼女と目を合わせようとしない。さも「すべて決まったことだ」と言わんばかりに、淡々と場を見回し、断定的な口調を崩さない。自らの婚約者を裏切り者として扱うなど、ただ事ではない。多くの貴族が「まさか、ジュリアン殿下は何かに操られているのでは?」と疑問を抱いているが、それを口に出せる者は誰もいない。
「……よって、この場で正式に――」
ジュリアンが再び口を開こうとする。その言葉が何をもたらすか、ロザリアはもう想像できる。おそらく、婚約の破棄を更に明確に言い渡し、彼女を「王家に仇なす存在」として告発する宣言をするのだろう。自身の人生をかけて積み上げてきた誇りや努力が、今まさに目の前で踏みにじられ、地に落とされようとしている。
場内の貴族たちは怯え、混乱し、なかには興味本位でこのスキャンダルを見つめる者もいる。そんな中、ロザリアは孤独なままでありながら、眉間に力を込めて耐え続けた。表には出さないが、心は悲鳴を上げている。
「待って……これはあまりにも……あまりにも理不尽だわ」
心の中で強く呻くようにつぶやき、なんとか取り乱さない自分を保とうとする。背筋を伸ばし、優雅な姿勢のまま絶望に耐えるその姿は、一見すると凛々しく見えるかもしれない。けれども、彼女自身は必死にこらえているだけだった。
レオンのほうを見やれば、彼は明らかに混乱と動揺に満ちた表情を浮かべている。その唇はきっと何か言おうとしているが、王太子への恐れやこの場の空気に押され、一歩を踏み出せないでいるのだろう。その姿がほんの一瞬視界に入ったものの、ロザリアは再びジュリアンに意識を戻し、耐える。レオンが駆け寄ってきても、彼にできることなど限られているし、むしろ彼女はプライドからそれを望まない。
(私は私の力で……いや、今はどうしようもないのかもしれないけれど、少なくとも醜態は晒したくない)
そう覚悟を決めた瞬間、ジュリアンが次の言葉を言い放とうとした。夜会は終盤――一番のクライマックスは、誰もが想定外の大混乱とともに訪れている。華やかなドレスに身を包んだ貴族たちは、あまりにも衝撃的なシナリオに翻弄され、言葉を失いつつある。
――私は一体、どうなるのだろう? これまで信じてきた立場も、王太子妃になるために重ねてきた努力も、すべて灰と化してしまうのだろうか。無実の罪を被せられ、汚名を着せられて……。
ロザリアの頭にはそんな思いが吹き荒れているが、表情に出さずにじっとこらえている。ここで崩れるわけにはいかない。たとえ怒りで震えていても、誇りにすがって耐えるしかない。王太子との婚約を突然破棄され、「王家への裏切り」という嫌疑までも浴びせられるという地獄のような現実を受け止めるために。
こうして、会場が修羅の渦へ変貌するのを脇目に、ロザリアは息を詰めてジュリアンの次の言葉を待つ。傷つきながら、涙を流さず、歯を食いしばっている彼女の姿を見つめる者もいるだろうが、誰一人として何もできない。王太子の威光が支配するこの場で、ただただ驚愕の声と動揺が波打つだけだ。
ジュリアンが言葉を続けようとしたとき、すでに場内はさらなる炎上を思わせる様相を呈していた。一人の貴族が「馬鹿なことを……」とつぶやき、別の人物が「ロザリア様がそんな罪を犯すなど聞いたことがない!」と抗議し、さらに別の者が「だが、殿下の宣言を無視できるはずもない……」と悲嘆にくれる。
「ご静粛に願います!」
壇上から主催者が声を張り上げ、会場を一喝した。その声に一瞬静寂が訪れるが、それはごく短い瞬間。人々の不安と困惑はすぐに再燃し、またあちこちでざわざわと声が上がりはじめる。だが、その一瞬の静けさでさえ、ロザリアには十分すぎるほど長く感じられた。
(私の婚約は、ここで終わるの? しかも、罪人として扱われるの……?)
考えがまとまらない。いや、まとめる余裕もなく、否応なく騒音と人波に押し流されるように身を任せるしかない。怒りに燃えながらも、公衆の面前であからさまに感情を暴露できない苛立ちがロザリアを締めつける。痛くて、苦しくて、悲しくて――それでも、嘆く暇など残されていないという絶望感が、全身を覆っていた。
そして、ついに王太子は「決定打」となる言葉を放つ決意をしたのか、その唇を動かす。ロザリアは瞳を見開き、まるで息を止めるようにして彼の言葉を待ち受けた。夜会の終盤、つい数分前までとは比べものにならないほど冷酷な空気が渦巻くなかで、すべてが最悪の方向へ向かっている――そう確信するしかなかった。
もう、この場を覆すことはできないだろう。ジュリアンの冷淡なまなざしと、王太子という絶対的な権威が重くのしかかり、ロザリアの運命を大きく狂わせようとしている。レオンはまだ遠くからこちらを見ているが、手出しできない。周囲の貴族も戸惑うばかりで、誰一人としてこの惨状を止める術を持たない。
衆人環視の中で、理不尽な罪状を突きつけられ、心は大きく傷つきながらも、気丈な振る舞いを維持するロザリア。王太子ジュリアンの宣言が、この夜会を瞬時に破滅へ導く――。喧騒と沈黙が交互に会場を包む中、ロザリアは服の下で震える自分の指先を感じながら、滅びゆく婚約と崩れていく未来に向き合わざるを得なかった。
さらに声を上げるジュリアン、押し寄せる貴族たちの動揺。ロザリアの胸には深い絶望と苛烈な怒りが渦巻いている。しかし、あくまで王太子を前に取り乱すわけにはいかない。凛とした立ち姿のまま、場の空気を読み、耐え抜く――こんな地獄のような状況下でも、彼女にはそれしか選択肢がなかった。
夜会の幕が下りるまで、彼女はただこの屈辱と不安にさいなまれ、足元が崩れ落ちそうになるのを必死にこらえるしかない。今はまだ、この悪夢に終止符が打たれる気配さえ見えないのだから。




