第5話 衝撃の言葉①
壇上に立つ王太子ジュリアンの言葉が、夜会という華やかな場を一瞬にして修羅場へ変えようとしていた。
まるでうねり立つ大海の真ん中に取り残されたような錯覚を覚えながら、ロザリア・グランフィールドは足元がおぼつかなくなるのを必死でこらえていた。意識は混沌としているが、ここで取り乱せば公爵令嬢としての威厳を一気に失いかねない。冷たい汗が背中を流れるのを感じながらも、彼女は青いドレスの裾をぎゅっと握り、体を支えるように立ち尽くすしかなかった。
「皆さま……私、ジュリアン・アルディネスは、本日をもってグランフィールド公爵家の令嬢、ロザリアとの婚約を解消することにいたしました」
ジュリアンが会場に向かってはっきりとそう言い放つと、人々の動揺は一段と激しさを増す。あちこちで「何を言っているのだ」「まさかそんな……」という声が飛び交い、一部の貴族夫人などは手にしていたグラスを取り落としそうになっている。周りの給仕が慌ててそれを支えたり、若い令嬢たちは目を丸くして口を塞いだりする光景が広がっていた。
「……嘘でしょう? あの公爵令嬢と王太子殿下の婚約は絶対的だと……」
「いったいどんな事情が? こんな場で突然……意味がわからないわ」
「ロザリア様は……いや、グランフィールド家はこのことを知っていたのかしら?」
そうしたささやきが重なり合い、壁に反響して場をさらに混沌へと押しやる。ロザリアはその中心で、心臓の鼓動が耳に響くほど早まっているのを感じた。信じがたい言葉に対し、どう反応すればいいのか、頭が追いつかない。それでもプライドと恐怖に縛られたまま、瞳を瞬かせながら壇上を見上げる。
ジュリアンは一度深く息をつき、続けざまに言葉を紡いだ。その声音は淡々としているが、何か追い詰められたような気配も感じられる。周囲の貴族が騒ぎ立てる中、彼はさらに突拍子もない告発を口にする。
「……そして、それだけではありません。ロザリア・グランフィールドには、王家を欺く行為を働いた疑いがあります。私が入手した情報によれば、王家を裏切るような証拠も見受けられ……」
「王家への裏切り……ですって?」
「それはいったいどういうことだ!?」
「まさか……根拠は?」
その発言が言い終わるか否かのうちに、会場はまさに激震したかのように大揺れに揺れた。いくら王太子の言葉とはいえ、長年王家に仕える名門の公爵令嬢を突然「裏切り者」と称するなど、尋常ではない展開だ。疑惑という形であっても、夜会の場で公然と告発される重大性に、誰もが恐怖と戸惑いを覚える。
ロザリアはもう呼吸すらままならないほどの衝撃を受けていた。先ほどまで、ジュリアンが「新しい想い人」を見つけたというだけでも動揺していたのに、それに続くのは「王家を欺いた罪」とまで言われる謂れのない断罪。どこにそんな根拠があるのだろうか。いったい誰が彼にそんな情報を持ち込んだのか――まるで霧の中を手探りするように何も見えない。
(私が、王家を裏切った……? そんなはずが……!)
胸の奥には怒りが込み上げ、同時に深い悲しみや屈辱が押し寄せてくる。周囲には、大勢の貴族が自分を注視しているのがわかる。彼らの中には、同情する者もいれば、面白がる者、恐れを感じる者など、思惑はさまざまだ。どれもロザリアをさらに精神的に追い詰めるには十分すぎるほどの圧力だった。
壇上のジュリアンの隣では、主催者側の者たちが必死に声を上げようとしているが、当の王太子は構わず言葉を続ける。
「彼女は長らく王家に取り入り……その信頼を利用し、密かに不正な取引をしていた可能性があります。私はそれを看過できない」
「そんな……。ロザリア様が、そんな裏切りを……?」
「いや、ちょっと待て。根拠はどうなっているんだ……?」
貴族たちの騒然とした声が、さらに大きく膨れ上がっていく。真偽が定かではない告発に、誰もが動揺を隠せないのだ。どこかから「嘘だろう!」「あの公爵令嬢が王家を裏切るなんて……」という叫びも聞こえる。今まさに、王太子が弾き出したこの話題がどれだけ破滅的な影響を及ぼすか、みんな感づいている。
(……こんな、でたらめを……どうして)
ロザリアは顔が火照るような感覚と、強烈な悪寒を同時に抱えていた。口の中が乾ききり、手足は震え、怒りと恐怖が混ざった熱が体を突き抜ける。だが、貴族としての矜持がギリギリで彼女を支えているのか、ここで声を荒げることだけは避ける。表情を崩さず立ち尽くすその姿は、青いドレスに身を包んだ女神のように見えるかもしれない――けれど、胸の中では泣き叫びたいほどの絶望が渦巻いている。
「ロザリア様、これは一体……?」
「あなたが王家に不利益をもたらすなど、あり得ませんわよね……?」
周囲の何人かが戸惑いながら小声で訊ねてくるが、ロザリアは答えられない。何を言っても、この大勢の前では口実や弁解にしか聞こえないだろう。ジュリアン自身が裏切りを宣言している以上、下手に反論すればさらなる炎上を招く。そんなことは本意ではないと理解していても、彼女にはどうしようもない。
(……どうして殿下はこんな所で、こんな形で……!)
理不尽すぎる言葉に、ロザリアの誇り高い心が怒りで震える。だが、ここで大声を上げてしまえば、より一層状況が泥沼に落ちるのが目に見えていた。彼女は唇を結び、血の気を失いつつある指先をドレスの裾で隠す。絶望的なまでに息苦しいが、公衆の面前で貴族らしい態度を捨てるわけにはいかない。
そのとき、人混みのなかでレオン・ウィンチェスターの姿が視界に入った。呆然と目を見開いた彼は、まさか王太子がこんな場で婚約破棄を宣言するなど思わず、戸惑いと衝撃を隠せない様子だ。彼の唇はうごめいて何かを言おうとしているようだったが、大勢の歓声と悲鳴がそれをかき消し、ロザリアには届かなかった。
(レオン……そんな顔で見ないで。私は何もわからないの。私も、この場でどうすることも……)
ロザリアはレオンの表情に気づきながらも、目をそらすしかない。自分と彼とは立場が違うし、ましてやこの場面で助けを求めても、彼がどうにかできるわけではない。むしろそれは子爵家にまで被害が及ぶことを意味するかもしれないのだ。できるならば、誰も巻き込みたくはなかった。
再び壇上に視線を戻すと、ジュリアンが周囲の声を制しきれず、曖昧に「……このままでは済まさない」といった口調を漏らしている。それを聞いて周辺の貴族が恐々と身を縮め、あるいは対抗心を燃やす者さえ現れる。王家への裏切りと言うのだから、重大な処罰が下されるのは火を見るよりも明らかだ。貴族たちはそれを感じ取り、ロザリアへの関わりを探るような目を浮かべていた。
「私はこの夜会で皆さまに正式にお知らせしたかった。……ロザリア・グランフィールドとの婚約は破棄する。さらに、彼女の行為については必ず追及し、場合によっては断罪も辞さない。これは王家に対する重大な背信行為の疑いなのですから」
「背信……。そんな、嘘だわ!」
「ロザリア様が、いつ王家を欺いたのよ!」
観衆から叫び声が上がるが、ジュリアンはそれを制する気配を見せない。どこかうつろな目で自分の言葉を繰り返すだけだ。王太子の宣言は、すでに夜会のメインテーマを完全に奪い去り、この場をカオスに陥れている。人々は自分の耳が信じられないような顔をしながら、しかし王太子の言葉を否定する勇気もない。
ロザリアは怒りと屈辱に震えながら、何とか気持ちを抑えようとしていた。王家への裏切りなど、まったく根拠がない。彼女は幼い頃から王太子妃になるべく厳しい教育を受け、まったく怠ることなく、努力してきたのだから。なのに、どうしてこんな罪を押し付けられねばならないのか。
(……言いがかりも甚だしいわ。だけど、私に反論の余地は与えられていない……)
会場の中央では、使用人や主催者が必死に「どうか皆さま落ち着いて」と呼びかけ、貴族たちは混乱の中で叫び声を上げたり、ロザリアに視線を走らせたりしている。だが、ロザリアは毅然と顔を上げたまま、その場に立ち続けていた。感情を表に出すのは、今は得策ではない。もしここで取り乱せば、「やはり黒だ」という印象を周囲に与えてしまいかねないからだ。




