#00 『なにかが掛け違っていた日』
その日はなにか違和感があった。
ただ、どれだけ思考を巡らせても、その原因がわからない。
朝起きて、朝食を食べて、ゲームのデイリー報酬を回収。
家事を手伝って、昼食を食べて、今月の小遣いが余ってたから映画を観に行った。
観てきたのは、前から興味があった異世界アニメの劇場版。個人的には、暗かったり怖かったり胸糞悪い作品より、笑って泣けて興奮できるやつがいい。
そして今は夕飯ができるのを待ちながら、対人ゲームで無双中。
なんてことのない、充実した日曜日だった。
ただずっと、正確には映画館に行く途中ぐらいから、心の中でなにかが引っ掛かっていた。
……なにか、あっただろうか。
「カルマ、いる?」
突然、部屋のドアが押し開かれ、エプロン姿の兄が顔を出した。
自分の個室は二階にあって、ふだん家族が集まるリビングは一階に位置する。
だから階段を上がる足音のおかげで、兄の登場は予期していた。
そんなことはどうでもよくて。
「何か用?」
今は対戦中で手と目線が塞がっているので、振り向かずに応じるのが精一杯だ。
悪いとは思っているが、兄もそんなことで小言を漏らすほど小心者ではない。
むしろかなりマイペースなので、こっちが忙しそうにしていても構わずに話を切り出してくる。
「クリームシチューに入れるニンジンが足りなくてさ、お金渡すからおつかい行ってきて」
今日は親の帰りが遅く、夕飯は兄が作ることになっている。
なので必然的に献立も兄が決めることになっており、今日はクリームシチューを作るらしい。のだが、
「ほんとにニンジンだけ? 他に必要なものは?」
「……確認してくる」
そう言ってリビングへ降りていく兄を横目に(見てないが)ため息をつく。
料理中足りない具材がある度に、ロクに確認もせずに買い出しに行かせるのが兄の悪癖だ。
以前カレーを作る際、牛肉を買ってきた直後にルーが無いとのたまわれた時はさすがの俺もブチ切れた。
そんなやり取りをしているうちにゲームセット。結果は10戦10勝。
途中危ない試合もあったが、完全勝利だ。
「ジャガイモと牛乳と、あと鶏肉も足りなかった」
「全部足りねえじゃねえか!! よくそれでクリームシチュー作ろうと思ったな!?」
リビングから戻ってきて、すまし顔で足りない具材を挙げていく兄にツッコむ。
それらの情報を伝えないまま買い出しに行かせるところだったのに、なんの悪びれた様子もないのが腹立つ。無表情なのも腹立つ。
生まれた頃からの付き合いなのに、未だに何を考えているのかわからない。
まあ、なにも考えていないのだろうが。
「なにも考えてないとは失礼な。これでも地球温暖化問題とか、日本の治安とかについていろいろ考えてるよ」
「予想外に深刻だなオイ。つか心読むな。エスパーか」
なんで俺はコイツの考えが読めないのに、俺の考えはコイツにモロバレしてんだよ。
それがどうも納得いかない。
「とりあえずコレ。お願いね」
兄に渡されたメモとお金を手に、しぶしぶ玄関に向かって歩く。
壁にかけていたお気に入りのパーカーを羽織り、最近買ったばかりで足に馴染まないスニーカーを履いた。
全体的に黒い基調の、ハチの注意を引きそうなコーディネートだ。
「んじゃ、行ってくるわ」
「うん。気を付けてね、カルマ」
まるで母親のようなセリフを言う兄。
それがどこかおかしくて、小さく吹き出した。
「どうしたの」
「いや、なんでもねーよ」
「そっか」
なんでもないと答えれば、深くは追及してこないのが兄らしい。
カラッとしたドライな性格である。
見送ってくれる無表情に手を振り、玄関の扉を開いた。
外に出ると、秋のひやりとした風が頬を撫で、肌が薄く粟立った。
「さむ……っ」
既に日は傾いており、鮮やかな黄昏が空を染め上げている。
この分だと、一時間もしないうちに辺りは真っ暗になるだろう。
「これ以上寒くなっても嫌だし、とっとと終わらせて帰るか……」
向かう先は近所のスーパー。
ここからだと徒歩でも8分くらいで着くが、少しでも移動時間を短縮するために自転車を使うことにした。
「────」
ただでさえ寒いのに、前方からの向かい風が顔面にぶち当たる。
少し耐えれば、あっという間にスーパーには到着する。そんなことはわかっているが、寒いもんは寒い。
せめて、マフラーくらい持ってきたほうがよかったかもしれな──
「────あ?」
異変に気づいたのはそのときだった。
突如として、視界が揺らぎ始める。
ただの眩暈かとも思ったが、そんなものじゃない。
空間そのものがグニャグニャに捻じ曲がるような、そう錯覚するぐらいには揺れている。
──錯覚、か?
本当に、世界がバグっているんじゃ、ないのか。
「…………ッ!!」
怖くなって、無意識にハンドルを握る手に力が入った。
この自転車から降りたらやばい──直感で、そう感じた。
「な、にが起こって……。兄貴──」
直後、犬上駆馬はこの世界から、消えた。