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誇り高き令嬢は、婚約破棄されても負けません! ~幼馴染と挑む華麗なる逆転劇~  作者: ぱる子
第13章:祈りの日々

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第38話 祈りの日々①

 王宮の医療施設――豪奢(ごうしゃ)な回廊から少し離れた別棟に設けられたその区画は、喧騒から切り離されたような静寂に包まれていた。石造りの壁には薬品の淡い香りがしみつき、磨き抜かれた床には控えめな灯りが薄く映り込む。正面玄関から入って少し奥まったところに重厚な扉があり、その奥の病室には、深い眠りに囚われたレオン・ウィンチェスターが横たわっている。


 そこへ通じる廊下を、ロザリア・グランフィールドは今日も一人、足音を最小限に抑えながら進んでいた。音を立てれば、彼の安らぎを邪魔してしまう気がしてならないのだ。周囲には王宮付の医師や看護に当たる使用人が行き交い、それぞれが軽く会釈を交わしてくる。だが、彼女は彼らに言葉を返すことなく、まっすぐ扉の前へ向かう。


 扉を開けると、かすかな薬の匂いがかすかに漂い、病室の空気はひんやりと静まりかえっていた。窓から差し込む薄い陽光が床を明るく照らしているが、どこか物悲しい雰囲気が拭えない。この部屋で眠るレオンの存在が、その空気を寂しく重々しいものへと変えているのだろう。


 ベッドの上で意識を失ったまま横たわるレオンの姿を確認すると、ロザリアの胸は締めつけられるように痛む。事件以来、一向に目を覚まさない彼。いくつもの包帯と医療具が施され、脇腹に負った深い傷がいまだに癒えきらないままである。王宮でも最良の医師団が総力を挙げて看護をしてくれていると聞いていても、ロザリアの不安は消えない。むしろ日が経つにつれ、「いつになったら意識を取り戻すのだろう」という焦燥が増すばかりだった。


 ロザリアはそっと椅子を引き寄せ、レオンの隣に腰を下ろす。毎日の日課だ。彼の手に触れると、わずかな体温が感じられて、それが辛うじて彼が生きている証だとわかる。深い眠りの底にいるレオンへ語りかけるように、静かな声でささやく。


「……レオン、今日も来たわ。あなたに話したいことがたくさんあるのだけれど……目を開けてくれないかしら」


 当然、返事はない。かすかな呼吸の音だけが、病室の空気に交じる。ロザリアはゆっくりと息をつき、続けるように語りかける。


「あなたが意識を失ってから、もう何日経ったかわからないくらい。けれど、私にはすごく長く感じるわ。国中の人が、私を称賛するの……。あなたが身体を張って(かば)ってくれたおかげで、すべての悪意が暴かれたからって。でも、私にはその言葉が、まるで心に届かないの」


 言葉を続けながら、ロザリアの視線はレオンの横顔に注がれていた。かすかな呼吸のリズムは規則正しい。医師いわく「体力は回復傾向にある」とは言うものの、意識はまるで塞がれた扉の奥に閉じ込められているかのよう。ロザリアの記憶には、短剣を振りかざしたエレナの姿と、それを身を挺して止めてくれたレオンの姿がくっきり刻まれている。あの夜会での惨劇が、彼女の日常を一変させてしまった。


「ねえ、レオン。聞こえている? 私、正直なところ、国の人々がどう思おうと気にならなくなってきたの。私の汚名は晴れたし、エレナは捕まったし、王太子殿下だって私に謝ってきた。でも、あなたが目を覚まさないなら、そんな栄誉も意味がない……」


 その言葉に、当然ながらレオンは応じない。ロザリアは手を握りしめ、身を乗り出すように彼を見つめる。かつての夜会で見た穏やかな微笑、そして一緒に過ごした子供の頃の時間――いまは思い出せば思い出すほど、涙になってこぼれ落ちそうだ。ふと扉が軽くノックされ、侍女ソフィアが中へ顔を出した。


「お嬢様、失礼いたします。今日は朝早くから通われていますが、お食事は取られましたか? このままではご自身が倒れてしまいますよ……」


 ソフィアの声には心配がにじむ。ロザリアは片手でレオンの手を包み込んだまま、かすかな笑みを浮かべて返事する。


「ありがとう、ソフィア。でも、今はあまり食欲がないの。少しずつ口にできるものがあったら、後で取るわ。レオンの(そば)を離れたくないのよ……」

「お気持ちはわかりますが……どうか、ほどほどにしてくださいませ。お嬢様が倒れてしまっては、レオン様も安心できません」


 ソフィアはそう言って、ロザリアを窘めるようにそっと背を支える。以前のロザリアなら、「余計なお世話」とつんけんするような態度をとったかもしれないが、いまは素直にその言葉を受け止める。力なく笑ってみせつつ、深い吐息をつく。


「わかってる……でも、本当に食欲がないの。レオンの手を離すと、胸が苦しくなるのよ」

「……少し、私がここに付き添っています。お嬢様は隣室で気分を整えてきてはいかがですか?」

「ううん。ありがとう、でも大丈夫。もう少しだけ、こうして話しかけていたいの」


 ロザリアは静かに断りを入れ、ソフィアも「かしこまりました……何かございましたら呼んでくださいませ」と言い残して部屋を出る。その背中を見送って、ロザリアは再びレオンの横顔へ顔を戻した。まるで彼との二人きりの世界が、いま最大の拠り所なのだ。


「ソフィアは私のことを心配してくれる。嬉しいわ。でも私、あなたがいないと何も始まらないの。こんなに毎日、あなたの元に来て話しかけているのに、どうして目を開けてくれないの……」


 彼女の瞳に涙が浮かび、ぽろりと落ちる。そのまま忍び泣くように唇を噛んで耐えるが、感情は抑えきれない。レオンのために強くあろうと決めたはずなのに、心の奥には、孤独と絶望が渦巻いている。


「私……こんなに弱かったのね。あの日まで、ずっと自分を誇りに思っていたわ。公爵家の名誉のため、王太子妃になるために努力して、いつも毅然(きぜん)と振る舞って……でも、あなたがいない世界では、私は何もできないの」


 そのつぶやきは、ロザリアが初めて素直に見せる弱さだった。かつて傲慢と噂された彼女が、ここまで涙をこぼし、弱音を吐くのは初めてのことだろう。強がりの仮面を剥ぎ捨て、プライドを捨て、ただ眠り続けるレオンの存在にすがりついている。けれど、その気持ちを真正面からぶつけられる相手は意識不明で、答えは返ってこない。


「あなたが私を助けてくれたのはわかるわ。あの夜会で、私が短剣に倒されるところだった。でも、あなたが倒れるなんて……。そんなの、耐えられないじゃない……」


 ロザリアは嗚咽(おえつ)まじりにそう語っては、レオンの手をしっかり握りしめる。脈は感じられるし、体温も残っている。だがまぶたは動かず、深い眠りが続くばかりだ。数日前には医師から「出血は治まりつつある」と聞かされて少しだけ安堵したが、肝心の意識が戻る見込みは依然として不確か。まるで、時間が止まったかのように日々が流れ、ロザリアは何も報われない苦しみに沈むしかなかった。


「本当は、あなたと並んで街を歩きたかった。幼い頃のように、馬に乗って草原を駆けたいと思ってた。どんな立場の違いがあっても、あなたとなら乗り越えられると信じてたのに……」


 過去の楽しかった思い出が次々と蘇り、さらに涙があふれてくる。身分差に押し潰されそうになったとき、いつも支えてくれたのはレオンだった。王太子妃になるために懸命に努力しつつも、彼女を見下すことなく理解を示してくれた。離れざるを得なかった時期もあったが、それでも心の中では通じ合っていると思っていたのに、こうしてまた苦しい現実に直面している。


「あなたがいない王都なんて、ただ華やかなだけの場所。私の汚名が晴れたからといって、人は称賛してくれるけど……それが何? あなたの声を聞けないのなら、何も嬉しくなんかない……」


 心の底から湧き上がる弱音を吐き出しながら、ロザリアはレオンの髪をかき上げるように指をそっと這わせる。どこか穏やかな面持ちを保つ彼の寝顔は、美しくさえあるが、その静寂こそが恐ろしい。まるで永遠に目覚めない人形のようにも感じられ、ロザリアは恐怖を覚える。


「ねえ、レオン……。私、あなたがいなければどうやって生きていけばいいの。王太子が謝ってくれた? 社交界が私をもてはやしてる? そんなの、あなたと一緒に笑えなければ何の意味もないじゃない……」


 声を震わせ、最後にはこらえきれずに涙を流す。ドアの外からはソフィアが心配そうにドアを少し開け、(のぞ)き込んでいるが、ロザリアは気づかないふりをしている。きっとソフィアも彼女を励ましたいだろうが、今のロザリアには「レオンが生き返ってくれること」以外に求めるものはない。

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