第36話 大きな代償①
大広間を覆う熱気は、先ほどまでの華やかな祝賀ムードとあまりにもかけ離れていた。偽造された書類の証拠が開示されるや否や、王太子の名を騙った不正が明るみに出て、賓客たちは口々に驚愕の声を上げた。すでに音楽隊の演奏は止まり、しんと張り詰めた空気が場を支配している。なめらかな大理石の床に反射する灯りが、絶えず明滅しているようにも見えるほど、貴族たちの慌ただしい動きが広間に混乱を生み出していた。
その中心には、ロザリア・グランフィールドが立っている。深い青のドレスをまとい、気高く美しい姿を保ちつつ、心の中では激しい高鳴りを必死に抑えている。私を裏切り者として断罪した真の張本人こそがエレナ・クレイボーン、その派閥が王家を乗っ取ろうと計画していた事実を、今や多くの貴族が知りはじめた。つい先ほどまで身勝手に噂を交わしていた者たちも、ロザリアの提示する具体的な証拠、そして王太子ジュリアン・アルディネス本人の戸惑いの言葉を受けて、一気に態度を翻しつつある。
「エレナ……どうしてだ。私は君の言葉を信じ、助けを求めていた。まさか、ここまで大掛かりな不正を働いていたなんて……!」
王太子ジュリアンがかすれた声で問いかけるが、返ってくるのはエレナの震えた息遣いだけだった。ドレスの裾をつかむ彼女の腕は小刻みに震え、その瞳は大きく見開かれている。まわりの貴族たちが口々に「真実なのか?」「まさか、あの儚い令嬢が……」とささやき合うのを聞きながら、エレナは必死に取り繕おうとしているようにも見える。しかし、先ほどロザリアが公開した文書にはあまりにも明らかな矛盾点が散りばめられており、そのすべてがエレナたちが行ってきた偽造の痕跡を示している。
取り巻きの貴族たちも、「こんなの捏造だ!」などと声を荒げていたが、レオンが落ち着いて事実を突きつけるたびに口をつぐまざるを得なくなる。息をのむような静寂と、あちこちで飛び交う悲鳴にも似たささやき声。殿下を中心にした華やかな祝宴は、一瞬のうちに恐ろしいほどの修羅場と化していた。
そんな中、エレナの顔つきが目に見えて変化し始める。儚げな笑みを浮かべていたはずの唇は引きつり、まるで見えない枷を引きちぎるかのように息が荒くなっていた。ロザリアはその瞬間を見逃さず、胸の奥で警鐘が鳴るのを感じる。取り巻きたちも明らかにオロオロしながら彼女に声をかけるが、エレナはもう彼らに目をくれることすらない。
「……ロザリア、あなた、まさか……。こんな、こんな形で……!」
エレナがしわがれた声で名前を呼ぶ。その声には、もはや普段の優雅な響きは微塵もない。周囲の貴族たちが息をのみ、距離を置くように後ろへ下がる。いかにも穏やかな令嬢として振る舞ってきた彼女が、狼狽や怒りをむき出しにしている様子に、誰もがただ圧倒されていた。
ロザリアはわずかに息を吸い込み、きつく唇を結ぶ。いつ逆上してもおかしくない――そんな空気がひしひしと伝わってくるのだ。自分を陥れ、王太子を騙し、莫大な権力を手にしようとした事実が、ここで一気に明るみに出たとなれば、もはやエレナは後に引けない。命を賭してでもこの場を切り抜けようとするかもしれない。
「エレナ、すべて白状なさい。もはや言い逃れはできないはずよ。私が受けた婚約破棄も、あなたの黒幕じみた計画が原因だったんでしょう? あなたに恥をかかされたあの日……二度と忘れるものですか」
すると、エレナの表情が完全に崩壊し、目尻が引きつり、口元が裂けそうなほど歪んでいく。誰かが「エレナ嬢、落ち着いて!」と必死に呼びかけるが、彼女はそれを聞き入れない。目がまるで血走ったかのように、恐ろしいほどの敵意をもってロザリアを睨み据えていた。
「うるさい……うるさい! あなたなんかが、殿下の隣に戻れるわけがないのに……こうして……こうして私を……追い落として……っ!」
か細く震えた声には、これまで抑え込まれていた妄執や嫉妬、そして挫折があふれ出ているように思えた。そのままエレナはドレスの裾から何かを引き抜くように動く。次の瞬間、光がぎらりと閃いた。
ロザリアの全身に緊張が走る。短剣――あの細い腕の中に握られているのは、小さく光を放つ鋭利な刃物だった。広間には悲鳴のような声が一斉に響き渡り、貴族たちは「まさか!」と動揺して後ずさる。エレナの取り巻きでさえ、その行動は想定外だったのか、「エレナ様、やめてください!」と声を上げるが、すでに手遅れだ。
エレナは狂気に駆られたように大きく腕を振り上げ、まっすぐロザリアへ向かって突進してくる。ドレスが舞い、彼女の口元からは「許さない……私のすべてを壊すなんて……っ!」という声が震えながら溢れ出ている。王太子ジュリアンも慌てて「エレナ、やめろ!」と声を張り上げるが、その動きが間に合わない。
「……!」
ロザリアは身構える暇もなく、唐突な刃の圧力を感じる。ほんの一瞬の出来事だ。エレナの瞳は怒りと絶望で潤み、あるいは涙さえ浮かんでいるのかもしれない。しかし、その刃が彼女の体に届く前――。
「ロザリア……!」
鋭く響く声とともに、レオン・ウィンチェスターが横から素早く飛び出した。ロザリアが反射的に目を見開くよりも先に、レオンはロザリアの体を庇うように割り込み、その刃を自ら受け止めたのである。短剣が深く彼の体に突き刺さる刹那、金属音とも肉を切り裂く音ともつかない不快な音が広間に響いた。
「……レオン……!」
ロザリアは悲鳴を飲み込み、喉が引き裂かれるような衝撃を受けた。エレナの短剣がレオンの脇腹あたりに深々と突き立ち、その瞬間、時が止まったように思える。血がじわりとドレスシャツを染め、レオンの体がかすかに震えているのが見えた。ロザリアの胸が凍りつき、すぐに叫びたい衝動を抑えられず声を張り上げる。
「いやああああああああああ……っ!」
彼女は思わずレオンに駆け寄るが、レオンは朦朧とする意識の中でロザリアを突き放すように一歩後退する。「ロザリア、下がって……危ない……」と、か細い声を振り絞って言う。短剣を握るエレナも、呆然とした表情でそのまま腕を引き抜けずにいるのか、レオンの体に刃を刺したまま動きが止まっていた。
すぐさま騎士たちが飛び込み、エレナの手首を押さえて短剣を奪い取る。ガシャンと床に落ちる刃が鈍い音を立てると同時に、エレナは抜け殻のようにへたり込む。取り巻きが駆け寄ってきても、もはや何も言えない。広間のあちこちで「人殺しだ……」「なんということ……」と悲鳴が飛び交う。
ロザリアは魂が引き裂かれるような気持ちでレオンを支えようとする。レオンは短剣を抜かれた衝撃に耐えきれず、そのまま血を流してぐらりと体を揺らした。ロザリアが「大丈夫? しっかりして、レオン……!」と必死に呼びかけるが、彼の意識は急速に遠のいているらしく、視線が焦点を失い、力なく彼女の名を呼ぶ。
「……ロザ……リア、よかった……あなたを、守れ……。あの日みたいに、辛い思い……を、させたく、なかった……」
かすかな声がロザリアの耳に入り、彼女はもう涙がこぼれるのを止められない。あの夜会でも、レオンは誰よりも必死に彼女を庇ってくれた。そんな彼が今また、命を懸けて守ろうとしてくれたのだ。だが、その代償があまりにも大きい。脇腹から血が滴り、床に赤いシミが広がっていくのが見える。
「しっかりして……レオン、嫌よ……あなたがこんな……」
ロザリアは彼を抱きしめるように支えながら声を張り上げ、「医者を! 早く医者を呼んで……!」と叫ぶ。会場には王宮の医師が控えており、数名がすぐに走り寄ってくるが、騒然とした場内の混乱で道がうまく開かず、混乱が拍車をかける形だ。
「何てことだ……レオンが……っ!」
「エレナ、罪深いことを……!」
「早くしろ、医者だ……道を開けろ!」
周囲の貴族らは大声で指示を出し合い、うろたえながら騎士たちと協力して場を整理しようとする。だが、レオンの体から流れる血は多く、ロザリアは止めたい一心で自分のドレスの一部を裂いて押さえ込むが、思うように出血は治まらない。レオンは必死にこらえようとしているが、痛みに耐えきれず意識を失いかけている。
「レオン……ごめんなさい、ごめんなさい……私のために……!」
「ロザリア……あなたが、無事……なら、それで……よかった……」
その声を最後に、レオンは意識を手放すようにバタリと倒れ込んだ。ロザリアは叫び声を上げて必死に彼の名を呼び、医師たちが駆け寄って応急処置を始める。しかし、真紅に染まるシャツと床の血が悲惨であり、周囲の貴族たちももはや視線をそらすほどだ。




