二章 プロローグ
星の無い空の下、紅き城が聳え立つ。
その奥、王の間にて一人の少女が目を閉じていた。
石造りの玉座の上、遥か太古より微動だにせず少女が座する。
『鮮血の踊り子』アイリアだ。
彼女は『不死者』の最高位に位置する存在である『鬼』だった。
『鬼』、それは昔より悪事を働く化け物を意味している。
頭部に角を持ち、人を上回る身体能力を持つ存在。
しかしそれは人間の、しかも一部の地方にのみ伝わる伝承の中だけの存在だった。
尤も、角を持つ種族もいるがそれは魔族のみである。
では何故、彼等は『鬼』などと呼ばれているのか。
その所以は至って単純なモノで……ただ、『神』の対義語を文字いたに過ぎない。
しかし、『不死』とは『神』の定めし理から外れた存在であり、それの最上位者ともなれば『神』へ弓引く者も現れ……あまつさえ、『鬼の始祖』は『神』を斃ぼしてのけた。
だからこそ彼等は、『神』の敵対者たる『鬼』と呼ばれるようになったのだ。
いつか訪れるその時を待ちながら、彼女はゆっくりと記憶を遡る。
かつて血の海を見た記憶。
他でも無い自分自身がその血沼に呑まれている。
それも、一度では無い。
何度も血の海を渡り、その果てに地に沈んだ。
何度も、何度も──幾度生まれ変わろうとも、その業は変わらなかった。
それこそが『鬼』であり、それこそが源。
その業こそが『鬼』の根源なのだ。
幾度生まれ変わろうとも決して逃れられないソレが、『鬼』の力となる。
故に、彼女は血を司る鬼と化したのだ。
古い思い出に浸かっていれば、いつしか変化が訪れた。
身体に纏わりつく空気は重なり、彼の者がこの地に現れたことを示していた。
ゆっくりと長年閉じていた所為で固まった瞼を開けば、パラパラと薄い石が剥がれ落ちる。
次に固まった身体を動かして玉座から腰を持ち上げれば、先程と同じように身体を覆う薄い石が砕け落ちた。
そうして数段だけの高台から降りて、静止する。
待つこと数刻。巨大な鉄扉がゆっくりと、一人でに内側へ向けて開いてゆく。
奥の闇から姿を現したのは一人の男。
この世界ではもう、生き残りがいないと思われていた黒髪が薄闇の中、影のように揺らめいている。
鈍く黒光りする黒鉄色の瞳は初めて出会った時と変わらず、冷たい視線を放っていた。
それが闇の中、徐々に赫みを増して赫き出す。
邪眼を顕現して少女を見やるも、彼女に影響は見られない。
それもその筈だ。邪眼を見ただけで狂うようでは到底この世界では生き残れない。
しかし、邪眼による影響がないと言えば嘘になる。
あの眼で見つめられると、両肩に重荷を背負ったかのように身体が重くなった。
故に、それに対抗するように魔眼を顕現して、邪眼の効果を相殺する。
僅かに身体が軽くなったのを感じて、ゆっくりと歩を進めた。
光の加減ひとつで黄金にも白銀にも見える白金の長髪。
それが神秘的な色合いを見せながら鮮やかに靡く。
手に握るのは長い柄の上下から刃の伸びる両刃刀。
それは彼女の持つ『神器』、それは神と鬼が共通して持ち合わせる権能だ。
赤銀色の魔眼をおもむろに開けば、鋭く構える。
倣うようにしてその男、鬼の真祖が闇色の刀を構えた。
ゆるりと動く男を最大の警戒をもって見据える。
指先の動き、視線の動き、ありとあらゆる些細なことろから彼の行動を予想しようと目を光らせた。
どれほどそうしていただろうか。
もう数刻も、こうして二人は静止したままだ。
今か今かと訪れるその時に、二人の間にある空気が張り詰める。
そして──先に動いたのはアイリア。
長い柄を二つに割って、神器を二刀に変化させる。
それを合図に男も動き出した。
瞬きの間もなく目の前に現れる男。
あれだけの距離を瞬く間に詰めてきたのだ。
反射的に身体を半身に刺せれば、胸を掠めて放たれたと刺突が通り過ぎる。
突き出した姿勢で男が一瞬固まる。
攻撃後の生まれた隙を逃さずに、双刃を振り下ろした。
突き出した刀を戻していては間に合わない。
そう判断すると、僅か半歩下がることで容易くアイリスの斬撃を避けて退けた。
だが、それで終わりでは無い。
降り下ろしたアイリアが斬り返す。
挟み込むように放たれた斬撃を、しかし男は紙一重で躱して見せた。
片方の刃を弾き、もう片方を半身になって避けると、アイリスの懐へ飛び込む。
明らかに剣を振るうには近過ぎる距離。
しかし彼女は知っていた。
この男が最も得意とするのは格闘術だと──
故に、大袈裟過ぎる程に大きく跳び退き、男から距離を取ろうと試みるが……男はそれを見越して攻撃せず、距離を取ろうとする彼女へ追い縋る。
手遅れだ──そう思った時には既に事は終わっていた。
放たれた抜き手が彼女の胸を貫き、その奥にある命の鼓動を刻む器官を鷲掴みにしていたのだ。
「ゥガッ、ぐっ……!」
胸を貫かれた衝撃に呻きながらも、強く握った刃を振るう。
しかし、その双刃は虚しく虚空を斬っただけだ。
地面に足を着き胸に手を当てれば、中身は既にもぎ取られていた。
湿った生々しい音のした方を見れば、自身の臓器が無惨にも潰されている。
しかし、それで『不死者』が死ぬ筈もない。
アイリスが胸から手を離すと、地面に双刃を突き刺す。
地面に溜まった血液が二つの刃に吸われていく。
追撃を仕掛けようと男が動くが、地面の血が無数の棘と化して突き出した。
辛うじて目の前で止まることができたが、もしそのまま突っ込んでいれば、無数の棘に身体中貫かれていただろう。
攻撃は不可能だと悟り、男が再び元の位置まで後退する。
そうしている内に血沼の全てが双刃に吸い取られた。
地面から抜き放たれた凶刃は、血を吸ったことにより肥大化し、禍々しい赤刀となっていた。
片方だけでも、アイリス自身の身長を僅かに超える長さだ。
それを軽々と持ち上げて──
「っ……!」
三つの刃が交わる衝撃に、大気が張り裂ける。
刀に黒雷を這わせ、再び男が切り込んだ。
それを弾きあげ、残る片方の刃を振り下ろす。
直後、何を思ったのか男が前進した。
弾き上られて未だに戻せない刀から片手を離して、瞠目する彼女の左手首を掴んだ。
すぐに右刃で斬りつけるが、刀に阻まれる。
そうしてすぐ、手首が握り潰された。
左手からこぼれ落ちた血刃が地面に突き刺さる。
それに目をくれることなく再び斬り返される刀が目前に迫った。
辛うじてもう一つの血刃で受け止めるも、纏っている黒雷によってじわじわと黒き灰と化していく。
このままでは武器を失うと判断し、刀を右に往なしざま蹴り込んだ。
蹴りを避けるようにして男が下がると、再生した左手で地面に刺さった血刃を抜き放つ。
二つの柄頭を繋げて両刃剣に戻し、低い姿勢で構えたそれは、居合に酷似していた。
そして……一閃──
血の刃が想像を絶する距離を薙ぎ払う。
刀で塞いだものの、あまりの威力に男が吹き飛ぶ。
地面に刀を突き立ててすぐに止まろうとするが、いつの間にか距離を詰めたアイリアが目の前で両刃剣を振るう。
刃が振われる度に飛び散る血が礫もなって周囲にあるモノを引き裂く。
乱れ咲く血の狂乱を掻い潜り、やっとの思いで一撃を放つが、それは虚しく血に呑まれて阻まれた。
無数の血礫と斬撃により肌が切り裂かれる。
そんな中で、黒き稲妻が迸った。
血の礫をかき消して、血の刃を跳ね除けて闇の斬撃がアイリアへ迫った。
しかし、それさえも切り裂き再び男へ血を浴びせる。
直後に爆ぜる黒炎。
その中から伸ばされた黒き刃。
辛うじて躱すもすぐに迫り来る追撃の魔の手。
黒雷を纏う魔手がアイリアの身体を肩から脇にかけて切り裂いた。
辛うじて背骨には届いていないものの、肋骨やその奥に位置する臓物の悉くが切り払われる。
苦し紛れに血刃を震えば、容易く躱されて更に懐へ潜られた。
直後に訪れる衝撃で、口から血を噴き出す。
腹に衝撃が来た次の瞬間、背中からは血と肉と臓物による花が咲き誇る。
身体の中を殆ど失い……軽くなった筈に、何故か重い身体を引きずって後ずさる。
力の入らない足を支えるようにして血刃を地面に突き立て、男を睨みつければ相変わらず感情の浮かばない眼でアイリスを見返していた。
──止めなくちゃ……何としても……──
冷たく、感情の宿らない眼を見て改めて誓いを固めれば……
──彼が……、本当の化け物に、なってしまう……前に……──
未だに失った部位を回復しきれてない身体に鞭打ち、双剣を構える。
血で血を洗う為に──
二刀同時に持ち上げ、叩きつけた。
男は横に跳んで避けるが、地面に当たって四散する血が礫となり彼の肌を切り裂く。
間髪入れずに放たれた一閃──
強烈な斬撃と飛び散る血礫、続いてその血が燃え上がる。
直後、二刀を両刃剣に戻し引き絞る。
それは刺突の構え──そして、放たれた。
渦を巻く血の刺突が男に襲い掛かる。
それを横に跳んで辛うじて躱す。
空を突いた血の刺突は、躱した男の遥か後方を穿つ。
一瞬遅れて、放たれた血が爆ぜた。
それを意に介さず、間髪入れずに追撃に入ろうとした瞬間……アイリアが両刃剣を既に二刀に分ける。
そして、舞った。
そう錯覚するほど鮮やかな飛び上がりだった。
彼女は回転しながら飛び上がる際、上昇時に血の二重螺旋を描いたのだ。
そうして五メートル近くまで飛び上がると、男めがけて急降下する。
追撃を止めると、大袈裟すぎるほどの回避行動をとった。
それもそのはず、アイリアの双剣は地面に衝突すると同時に血の礫を撒き散らしたのだから。
紙一重で躱していれば、双剣を避けても血の礫で蜂の巣になっていただろう。
しかしそんな大技を放てば同然、一瞬の硬直が生まれる。
その隙に男がアイリスへ襲い掛かった。
だが、アイリアは地面ごと抉りとるように刀を切り上げた。
追撃を諦め、再び回避行動を取る。
血刃が虚空を切り裂き、一瞬遅れて血が燃え上がった。
それは、幾度とないな衝撃によって熱を持った刀によって発火した血だ。
発火した血は振るわれることにより酸素を得て、瞬間的に激しく燃え上がる。
血と炎の紅き舞い。
見惚れ程美しいそれは、『鮮血の踊り子』に相応しいモノだった。
アイリアが再び突きの構えをとり、そして放たれた。
接近した状態で、男は半身になって避ける。
血の螺旋刺突が、一瞬遅れて燃え上がる。
しかし、火は思っているより彼にダメージを与えることはない。
避けざまアイリアを斬りつける。
だが、彼女はその場で回転して二刀の連撃を放つ。
弾かれると同時に、その反動を利用して男が後ろに跳ぶように回避した。
再び血の二重螺旋を描きながらアイリアが舞い上がる。
遅れて後を追うようにして血の二重螺旋を炎が駆け上がった。
対して男は、続け様に放たれるであろう攻撃を避けようとせず、反撃をとるように構えた。
アイリアが舞い上がると同時に、白い光を放つ魔法陣が浮かび上がる闇色の鞘に刀を納める。
刀身が鞘の奥に入るにつれ、中から黒電が溢れ、居合の構えで静止した。
直後、その鞘めがけて天から白き光を放つ黒き雷が、紅城の天井を突き破って落雷した。
ただ、その余波だけで城が原型を失い崩れてゆく。
巨大な城を覆うほどに膨れ上がった黒雷を、赤き双刃が切り開く。
宙に舞い上がったアイリアの力が爆発的に膨れ上がった。
そうして自らが突き詰め、極めた技の銘を唱える。
咲き乱れる血炎が全てを薙ぎ払い、己が道を切り開く。
滅びの雷の中、更に刀身を伸ばした血の炎刀が猛り狂う。
壁を、天井を、床をまるで抵抗感なく切り裂く血の刃が黒き滅びの雷を掻き消さんとする。
しかし、それを抑え込むように滅びが増した。
天上は轟き、大地は震撼する。
世界の全てが彼の者の存在に怯えているかのように──
左足を踏み込めば、飛び上がりざま刀を引き抜く。
放たれるは黒き雷を纏う、滅びの刃。
二つの奇跡が互い交わった。
その衝撃は時空を切り裂き、空間を引き裂く。
純白の光を放つ深淵の雷。
紅蓮の炎を纏う鮮血の刃。
二つの奇跡は互いの存在を呑み込もうとその力を増した。
崩れる城を呑み込む程の爆雷と、城を微塵切りにする程の血刃が鬩ぎ合う。
そして──
ガラスが砕けるような音を立てて赤き刀身が宙を舞う。
それは主の血を吸って肥大化した刃の欠けら。
しかし、翼を力強く羽ばたかせて体制を立て直す。
そうして半分以下になった刃と、折れてはいないもののボロボロになった刃を再び振った。
既に足場は無くなり、城は重量に従って崩れている。
その残骸を足掛かりに男がアイリアへ追い縋った。
迎え撃つように振われる傷ついた刃。
最期の力を振り絞るように折れた刀身を再生し、数十メートルにも及ぶ血刃が縦横無尽に駆け巡る。
しかし、その悉くは黒き雷に触れて滅び去った。
数十メートルもあった刀身は今や、己の身長とほぼ変わらない長さにまで削られている。
だが、それで十分だ。
だって、もう……彼は既に手の届く位置に居るのだから。
故に、渾身の力をもってアイリアは振りかぶった。
対して男は刀の刀身を握る。
その不可思議な行動にアイリアが目を見開く。
直後、刀身の根元を握った手をあろうことか、握ったまま刀身の先端まで手を移動させる。
彼が行った自傷行為の意味に気づいた時には、既に男の準備は整っていた。
何と、男は刀身に這わされた黒雷を手で拭ったのだ。
その黒き雷を自らの左手に纏わせる。
血の滴る手を開けば、指先から雷の爪が伸びた。
五本の鉤爪を模した黒雷を振りかぶる。
放たれたのは同時だった。
そして──
「ぁ……!」
目に映るのは折れた赤き二本の刀身。
続くのは自分の身体を覆う滅びの電光。
瞬く間に身体から力が抜ける。
滅びに近づいているからなのだろう。
──ああ、私は……止められなかった──
成すべきことを成せなかった無念と、漸く終われたことの安堵感が彼女の心を覆う。
──でも……せめて、彼が本物の化け物になってしまう前に……──
止めたかった……。
せめて、彼が『人』のままである内に終わせてあげたかった。
きっと、己が目的を果たす為に……、彼は神を斃ぼし、世界をも滅ぼすだろう。
せめて、そうなる前──
薄れゆく意識の中、何かが自分の身体を抱き止める。
その何かは落ちる城の残骸を足場に、城の崩壊に巻き込まれない場所まで移動した。
その場所は、今では既に住む者のいない街だ。
その広場に彼女は寝かされた。
どうにか瞼を開けることは出来るようだ。
辛うじて瞳に届く光の向こう、まるで闇のような黒き影が立っている。
その顔を見上げれば、
力の入らない手を彼に向けて伸ばす。
「気高き志しを持つ我が恩師よ。あなたの崇高なる望みが叶うことを、私は願っています」
一語、一語……、血を吐き出しながら言葉を紡ぐ。
影の男は相変わらず感情の籠らない邪眼でアイリアを見下ろしていた。
「どうか……、どうか、その道を踏み外しませぬように……」
それが、彼女の最期の願いだった。
滅びの雷によって黒き灰と化してゆく少女を見下ろす。
間もなく彼女だった黒灰が風に飛ばされつつある中で、残るのは彼女の手に握られていた神器のみ。
しかし、そこに最後にありったけの力を移行したのだろう。
潰える自分の可能性を残そうと、記憶と力を神器に宿る魂へと遺したのだ。
故に、その神器は莫大な力を放っていた。
それを拾い上げ、再びアイリアだったモノを見やる。
今では見る影もない黒き灰へ手を伸ばし……だがその手を引っ込め、暫く彼女を見つめていた。
どれぐらいそうしていただろうか、おもむろに踵を返すとかつての義娘へ背中を向けて歩き出す。
もう、止められない。
今更、止まることなど許されはしない。
障害となるモノは全て滅ぼしてでも前へ進む必要がある。
それが例え──破滅へ続く砂時計を進めることになろうとも……