第4話 夜会の終わりに③
壇上では、ジュリアンが主催者と何やら言葉を交わし、再度、会場全体を見渡す仕草を見せた。周囲もそれに反応し、少しずつ人の声が小さくなっていく。主催者は苦渋の表情を浮かべて、一歩後ろに下がった。どうやらジュリアンがもう一度、何か重大な発言をするつもりらしい。その瞬間、ロザリアの心は最悪の予感でいっぱいになる。
「皆さま……少し静かに耳を傾けてください。私は、皆さまに大切なお知らせをしようと思います」
空気がさらに凍りつく。先ほど「新しい想い人」と口走った時点でかなりの衝撃が走ったが、これから何を述べるつもりなのか想像するだけで、ロザリアの頭が真っ白になりそうだった。客席のいたるところでは、半ば悲鳴にも似たささやきが散見される。
(やめて……やめて、殿下。公の場でこんな、こんな……!)
思わず心の中でそう叫ぶが、ロザリアは声を出せない。自分の身分とプライドが、感情を露わにすることを許さない。青と銀のドレスが揺れるのも、周囲の目が集まるのもどうしようもなく、ただ必死に表情を保ち、壇上を凝視するしかなかった。
「殿下は本当に、今ここで……」
「まさか……でも、こういう場でいきなりって」
「わたくし、こんなこと初めてですわ。公爵令嬢がどれほど動揺しているかしら……」
ざわめきがこれ以上ないほど広がっていく。人々は一斉に壇上へ注目し、ロザリアの存在も同時に視界に入れている。王太子の“既存の婚約者”として、彼女が何を思うのか察しようとする者もいれば、ただ不謹慎な好奇心をそそられる者もいる。それらすべての声が耳鳴りのように脳内をかき乱す。視界が揺れかけ、踏ん張りが効かなくなりそうなほどだ。
「……ごめんなさい、私は動揺などしていない。大丈夫、大丈夫……!」
自分へ言い聞かせるように、ロザリアは必死に姿勢を保っている。王太子が次に何を言うか、逃げずに受け止めなければならない。もう誇りだけが彼女を支えていた。
ジュリアンは、壇上から人々の顔を静かになぞるように見まわす。そこには動揺しながらも凛と立つロザリアの姿があるが、彼はあえて彼女を正面に見ることはせず、別の方向を見ているかのようにも映った。何か決定的な言葉を告げようとしている――そんな緊迫感が満ちた瞬間、会場がさらなる混乱に飲み込まれようとした。
「わたくしが……本当に愛する方は――」
その言葉が始まったとき、誰もが息を飲んで耳をそばだてる。そこに続く内容を想像して不安で立ち尽くす者、興奮を抑えきれない者が入り混じり、夜会場は熱狂と恐怖のはざまに落ちかかっていた。ロザリアはもう何も考えられず、ただ胸の奥が軋むのをこらえる。
しかし、その次の言葉は、大勢の動揺した声にかき消されてしまう。断片的に「……新しい相手……」「こんなことが……」といったささやきが木霊し、ジュリアンの言葉がかすれるようにして消えていった。壇上のジュリアンが「皆、もう少し落ち着いて……」と訴えているのが見えるが、明確な声とはならない。人々は興奮に駆られ、何が起こっているのかを確かめ合っていた。
ロザリアはその混沌の中、自分がどう振る舞うべきか必死に考える。足が震えているのを感じるが、ドレスの裾に隠れているから誰にも気づかれないはず。人前でここまでの屈辱と絶望を味わうなど、想像すらしていなかった。しかし彼女は、高貴な公爵令嬢としての意地を振り絞り、視線を壇上へ据える。言葉を失っているが、逃げ出すわけにはいかない。
(王太子殿下……なぜ、こんなにも私の尊厳を踏みにじるの。まだ、きちんとした理由も聞かされていないのに……!)
心の中の叫びが、胸を切り裂きそうになる。もしここで冷静さを失えば、周囲の貴族たちの前で自分の立場を大きく損なう。そう思うほど、ロザリアは自分のプライドを砦として咄嗟に隠れた。美しい微笑と気高さ。それだけを盾にして、これ以上崩れてしまわないよう耐えるしかない。
一方の壇上は、ジュリアンが周囲の声に阻まれながら、再度声を張り上げようとしている。しかし、混乱はさらに大きくなるばかり。人々は「新しい想い人」という言葉の衝撃を飲み込み切れず、ある者は王太子の発言を聞き返そうと前へ進み、またある者は恐る恐る後ろに下がって様子を眺めていた。
「皆さま、落ち着いてください。まだ殿下がお言葉を……!」
この場の司会役を務める人物も、必死に人々を静止しようとするが、一度乱れた空気はすぐには収まらない。ロザリアはそのまっただ中で、痛いほど注がれる視線を背に感じながら、苦しみに耐えている。頭がくらくらしてきそうだが、かろうじて意識を保つ。
「きっと、もうすぐ何かが語られる。最後まで……聞かなくては……」
自分に言い聞かせるように唇を動かすと、その一瞬だけ冷汗が頬を伝い落ちるのを感じた。こんな自分の姿を誰かに見られたくはない。それでも、王太子ジュリアンが何を言わんとしているのか、この耳で直接確かめる責任があると思っているからだ。
そんな中、レオンの姿が視界の端に捉えられた。混乱の中、遠巻きに立ち尽くしながら、こちらを心配そうに見ている。きっと自分に声をかけたいのだろうが、公の場でそんなことをすれば、より一層注目を集めるだけ。彼の表情には苦悩が浮かんでおり、ロザリアはそのことにも胸を痛める。
(レオン……あなたまで巻き込むわけにはいかない。私は一人で、立ち尽くすしか……)
思考がここまで巡ったところで、壇上のジュリアンが再び口を開く気配を示す。場内は相変わらずざわめいているが、一部の人は「殿下が何かを言う」と察してひそひそ声を弱めていった。全員が完全に沈黙するわけではないにせよ、ジュリアンの行動によって混乱が次なる段階へ動きそうな雰囲気が漂っている。
ロザリアは恐る恐るジュリアンの姿を凝視する。彼が瞳をうっすら細め、唇を開こうとする様子に、不安と嫌な予感がさらに大きく膨らんだ。まるで、もう後戻りできない崖っぷちに立たされているかのように思える。
「……私は、ここで、はっきりと皆さまの前で申し上げます」
ジュリアンがそう切り出した瞬間、会場にいた誰もが息を詰め、吐き出す暇さえなかった。張り詰めた空気の中、ロザリアの心臓は早鐘のように鳴っている。周囲の視線、冷たい汗、浮き足立つような足元――どれもこれも、今が現実とは思えない事態だ。それでも彼女は、青く煌めくドレス姿のまま、まっすぐジュリアンを見つめ続けている。
(殿下……何を、いったい何を宣言するつもりなの?)
次の瞬間――。
その言葉は、まさにこの夜会を根底から覆すような大波乱を予感させるものだった。壇上の王太子が一歩前に踏み出し、周囲の目に向かって何かを言い放とうとしている。その声はまだ言葉の形を成していないが、ロザリアはすでに「最悪」を想像していた。会場内の貴族たちもまた、恐る恐る耳を澄ませている。
夜会が最終セレモニーを迎えたこのタイミングで、突如発せられた「新しい想い人」という一言。そして、さらなる重大発表を示唆するジュリアンの態度。騒然とした空気は頂点へ近づいていた。ロザリアは歯を食いしばり、血の気が引くような冷たさを体中に感じながら、それでも誇りを失わずに立ち尽くす。
――一体何が起こるのか。誰もが息を潜め、耳をそば立てる。王太子ジュリアンの次なる言葉は、夜会の運命を決定づける大きな転機になるに違いない。ロザリアの心は、叫び出したいほどの混乱に満ちているが、まだそれを顔には出さない。今はただ、壇上から降り注ぐ声を待ち受けるほかに道はなかった。
王太子は深く息をつき、唇を開く。その場にはすでに崩れ落ちそうな緊張感が支配している。ざわめく人々、白い顔で固まる貴族、悄然と佇むロザリア――あらゆる視線がぶつかりあう中、最後の宣言が下される寸前で、夜会という華やかな舞台は不気味な沈黙と喧騒の混沌を抱え込んだまま、先へ進もうとしていた。




