押し入れの中に
幼い頃、母に叱られたあとはいつも客間の押し入れの下に隠れていた。
衣装用ケースの隣には滅多に使われない客用の座布団が積み上げられ、その間に挟まるように体を小さくする。しばらくすると父が私の名前を呼ぶ。私は答えてあげない。もう一度呼ぶ。それでも答えてあげない。
「もーいいかい」
父は2度私の名前を呼んだあと、それを口にすると決めていた。
「まーだだよ」
だから私も答える。
「もーいいかい」
「まーだだよ」
呼びかけは決まって2回というのは、何か意味があったのか。今になってみればもうわからない。
「もーいいかい」
「もーいいよ」
しばらく父が部屋を歩き回り、わざとらしい物音を立てながら部屋のあちらこちらを探していく。私が身を潜めた押し入れの前を父の足音が通り過ぎ、私はそれを期待を込めて聞いている。足音は遠ざかり、安堵と落胆で息をついた頃に、父はそっとふすまを開くのだ。
「見ーつけた」
「見つかったー」
父のあまり厚くない胸に飛び込んで抱きしめられれば、叱られたことへの理不尽な憤りも悲しさも何もかもが霧散していく。
それは私と父の、密やかな儀式のようなものだった。
母が再婚したのは父が他界してから5年後で、私は13歳になっていた。
再婚相手は父とは似ても似つかぬ筋肉質な男で、若い頃少々やんちゃだったことを自慢に思うような類の人間だった。どうしてこんな男を母は、と思わなくもなかったが、義父の金回りの良さは子供の私の目から見てもすさまじいものがあり、女手一つで苦労して子供を育ててきた母がその金に目がくらんだとしても、責めることはできなかった。
母は専業主婦になったが、何故かいつも家にはいなかった。
私が登校する時間帯には寝ていて、恐らく昼過ぎに起きてきて最低限の家事を済ませて、夕方には家を出ていく。私が帰宅する頃には家は無人で、冷蔵庫の中には捨てるのを忘れたようなしなびた食料品しかない。
義父は月に1度か2度しか姿を見せない男だった。恐らくはどこかに別の拠点があるに違いない。顔を合わせるたびにまるで値踏みをするような視線を向けられて、肌が粟立った。
家族の会話はどんどんなくなり、互いの顔を見ることも稀になって、半年もたてば母は最低限の家事もしなくなった。
再婚と同時に私への小遣いも異常なほど増額されていたのは、生活費という名目だとすぐに理解できた。
なるべく早めにこの家を出ていこう。加速度的に澱み続ける家の空気に耐えかね、私は与えられる金を可能な限り残すことに腐心した。光熱費や水道代も自分の負担だったから――払込票を置いておいても母は放置していたからだ――できるだけ学校で過ごすようにした。弁当を買うのをやめて自炊に切り替えた。最初はむしろ高くつくように思ったが、節約レシピを見て努力した。部活はやめた。金がもったいなかった。
母の再婚から8か月が過ぎた頃だった。
母はいつものように家におらず、私はぎりぎりまで図書館で勉強をして、司書に追い出されるように閉館の音楽を聴きながら帰路につく。
帰りたくないな、とこの日はひどく憂鬱だった。
いつもなら週末に作り置きした夕食を食べるのだが、今日に限って気力がわかず、駅前のファストフード店でハンバーガーを食べた。調味料さえケチる自分の手料理に慣れた舌には、ひどく濃く感じられる味だった。
玄関に鍵を挿す前に、家の中に灯りがついていることに気づいた。珍しく母が帰ってきているのだろうか。
「ただいま」
ずいぶん久しぶりにその言葉を口にした。誰も出てこない。だが居間のほうからテレビの音が聞こえてきていた。
私は自室に鞄を放り込んで服を着替えた。かつてこの部屋は客間であり、父の他界とともに客の絶えた我が家では不要となったために私がもらった。あの頃はとても広く見えたこの部屋も、成長とともに見下ろせば何の変哲もない8畳の和室だ。
少し迷ったが、居間に顔を出すことに決めた。もうそろそろ面談があるのでその相談をしたかったのだけれど、母は来てくれるだろうか。
だが引き戸の先にいたのは母ではなく、私は久々に見るその顔を思い出せずに一瞬混乱する。
「おかえりー」
酒の缶を手にソファーにひっくり返っていたのは義父だった。居間の空気がむわっと酒臭い。テーブルの上には10本近い缶が空になって転がっていた。
「あ……ただいま、です」
「遅かったじゃん。もう9時過ぎてるよ」
「……すみません」
私はそっと後ずさった。義父の目は酔いのせいか異様にぎらついて見える。
「悪い子だな、もうだいぶ大きくなったのに」
後半の言葉とともに、義父の視線が私の頭から足先までを舐めていった。舌なめずりをせんばかりの顔つきに全身が粟立ち、私は慌てて笑顔を取り繕う。
「すみません、もう寝ます」
引き戸を閉める間際に義父がソファから体を起こしたような気がして、急いで自室へ走った。あそこにいたのは母の再婚相手であって、私にとっては金をくれるだけの知らない男だった。
居間の引き戸が開く音。こちらに向かってくる足音。
私は焦りながら、定規を部屋の引き戸の隙間に差し込んだ。その数秒後、向こうから義父が自室を開けようと引き戸をがたがたと鳴らし、私は心臓が止まりかけた。
「おーい、なにしてんの。宿題見てあげるから、ちょっと開けてよ」
がたがたと引き戸が揺れ、同時に向こうで男が苛立ちを募らせているのがわかった。どこに逃げるべきか迷った瞬間、定規がぴしりと甲高い音を立てた。頭が真っ白になった。とっさに目についた押し入れのふすまを開いて中に飛び込む。かび臭い座布団に顔を押しつけながら、ふすまの枠を内側から押さえた。
ばし、と定規の弾け飛ぶ音。乱暴に引き戸が開かれ、傍若無人な足音が室内に踏み入ってくる。
「どこ行ったのー? なに、かくれんぼかなー?」
顔を見ずとも男が下卑た笑みを浮かべていることが伝わってきた。男がわざとらしく室内を歩き回り、クローゼットを開き、ベッドの布団をめくる音がする。
同じかくれんぼなのにどうしてこんなにも違うのだろう。ふと、父を思い出した。父の足音はもっと優しくて、お互いに期待があった。
「ここかなー?」
がた、とふすまが動いた。私は反射的に体重を指にかける。
「おおー、なんだか立て付けが悪いな」
がん、とふすまを蹴られた。
「ここに大事なものがあったら困るなぁ」
がん、ともう一度。
「簡単に穴が開いちゃいそうだなぁ」
がん、がん、がん。
指が震える。心臓が痛い。
「……あんまり調子乗るなよ、ガキが」
蹴る代わりに低い声が響いた。
「コブ付きと結婚する理由くらい察しろよ。これからもママにいい暮らしさせてやりたいだろ?」
すべて理解したうえで母は再婚したのだ――そういうことか。
ぽろ、と目からこぼれた。
「な、ちょっとお父さんとお話しするだけだよ。開けてくれるな?」
お父さんなんて言わないで。
そう怒鳴りつけたかったけれど、喉が内側から腫れたように言葉が出ない。
代わりに手の力が緩んで、ふすまが向こうから開かれた。
「見ーつけた」
満面に下卑た笑みを浮かべた男の顔が見えた。
男の目が私をとらえ――背後に視線が動く。目が見開かれ、それはまるで驚きよりも恐怖のような。
何かが私の肩を押さえていた。
後ろから誰かがするりと私の傍らを抜けて、男に飛びかかった、気がした。
男はしゃがみこんだままの姿勢でゆっくりと後ろに倒れ、動かなくなった。
脳梗塞。それが義父に対する診断だった。
私が救急車を呼んだため、彼は一命をとりとめた。
だが、失われたものもある。
義父はその記憶の大半を喪失し、人格まで変わってしまった。
「どちらさまですか?」
見舞いに来たという派手な服装の男たちに義父は穏やかに微笑みかけ、彼らは困惑の表情を浮かべることしかできなかった。義父を「兄さん」と呼んでいた彼らはその後何度も病院に足を運び、義父に何かを思い出させようとしていたが、結局は諦めたらしい。仕事に関するいくつかの書類に強引にサインさせ、彼らはそれきり姿を見せなくなった。
義父が仕事をやめてしばらくした頃、母はまるで憑き物が落ちたようなすっきりした顔で再就職先を見つけてきた。元薬剤師だけあって、その気になればすぐに仕事ができるのだなと、私は資格職の強さに感心する。
私は――何も変わらない。ここ数か月の生活がよい経験になったらしく、多少は家のこともできるようになった。今まではあまり母の手伝いをしてこなかったな、と反省したが、私の作った料理を母が食べて笑ってくれたのでなんだかほっとした気もする。これでよかったのかな、と。
義父は体に少々の麻痺が残ってしまったので、病院に入院しながらリハビリに精を出している。
14歳になった私は、義父の見舞いに来ていた。病院の裏庭には満開の桜が咲き誇り、私は父を乗せた車いすを押してゆっくりと桜の下を歩いていく。まだ少々肌寒いが、あっという間に暖かくなることを予感させる日差しだった。
「ちょっと風が出てきたね」
私は鞄から取り出したストールを彼の肩にかけてやる。大きな体は2か月の入院生活の間にあっという間にしぼみ、肩には薄く骨が浮いてさえいた。
「おまえが使いなさい。風邪引くよ」
義父がストールに手をかけたのを、私は首を横に振って押しとどめた。手が触れる。嫌悪感は、ない。
「馬鹿は風邪ひかないんだよ」
「それは困るな。進路を考えないといけない頃だろ」
「まだ2年生だよ」
「もう2年生か」
義父が空を仰ぎ見るのにつられて私も上を見た。水色の空に桜が映えて、どこか非現実的だった。
「そろそろ塾にでも行くか」
義父が小さくつぶやく。
「そだね」
私も小さく答える。
桜の花びらが義父の頭に舞い落ちるのが見えた。払おうか迷って、可愛いからそのままでいいか、とひとりで微笑んだ。
「ちゃんと今度は、もっとそばにいてね、お父さん」
「…………ああ」
義父が頷いて、頭から花びらがひらりと落ちていく。それは柔らかな芝の上に積もった花びらたちの中に混じって、あっという間に区別がつかなくなってしまった。