第1話 青と銀の煌めき①
あたりが夕闇の色をにじませ始めた頃、公爵家の広大な邸内は浮足立つような空気に包まれていた。これから王都で開かれる夜会に参加するため、多くの使用人があわただしく動き回っている。部屋の扉が開くたびに廊下を行き交う人々の声がかすかに漏れ聞こえ、その賑やかさが、これから始まる華やかな宴の予感を一段と膨らませていた。
ロザリア・グランフィールドの私室もまた、落ち着かない雰囲気に満ちている。真紅のカーテンがかかった窓辺には夕暮れの光が差し込み、その光を受けて床に長く影が伸びていた。部屋の中央には、今宵身にまとうことになっている見目麗しいドレスが掛けられている。銀糸を織り込んだ青い生地は、光の加減によって微妙に色彩を変え、胸元からウエストへと丁寧に施された刺繍が高貴さを際立たせる。裾は花びらのように幾重にも重なり、まさに「公爵令嬢」の名に相応しい一着だ。
ロザリア自身はそのドレスを、一歩下がったところから眺めていた。彼女の瞳は吸い込まれるような青の色合いを帯び、長く伸びた銀色の髪はゆるやかな波打つスタイルにまとめられようとしている。公の場で完璧に振る舞うため、これほどまでに念入りな支度をするのは、もはや日常の一部かもしれない。しかし、今夜はなぜか胸の奥がざわつく。晴れやかな気持ちで挑むはずの夜会だというのに、微妙な不安が心を覆っているのだ。
「お嬢様、ヘアセットの仕上げはどのようになさいますか?」
ロザリアの背後で、櫛と飾りピンを手にした侍女のソフィアが声をかける。その落ち着いた響きには、「大丈夫ですからね」という気遣いが見え隠れしていた。ロザリアは姿見に映る自分の顔へ視線を送る。唇の端はわずかに引き結ばれ、どこか緊張感が漂っているように思える。先ほどから幾度となく鏡を見ているのに、自分の表情に慣れない。
「少し後ろでまとめてちょうだい。でも、あまりきつく結い上げないで、柔らかい印象にしてほしいの」
「わかりました。裾を波打たせて、少し動きをつけてみますね」
ソフィアはロザリアの髪をゆるやかに梳かしながら、器用に数本のピンを使い分ける。鏡の中には、主の美しい銀髪を扱う彼女の集中した横顔が映っていた。長年仕えてきた間柄だからこそ、言葉数は多くないが、それでも細やかに気配りしてくれるのだとロザリアは感じる。
それにしても、いつもなら夜会の準備など慣れたものなのに、今日に限ってどうしてこんなに落ち着かないのか。王太子ジュリアンとの間に、特別大きな問題があるわけではない――はずだ。社交界で堂々と婚約者の立場を示してみせるのは、彼女にとってある意味当然の役目でもある。ただ、最近ジュリアンがどこかよそよそしい態度を見せるように思えてならない。それが不安の元凶なのかもしれないと、胸中で思い至る。
「お嬢様、少し首を傾けていただけますか? 飾りピンを差しますので」
「ええ、わかったわ」
ロザリアは細い首をわずかに傾ける。すると鏡越しに映る自分の姿が、ほんの少し違って見えた。きっちりとした夜会用のドレスは、銀と青の優美なコントラストが目を引く。彼女の瞳と呼応するように、胸元の輝きが淡く反射している。まさに社交界での視線を集めるにふさわしい姿だ。
とはいえ、いつもの夜会よりも念入りに準備をしているのは、王太子との立場に加え、公爵家の名を汚さないための責任感が増しているからだろう。周囲には大勢の使用人が慌ただしく動いていて、誰もがロザリアの支度に抜かりがないよう目を光らせている。この空気に慣れているはずなのに、窮屈さを覚えることがあるのが正直な気持ちだ。
「お嬢様、次はドレスにお召し替えになりますか?」
「そうね。もう時間も差し迫っているでしょうし、急ぎましょう」
ソフィアにうなずくと、ほかの侍女たちが一斉に動き出し、手際よくドレスの準備を始める。少し離れた場所に吊るされていたドレスは、侍女たちが一緒にロザリアの体に通していく。広げられたスカートの裾には繊細なフリルが何重にも重なっており、うっかり踏んでしまえば大惨事になる恐れがある。
「では、失礼いたします。腕を少しだけ上げてください」
「はい……こうかしら?」
「もう少し上です。ありがとうございます」
ロザリアの上半身に、きらびやかなドレスが慎重に通されていく。サラリとした生地の感触が肌に触れると、少しだけひんやりとした心地よさがあった。ウエストのラインが狭まると同時に、一気に「公爵令嬢」の装いが完成に近づいていく。ホックやリボンを留めるたびに、気持ちまで引き締まる気がした。
「これで……胸元の調整をいたしました。続いて袖口を揃えますね」
「ええ、お願い」
侍女たちは細やかな所作でドレスのあちこちを整え、最後にスカートの裾のラインを確認する。まるで息の合った職人のように、誰ひとり無駄な動きを見せない。ロザリアは立ったまま鏡に目を向け、自分の姿が仕上がっていく様を静かに見守っていた。
公爵令嬢としての完璧さを保つことは、ある種の鎧をまとうようなものだ。普段は絶対に隙など見せないのが当然。一度でも足元をすくわれれば、それこそ社交界で格好の噂の的になる。そんな世界の厳しさを彼女は幼い頃から骨身にしみるほど学んできた。けれど、内心では少しくらい肩の力を抜きたいという思いもある。そう感じる自分に対してどこか後ろめたさを覚えながらも、表向きは毅然とした表情を崩さない。
「お嬢様、とてもお似合いです。青と銀の組み合わせが想像以上に映えていて、まるで星空を纏ったようですね」
侍女の一人が感嘆の声をあげる。ロザリアは一度ゆっくり瞬きをし、周囲の期待に応えるように小さく笑みを返した。
「ありがとう。似合っているなら光栄だわ。せっかく仕立てたドレスを存分に活かすのも、わたくしの務めですものね」
「はい、きっと今夜の夜会でも多くの方が目を奪われるはずです」
「……そうなるでしょうね」
ロザリアはその言葉に応じているものの、胸の奥がときどきチクリと痛む。視線を奪われることは嬉しくもあるが、同時に息苦しさも感じるのだ。どこへ行っても「公爵家の令嬢」として見られ、「王太子の婚約者」として振る舞わなければならない。それに慣れているはずなのに、今夜は不可解な居心地の悪さが伴う。
「ソフィア、手伝ってもらえる?」
「もちろんです。イヤリングをつけてみましょうか?」
「ええ、お願い」
ソフィアはドレッサーに並んでいる宝石の箱から、サファイアをあしらったイヤリングを手に取る。中央の青い石が淡い光を宿しており、ドレスやロザリアの瞳と美しく調和しそうだ。
「さあ、耳を少し出して……失礼しますね」
手際よく耳元にイヤリングが装着されると、ロザリアは軽く頭を傾けて、その揺れ具合を確かめる。鏡に映る姿は、数分前までとは明らかに違った煌めきを放ち始めていた。
「これなら、照明の下でも上品に光を受けるでしょう。派手すぎず、でも存在感はしっかりあるわ」
「お嬢様の雰囲気にぴったりかと」
ソフィアの声は穏やかで、どこかロザリアを安心させる。彼女は形式張った言葉を好まず、けれどしっかりと敬意を払うという絶妙な距離感でロザリアを支えている。そのあり方は、ロザリアが立場上なかなか弱音を吐けないときにも、さりげなく力になってくれる大きな要素だった。
「さて、支度はほぼ終わったわね。あとは……」
ロザリアが言いかけたとき、部屋の扉をノックする音が響いた。軽い二度のノックのあと、遠慮がちに扉が開く。使用人が小走りで近づいてくる気配がし、外で馬車の用意が整ったこと、そして出発まであまり時間がないことを告げてきた。急ぎの足音と声が、夜会間近のあわただしさを物語っている。
「お嬢様、そろそろお時間とのことですが……」
「ありがとう。すぐに行くわ」
ロザリアは侍女たちに視線を巡らせ、身支度の最終確認を促す。皆が一斉に彼女のドレスや髪型をもう一度ざっと見回し、リボンの結び目やスカートの裾に乱れがないかを確かめる。完璧を期するための作法が当たり前のように繰り返され、それが公爵家の令嬢であるロザリアの日常の一端でもあった。
「お嬢様、どうぞお気をつけて。夜会が素晴らしいものになりますように」
「いろいろと手間をかけたわね。助かったわ。ありがとう」
使用人や侍女たちが一礼し、ロザリアを見送る。彼女は青く揺れる裾を優雅に払い、扉のほうへと向かった。その横にはいつものようにソフィアが寄り添う。ほんの少しだけ息を吸い込み、ドレスの重みと一緒に高ぶる気持ちを受け止める。踏み出す一歩はいつも通りに見えても、その内心には複雑な思いが渦巻いていた。
廊下にはたくさんの使用人が並んでいて、ロザリアが歩き出すと同時に礼を尽くす。まるで絵画の世界から抜け出した王女の行進のようだと、自分でも感じることがある。そうやって周囲から敬意の眼差しを向けられるのは、決して嫌ではない。一方で、視線を集める責任の重さを時折苦しく思うのは、彼女がまだ若く、完全に冷淡な人間ではない証拠なのだろう。