言葉 茜 その2
「ああ!またやってしまいましたわ!!」
屋敷に悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。いたこは、この剣術勝負の法度である、剣以外を使って茜を吹き飛ばしたのである。ピンチになると、必死になりすぎて足が出てしまうのがいたこの悪い癖であった。しかも、【翡翠流剣術】は早さに重きを置いた剣術であるが為に、足は一際鍛えぬいている。その足技をもろに食らった茜が無事であるわけがなかった。
「じゅんちゃん!じゅんちゃーーーん!!」
「いたこ姉さん、またやったんですか?」
いたこが叫ぶと、黒髪の女性が救急箱を持って道場に現れた。整った着こなしの爽やかな緑色の服が彼女の性格を物語っているようだった。
「つい、ついやっちゃったんですの!じゅんちゃん診てあげて!」
「はいはい」
救急箱を持ってきた彼女、東純は、やれやれといった風に頭を振りながら茜に歩み寄る。純は医療機関への就職を目指して勉強している大学1年生だ。怪我の応急処置程度ならば朝飯前といった手際の良さであった。
もちろん、初めて茜が蹴られた時は、純も慌てふためいて救急車を呼ぶことになったのだが、今では慣れてしまって、救急車を呼ぶのにも慣れてしまっていた。しかし、最近は茜の体が衝撃に慣れてきたようで、骨折もしなくなってきたため、救急箱を持ってくるだけでよくなってきていた。
「茜くん。大丈夫?」
純が声をかけても、茜の反応は無い。一応湿布を張っておこうかと思い、服を捲ると綺麗な割れた腹筋が真っ赤に腫れていた。
「いたこ姉さん、少しは加減してよね」
「面目ありません……」
いたこは獣の耳と尻尾が垂れ下がるように、眉をさげた。
茜が目覚めたのは、1時間程が経過してからだった。
「知ってる天井だ」
「そんな、どこかのアニメ作品みたいな台詞吐いて目覚める人はなかなかいないよ?」
茜が上体を起こすと、隣に座っていた純と目があった。そして、その隣には床に額をこすりつけるいたこの姿もあった。
「申し訳ありません!!!」
「その言葉は何回も聞いたよ」
呆れて少し笑い、立ち上がろうとすると、腹部に痛みが走った。茜は痛みに顔をしかめる。
「すごい腫れだったよ。折れてないのが不思議なくらい」
「まあ、何回もあれを受けてれば耐性も付くって」
「ごめんなさいですわ……」
いたこは未だにしょげたままだ。そんないたこに目もくれず、茜は伸びをする。腹は少し痛むが、耐えられないほどではなかった。
「お腹も空いてきたし、帰るとするよ。純さん、いつもごめんね」
「本当ですよ。少しは自重して稽古してくださいね」
純は2人を見ながら言った。
「「善処します」」
ふと、壁掛時計に目をやる。ここに来たのは学校が終わってすぐのはずだったのだが、現在の時刻は5時を過ぎたところだった。
「いっけね!今日はハンバーグ作るって言ってたんだった!ごめん、もう帰るわ!」
そう言って、茜は急いで荷物を持って東家を飛び出した。
「今度は葵ちゃんも連れてご飯食べにおいでねー」
純が見送っていると、騒ぎを聞きつけたのか末っ子の東きりが玄関まで来ていた。
「あかにいはもう帰ったの?」
「きりちゃんゲームしてたんじゃなかったの?」
「一段落したから見に来た」
「今日は夕飯が大好物なんだって。うちの姉さんに似て騒がしい子だよね」
「そうだね」
茜は住宅地を全力疾走していた。学校一の足の速さを持つ茜が全力を出せば、5キロほど離れた自宅までも、ものの10分ほどで着いてしまうのだ。
そう、いつもなら。
自宅まであと半分といったところの交差点。腹痛に耐えながら走っていたからか、疲れていたからか、上空から迫るモノに気付くことができなかった。上空から迫る黒いナニカは、茜を十字路で飲み込み、後には茜とうり二つの何かが残った。