個性ある木彫を残した円空の足跡
個性あふれる仏像を各地に残した円空さんの一生を、ザッと見て、どんな思想から、あんな作品が生み出されたのか、考えてみました。
円空の木彫は、個性強烈である。
そこが、好きな人は、熱狂的なファンになる。
そこが好きでない人は、あんなもの、どこがいいの?という感じを抱く。
その個性は、彼の思想から出て来る。その思想が、どのようにして、形成されて来たものか、若い時からの人生の足跡をたどって見たい。
文献的資料は、極めて少ないので、今に残る伝承や、作品そのものが語ることに、虚心に耳を傾けて、足りないところは、推測で補って、まとめてみる。
研究実績のある長谷川公茂、梅原猛、両氏の、おっしゃることを、大いに参考にしている。
出生地は、諸説あるが、岐阜県の羽島と見る。
あのあたりに、たくさんある輪中で生まれた。水害が多い所だ。
果たして、まだ幼いうちに、母を洪水で亡くしたという。その時、9歳だったという説を支持したい。
その後の円空には、母の菩提を とむらいたいという気持ちから、行動をしたり、作品を作ったりしている場合が多い。
もともと、「ててなし子」で、母も洪水の時 水死した。
引き取って、面倒を見てくれたのが浄土真宗徳仁寺。
しかし、浄土真宗は世襲制。住職になる道は、始めからない。多分、そのためではないだろうか、愛知県師勝町の高田寺で、密教の修行をしたという記録がある。
神仏習合の時代だから、そこには、白山神社も、あった。ここで、白山信仰、修験道に出会った。
「木には、神が宿っている。そこから、仏を彫り出すということは、神仏習合そのもの」 霊木化現という思想である。
高田寺には、奈良時代に行基が彫ったという薬師如来坐像がある。人によっては、行基仏では、最高という人もいる。これが、いいお手本になって、円空は、木彫を始めた。
師勝町には、民間を含めて、円空仏が50体もあるという。いずれも小さい物だというが、習作のつもりだったのだろうか?
お世話になったお礼として、それらを残して、伊吹山などに、修験者らしく、山岳修行に行く。その間、史料、資料がないから、「若い時のことは、分からない」ということになるわけだ。
寛文10年、伊勢で大火があり、8割方焼失したことがある。その前に作られた地図には、「円空寺」と書き込んだ所がある。今、その寺はないが、そこから、名前だけをもらったのではないか、という説もある。その6年くらい前の作品と言われる、座高25センチの文殊菩薩が、伊勢の中山寺には、残っている。
この中山寺は、内宮と外宮の中間にあるが、ここには、円空作の護法神、大黒天、不動明王も残されている。
志摩町の三蔵寺にも、像高12センチ強の大黒さまがある。
美並町の神明神社の御神体、天照皇大神も円空作らしい。
円空は、若いころ、このあたりにいることが、多かったのではないか。
江戸時代の仏教は、布教も、新しい寺を建てることも禁じられていた。
新しい宗派を作ることなど出来ない。
個人で、菩薩のように生きるしかない。その気持ちを、五七五七七にしたり、仏像にしたり、絵にしたりした。 良寛、円空、白隠、仙厓、など、など。
新しい寺は建てられないが、古い寺を再興することは認められていた。円空は、関市の弥勒寺を再興した。円空の墓は、ここにある。
一所不住の円空に、パトロンが出来た。
白山の開祖、泰澄の直系だという西神頭家の兄、安永と、弟、安高である。兄は、もう隠居して、弟が神主になっていた。しかし、心境としては兄の好意を感謝していた。木彫制作に打ち込む。
最初に作ったのが天照皇大神。仏像ではなく、神像だ。
円空の作品の中では異色。目をカッと見開いて、睨みつけている感じ!
しかし、2年後、その神主がなくなった。
その菩提を、とむらおうと思って、同時に、母親の霊を とむらおうとも思って、恐山に行くことにした。
福井から、北前船に乗ろう。福井は、泰澄さんの生まれ故郷や。そこも、見てみたい。
まず、津軽に行き、それから、下北へ。恐山にお参りした。
それから、北海道に渡り、あちこちに、仏像を残しながら、津軽に戻る。
残された作品を見ると、彫刻の腕が、どんどん上達して行ったということが、歴然として分かる。線が、伸び伸びとなっている!
下北の十一面観音像(長福寺蔵)は、線が流暢でない。
北海道の帰りに、秋田で彫った十一面観音像は、線が、すんなり。
作る仏像も大きくなった。
梅原説では、円空の思想の土台は、白山信仰で、その根本が、清浄な水を恵んでくれる者に対する敬意。 十一面観音は、瓶を持っている。 中身は、もちろん、清浄な水。
日本の稲作農民にとっては、現世に安泰をもたらしてくれる、ありがたい存在だ。
その上、あの世に行く時には、極楽浄土に導いてくれる。
動物も、父母の生まれ変わりかも知れないから、いたわってあげなさい、と。
泰澄の書いたものを見ると、十一面観音の化仏は、十。阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、文殊菩薩、地蔵菩薩、不動明王などが、前面、後面、側面に揃っているんだと。
つまりは、一身で、すべての徳を備えておられるわけで、毘盧遮那仏とそっくりなのだが、農業の神になるのは、十一面観音だけ。
円空の信仰の中心は、その十一面観音なのだ。
ところが、北海道では、円空は、ほとんど、十一面観音像を残していない。
江戸時代、北海道は、水田耕作の出来る農業の世界には、まだ、なっていなかったようだ。
それで、作ったのは、来迎観音。なぜか。
来迎観音は、死者をあの世に送る徳を持っている仏である。
当時の北海道は、漁業中心。船を作る技術も、気象観測をする技術も、まだ進んでいなかったから、死ぬ人が、メチャ多かった。
そういう人たちを供養するために、来迎観音をたくさん彫ったのだ。そうしたら、漁民は、「魚がよく獲れるように」と言って、それを海に投げ込んだりしたそうな。
それで、魚がよく獲れた、という。
円空仏は、子供のオモチャにもなった。浮き袋の代わりになったり、犬のように、地面を引き摺られることも。円空は、それも結構と思っていたのだろう。
死者供養と言えば、円空は、恐山に、千体の地蔵を納めたというが、どうも、円空の作らしいのが見つからない、北海道からの帰りに、傷んだ物は補修したと書いてあるんだけどと、目の肥えた長谷川氏が言う。
梅原氏は、「他の人が、お守りとして、持って帰るんだよ」と。
そりゃ、なくなるはずだ!
尾張に戻った円空は、明から亡命して来た医師、張振甫と会う。
犠牲になった部下たちの供養のためにも、円空に仏像を作ってもらいたい、と言う。
当時、新しい寺を建てるのは認められなかったので、古い御堂を譲ってもらおうとしたら、中国人はダメだと。その話を聞いた尾張2代目藩主が、「俺がもらうことにしょう」と言う。それで出来たのが鉈薬師をまつる医王堂。本尊は丈六。大きい。
そこに、円空は、諸仏を配する。鉈薬師の脇侍が、阿弥陀如来と聖観音。
それに、本来の薬師の脇侍である日光菩薩、月光菩薩も配し、さらに十二神将も。
丑は牛の顔、申は猿の顔になっている!
こういう世界を作って、羽島にも、もう一つの世界を作っている。
中観音堂の十一面観音は、2メートル20センチ。どこか、お母さんの面影ではないかと思わせるやさしさがある。お殿様の像というのが、お父さんを表しているのじゃないか。弁天様も、不動明王も、聖徳太子も、誰か、身近にいる人をモデルにしているような感じ。
それなのに、そこへ、とどまらない。
法隆寺に行き、さらに、大峯山に行く。麓の天川村で、護法神を作り始める。
今まで、自分は、木を、丁寧に、丁寧に彫っていた。けれども、木の中の精霊を浮き上がらせるためなら、割ったままでもいいのじゃないか。シンプル イズ ベスト。
志摩市の片田で、「女人成仏」の話を聞いて、その絵を描いてからは、母は成仏していると思うようになった。 そうしたら、彫刻の仕方が、目に見えて、シンプルに変わって行った。いわゆる、円空仏らしい感じが、よく分かるようになった。
棟方志功のマネじゃないか、と言う若者もいるが、時間的には、円空の方が大先輩。
何しろ江戸時代前期の人だからね。
総体的に見て、十一面観音の制作は、一貫しているが、脇侍は、初めと、後では違っている。初めは、毘沙門天と不動明王。後は、善女龍王と善財童子になる。
善女龍王は、空海が雨乞いをした時に現れた水神様で、真言密教の影響が認められる。
善財童子は、華厳経で、53人の善知識を訪ねて回ったと言われる仏。
円空は、善財童子に、自分の生き方を重ねているのではないかと思われる。
総じて、水の神を、まわりの者が助けるという構図と言える。
ということは、白山開祖の泰澄が理念として描いていたものと、見事に合致する。
高賀神社にある、最後の大作も、そういう構成になっている。
ここには、歓喜天も置いてある。象頭人身の男女が抱き合っているという構図。
これは再生と言うか、生まれ変わりというか、その象徴を示す。
56億7千万年後に、弥勒如来が世直しをするという、その時に、また、生まれて来て、世のため、人のために尽くしたいという意志を示すものだと言われる。いわゆる、弥勒信仰というものである。
そして、3年後、その台座に記したように、7月15日、地獄の釜のフタが開くという日に入定する。
とてもじやないが、私如きが批評なんか出来る人物ではない。宇宙的な、大きなスケールでものを考える人なのだろう。
唯一、共感出来る所があるとすれば、シンプル イズ ベスト を よしとする精神かな?
スケールが大き過ぎて、凡人には、ついて行けない世界でしょうか。