明日も幸せでありますように
明日こそ幸せになれますように。
毎晩眠る前にそう願っていた。
自分が幸せになれなくても、せめて自分の大切な人が幸せになってくれますように、と。だけど願いはいつも叶わない。自分も自分の大切な人もボロクズのように捨てられた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
この王国の貴族子女が通う学園で、王太子と平民の特待生は今日も人気のない裏庭で逢引きをしていた。
王太子にはアーフェルカンプ公爵令嬢イングリッドという幼いころからの婚約者がいるというのに。
彼は公爵令嬢を侮っていた。婚約者を愛する彼女が自分から婚約破棄を言い出したりはしない、これまでの辛い妃教育を無に帰して王太子妃として未来の王妃としての立場を捨てたりはしない、と。
だから、不貞現場に踏み込まれたふたりは焦ることはなかった。
王太子も平民の特待生も嘲笑を浮かべて公爵令嬢を見つめていた。
──イングリッドが口を開くまでは。
「王太子殿下、今日の朝食の席で家族会議がおこなわれて決定いたしました。我がアーフェルカンプ公爵家は正式に王家に陳情いたします。貴方様有責による婚約破棄を」
「なにを言っている。そんな言葉で私の気が引けるとでも思ったのか」
「バッカみたい」
「父はもう陛下と謁見しております。詳細は王宮でご確認ください」
「……ちょっと待て。本当なのか? 本当に婚約破棄を陳情したのか?」
「そう申し上げました。アーフェルカンプ公爵令嬢イングリッドが王太子殿下に嘘偽りを申し上げたことは、ただの一度もございません」
婚約者のいる身でありながら、ほかの女性と親しくしているのは間違っていると言ったのも嘘偽りではない。
王太子が顔色を変えるのを見て、平民の特待生の顔も色が抜けていく。
イングリッドを正妃にして、アーフェルカンプ公爵家の後ろ盾で国王となった王太子と愛妾となった平民の特待生が好き勝手に暮らす、それが彼らの計画だった。
「それでは失礼いたします。私との婚約がなくなったからといっておふたりが結ばれることが出来るかどうかはわかりかねますが、真実の愛が実りますようお祈りしておりますわ」
イングリッドは見事なカーテシーをしてその場を立ち去った。
真実の愛、それが彼らの武器だった。人を惑わす美しいだけの空っぽな言葉。その言葉に騙された学園の多くの生徒達が、それを邪魔するイングリッドを悪役令嬢と罵り莫迦にする。
……十数年後、正妃と長男王子を毒殺して、愛妾の産んだ次男王子を王太子にすることのどこが真実の愛なのだか。
「ま、待て、イングリッド!」
「待ちなさいよっ!」
不貞に溺れていたふたりの叫びを無視して裏庭から出ようとしたイングリッドは、ひとりの男に腕を掴まれて歩みを止めた。
王太子ではない。
ベルカンプ公爵令息ヨアヒムだ。
「ご機嫌はいかがですか、イングリッド嬢。と、言いたいところですが……貴方はだれです?」
そんな気はしていた。
むしろ確信していたかもしれない。
彼なら、未来の宰相ヨアヒムなら、俺がアーフェルカンプ公爵令嬢イングリッドでないと絶対に気づく、と。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「王太子殿下と正妃イングリッド様の間に生まれた長男王子レオンティエン殿下。それが貴方だと言うのですか?」
学園の図書館の片隅で、ヨアヒムに問われて俺は頷いた。
午後の授業は休んでしまっているから、生真面目なアーフェルカンプ公爵令嬢イングリッドが、俺の母上の意識が戻ったら驚くことだろう。
……戻るよな、母上の意識。
「そうそう。王宮の片隅で冷遇された挙句、平民の特待生だった愛妾の産んだ次男王子を王太子にしたい莫迦国王に母子ともども毒殺されて、気が付いたら俺は学園生時代の母上の体の中にいたんだ」
「アーフェルカンプ公爵家の方々は別人だと気づかなかったのですか?」
「うっすらとは気づいていたんじゃないかな。婚約破棄出来たら、みんなで神殿へ報告に行こうって言われたし。イタズラな妖精かなにかだと思ったのかもしれないけど、とりあえず母上のためにもこの機に婚約を破棄しておいたほうが良いと考えたんだろう」
「ふむ……」
頭の中で状況を整理しているだろうヨアヒムを見て、俺は微笑んだ。
「母上のこと、アーフェルカンプ公爵令嬢イングリッドのこと好きなんだろ? ベルカンプ公爵家当主の宰相様は、俺が毒殺されるまで独身だったぜ」
「……僕が宰相だったのに、貴方達を冷遇させた挙句毒殺させてしまったのですか?」
「冷遇って言っても表面上は尊重されてたぜ。なにしろ正妃様と長男王子様だ。ただ気位が高くて傲慢な正妃様と無能な長男王子様だっただけだ」
「そんなことはありません」
ヨアヒムが俺を見つめる。
「貴方が王太子殿下と正妃イングリッド様の間に生まれた以上、こうして過去を変えたら貴方は生まれて来られなくなります。それでもイングリッド嬢の幸せのために、過去を変えることを選ばれたのでしょう? 貴方は無能ではなくて優しい方ですよ」
「……毎晩眠る前に願ってたんだ。明日こそ幸せになれますように、って。俺が幸せになれなくても、せめて母上だけは、って。だって母上は俺を抱き締めて言ってくれるんだ。俺は無能じゃないって、だれよりも大切な自慢の子どもだって。だから、俺は……王太子を好きな今のイングリッドは傷つくかもしれないけれど、それでも子どもと一緒に毒殺されてしまう未来より……」
「そうですね……」
「毒殺のときのヨアヒムはどうしようもない用事で外遊してた。莫迦国王が起こした問題の尻拭いだ。もしかしたら最初からそれも計画のうちだったのかもしれない」
「あの屑王太子殿下は悪知恵だけは働きますからね。真実の愛なんて空っぽな言葉でイングリッド嬢を悪者に仕立て上げたときは舌を巻きましたよ。……なにも出来ないでいて申し訳ありません。ですが、貴方があの屑に似ていなくて良かったと思います」
若いヨアヒムの微笑みは、俺が知ってる宰相のものと同じで優しく温かい。
イングリッドのことを彼に頼んで王都のアーフェルカンプ公爵家へ戻った俺は、王太子有責での婚約破棄が決定したと聞いて小躍りした。
意識が戻って婚約破棄を知った母上の傷が浅く済みますように。ヨアヒムと良い関係を築けますように。彼女が、俺の大切な自慢の母上が明日こそ幸せになれますように──いつものように願いながら、その夜俺はアーフェルカンプ公爵家のイングリッドの寝台で眠りに就いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「レオンティエン!」
「父上―!」
屋敷の庭で名前を呼ばれて、俺は父上のもとへ駆け寄った。
あの日、王都のアーフェルカンプ公爵家のイングリッドの寝台で眠って意識を手放した俺は、数年後にもう一度母上の子どもとして意識が目覚めた。
父親はヨアヒムだ。
本来の子どもの意識を奪ったのではないかと案じる俺に、ヨアヒムは言ってくれた。
レオンティエンはもともとベルカンプ公爵家の子どもにつける名前なのだと。
ヨアヒムの父、今の俺の祖父の名前もレオンティエンだった。ベルカンプ公爵家は基本的にレオンティエンとヨアヒムが交代で当主に就いている。
前の俺も同じ名前だったのは、生真面目なイングリッド母上がヨアヒムと不貞をしていたから、なんてことではない。
あの莫迦国王が俺をヨアヒムの養子にさせて、裕福なベルカンプ公爵家を乗っ取ろうと考えていたからだ。
イングリッドを好きなヨアヒムが、生涯独身を通して養子に跡を継がせることを予想していたのである。まったく悪知恵だけは働くヤツだぜ。
ところがどんなに無能な長男王子と噂を撒いても、イングリッド母上譲りの生真面目なところがある俺は勉学に勤しんで頭角を現してしまったため、殺して排除する以外本当に無能な次男王子を王太子に就ける方法がなくなってしまったのではないか、とヨアヒムは言った。宰相様は結構口が悪い。
そう言った後で、今度はちゃんと僕のところへ産まれて来てくれてありがとう、と抱き締めてくれたのだ。
父方も母方も王家から分かれた公爵家なので、今の俺の外見は前とほとんど変わらない。むしろ前よりも始祖の建国王に似ているんじゃないだろうか。
「あらあら、レオンティエンはお父様が大好きねえ」
「はい! 俺は母上もヨアヒムも大好きです! アーフェルカンプのお爺様とお婆様も、ベルカンプのお爺様とお婆様も、使用人のみんなも全部!」
「レオンティエンは王様みたいに欲張りだな」
「にー、おーしゃま?」
今年五歳になる俺には、ヨアヒムという名前の弟がいる。二歳の甘えん坊で、今も母上に抱かれている。
平民の特待生は正式な王太子妃になっているが、それは王太子が即位する予定がないからだ。
王太子の父親である現国王はまだ若いし、アーフェルカンプ公爵家の後ろ盾のない莫迦息子を王位に就けるぐらいなら、ギリギリまで粘ってどちらかの公爵家から養子を取るほうを選ぶつもりらしい。
昔次男、今長男の王太子の息子も努力すれば次代の王候補に入れると思う。頑張れ。
俺は今も毎晩眠る前に願っている。
母上が、父上が、弟ヨアヒムが、俺の大切で大好きな人々が幸せでありますように。
そして明日もみんなが幸せでありますように、と──