6 精霊の結論
セナがガルを見上げると、彼は「確かに、あなたがいた方がいいですね」と頷いた。
それからお茶を新たに淹れようとしているメイドを始め、その場にいた召し使いに退室を命じた。
「シャリオン、誰も近づけないようにしてください」
「承知致しました」
最後にシャリオンも出ていき、部屋には精霊が三名、ベアド、ガル、セナ、それから……ポケットの中の白魔だけになった。
セナがポケットを見下ろしてから、またガルを見上げると、ガルもこちらに目を向けた。
「いいですか」
「うん」
「私が話しますか?」
「ううん」
セナは首を横に振り、断った。
これをガルに任せてどうする。
大丈夫。できる。ガルのときだって、あれは自分しかいなかったのだが、話せたのだ。
「セナ、そんなところに立ってないでこっちでお菓子食べましょ」
エデがいつものようにセナの手を引いて行こうと、椅子から下りて、こちらに来ようとする。
「エデ、ごめん、止まって」
きっと、エデは誰よりも離れて話すべきだ。
セナが制止をかけると、エデが反射的に立ち止まったが、戸惑ったようになる。
「エデ」
「……ノエル」
「一旦セナの言う通りに。大丈夫、セナは僕たちを拒絶するような子じゃない」
ノエルに諭され、エデはセナの方を見てから、小さく頷いた。
「もう聞いてもいいのかな。領主も来て、王も来る話──精霊たちに話さなければいけないことって一体何なんだろう」
椅子に落ち着いたまま、ノエルが淡々とこの状況を問う。
セナは口を開き、息を吸い、とても慎重に話し始めた。
「わたしがノアエデンに帰る前に……帰ってもいいのか、話したいことがある」
帰ってもいいのかという言い方に、ノエルの眉がぴくりと動いた。
「わたしの召喚獣として召喚された、白魔について」
セナがポケットに触れると白猫が出てくる。
直後、ノエルが立ち上がりエデの前に立った。いつも素早く動くエデに対してゆっくり動く彼にしては機敏だった。
「なるほど、さっき、どうしてあんな様子をしていたか分かったよ」
後ろにいるエデが出てこないように、後ろから様子を窺おうとするエデの前に片腕を伸ばして制止ながら、ノエルの目はシェーザを見ていた。
「セナの召喚獣が白魔であったと聞いた。僕の記憶ではそんな姿をしていたはずだ」
ノエルとエデとメリアーズ家所領に居合わせた精霊は、白魔の存在を知っている。
「それが白魔か」
エデの小さな手がノエルの服を握ったのが見えた。心臓が掴まれたような感覚がしたけれど、浅く息を吸って話を続ける。
「ノエル、エデ、聞いてほしい」
白魔の存在を知っている精霊だからだけじゃなく、最も接してきた精霊たちに。
「彼はわたしの側にこれからずっといる。わたしが決めた」
精霊を前に躊躇しそうになる口を動かし、その先も口にする。
「わたしがノアエデンに帰るとき、彼もノアエデンに入ることを許してほしいの」
声が消えて、沈黙が落ちた。
「……なるほど」
ぽつり。
ノエルが呟きを落として、声が消えて、また静寂が満ちる。一秒、五秒……十秒…………。
「どうして」
ノエルが首を傾げた。
「ベアドからその白魔が例外だと聞いた。だけれど白魔は白魔だ。セナだけ帰って来ればいい。それじゃ駄目なのか」
やろうと思えばやれるだろう。シェーザをノアエデンの外に置いて自分だけノアエデンに入ればいい。
でもできると言えない、言わないのは、シェーザを置いていくことに不安や疑いがあるからではない。ノアエデン内でこそセナに危害を加える存在はいないし、セナがいなければ、シェーザが一人ノアエデンの外にいて何事か起こすこともないだろう。
「これは我が儘だって分かってる、精霊にとんでもないことを頼んでるってことも。だけど……精霊は白魔のことは怖いって思うのかもしれないけど、彼は大丈夫だって信じてほしい」
シェーザは大丈夫。この白魔は大丈夫。
「……」
ノエルはまた黙った。
エデは何も言わない。ノエルで隠れて、どんな表情をしているのかも分からない。
ノエルは元々感情が表情に表れないタイプだが、今はもっと表情から感情が読み取れない。
「俺の愛する精霊達、感じたままを教えてくれ」
ノエルの後ろから柔らかな声が言ったことで、ノエルが後ろを振り向く。
「王」
唯一椅子に座ったまま、精霊王は穏やかで居続けていた。
「その子の言うことにどう感じている、考えている」
彼は、ノエルとエデを見て尋ねた。
ノエルは、少し考える間を挟んで「とても、難しいことだ」と答えた。
「セナ、これは反射的な感情なんだ」
エデの頭を軽く撫でてから、ノエルはこちらに視線を戻した。
「エデが白魔と聞いただけで怖がるのは、昔、多くの精霊が白魔の力で消滅させられたからだ。例外と言われても白魔だという認識が邪魔をする。危険だと、警戒せずにはいられない」
本能から来るものなのだろう。一度経験した危機によって警戒が刻まれるのは当然のことだ。
「僕たちは、やりたくないことをやらなければならなくなった。セナと、白魔という存在を天秤にかけることだ」
ガルが言っていた、セナを好むから白魔を受け入れるか、セナが好んでも譲れないかというあれか。
思わず謝りそうになった。でも、セナは言うことを言った。今さら撤回はしない。
「なるほど」
ノエルが続きを口にしない内に、精霊王が相づちを打った。
ノエルもそれに逆らわず、その王を見て「王はどう思う」と今度は尋ね返した。
精霊王も問われてから少しだけ間を空けた。
「俺は、精霊を傷つける者を許せない。白魔はその最悪の存在だ」
白魔に目もくれない。淡白に口にした精霊王だったが、ふと「だが困ったな」と言った。
「彼女が白魔を受け入れている。俺達にノアエデンへの立ち入りを頼んでいる」
不思議な色味の瞳がそこでようやく動き、セナを見る。
「セナ、一つ聞こう」
「はい」
「お前は、俺達がその白魔がノアエデンに立ち入ることを許さなければどうする。お前だけ帰ってくる? それとも、お前もノアエデンに入らないのか?」
言ってしまえば、その瞬間、精霊と縁が切れるかもしれない。
そんな考えが口を麻痺させてしまう前に、セナは答える。
「わたしもノアエデンに入らない」
これがわたしの覚悟だ。
駄目なら自分だけ。そんな生半可な気持ちで精霊に頼もうなどと生温い話だ。
「わたしはシェーザを側に受け入れると決めたから」
ノエルが目を閉じ、エデが顔を覗かせた。どちらかが声を出そうとしたが、その前に、『セナ』と最も近くから呼ぶ声があった。
「シェーザ?」
白い猫がポケットから抜け出し、とん、と床に降りた。
銀色の目がセナを見上げる。
『お前が、先ほどそう言ってから考えていた』
「何を」
『私はお前から楽園を奪いたくはない。お前は楽園にいるべきだ』
『だから』白猫の姿をした白魔は、セナを見ているのか、魂を通して自らの半身を思っているのか。
『お前が精霊の楽園にいる間、私は外で待機してもいい。天界と魔界のように隔てられているわけではなく、二度と会えなくされるわけでもない。そして精霊がお前を傷つけるはずがない。ならば私が出る幕もないだろう』
精霊の園だ。精霊が妥協するより、その他の存在が妥協するのが道理である。
『外に私のみにすることで、勝手な行動をされるのが心配ならば制限をつければいい』
それは、精霊にとっての最善の案だっただろう。
「不思議な白魔だな」
声に、セナは視線を上げた。
「こちらも覚悟して尋ねた甲斐があったか」
精霊王の目が、セナごとではあるが、この場で初めて白魔を視界に入れていた。
「セナ、お前がした決断を変更するかどうか考える必要はない」
「え」
精霊王は意図が汲み取れないセナにそれ以上言うことなく、ノエルに話しかける。
「俺の知る限りでは、その白魔は短い間だがセナとノアエデンにいたな」
「いた」
ノエルが答える。
「ノエルとエデはしきりにセナの元に行っていたので、その姿を目撃していた」
「その通りだ」
「しかしお前達も、近くにいた精霊も気がついていなかった」
「それも事実だ」
「俺とお前達の結論は同じではないかと思っているけれど、どうか」
精霊の結論。
流れについていけず、始まった精霊たちの問答を聞いていたセナに緊張が走った。
今の流れで出た結論とは。
「エデ」
ノエルが自らの背後に呼びかけると、エデが頷く。
セナはわずかに虚を突かれた気分になった。エデの様子によるものだった。
笑顔こそないが、エデは怯えることなくノエルの隣に立った。
「その後白魔はどうしたのか気になっていたら、ガルから一報だけはもらっていた。セナが側に置くことに決めたって。だから僕たちは考えることになった。考えることにした」
こんなに悩んだのはいつぶりだろうってくらいに考えた。精霊は言う。
「それで一番に考えたのは、当然セナだけ帰ってきてもらえばいいっていうこと。だけどセナはそうはしないかもしれないと思った」
驚いた。
その考えを予想されているとは思いもよらなかった。
「僕たちはセナを見てきた。たった数年かもしれないけれど性格を知るには十分だ。それに、大切なものがかかっているなら、あらゆる可能性を挙げた上で考えておくべきだ。──その上で今、最終的に出した結論はこうだ」
ノエルが口を閉じると、精霊王が口を開いた。
「白魔の立ち入りを許す」
ただ、一言。
いきなりで、簡潔な一文を理解するのに時間を要する。
「白魔がノアエデンの外にいることにするかどうかは勝手にすればいい。セナは帰ってきて白魔が入ってこないなら、落ちてきた幸運くらいに思うだけだ」
棚からぼた餅的な言い回しで、ノエルがいつもの調子で続けたところで、セナの頭が回り始める。
「……いいの?」
本当に?
ぱちり。瞬きをすると、精霊王が微笑ましげに笑っていた。
「お前は忘れているのかな。初めて会った場で、その白魔を制する術があることも何もかも聞いていた。それを信用し、愛しい存在を精霊から失わせないための譲歩をしよう。愛したくなる存在はとても大事だからな。大事で、大切で、愛おしい」
「その通りだ」
淡々と、またいつもの調子で同意する精霊に、距離を縮めずにいたセナの足が動いた。
駆け出し、腕を広げ、勢いのままにノエルを抱き締めた。
「ありがとう」
囁くような小さな声になった。
「我が儘言って、ごめんね」
ありがとう。
「セナの初めての我が儘だ。仕方ない」
背中に腕が回り、腕の中の存在からも元々ない距離が縮められる。
「あのね、セナ、僕たちはセナのことを嫌ったりしない。だから、そんなに怖がらなくて良かった。怖がるのなら言わなければいいのに、でも、セナはそういう子だ」
どこまでも、どこまでも読まれていたのだ。
「……わたし、ノエルたちのこと大好きだよ。ノアエデンに入らないって言ったのは、好きじゃないからじゃないよ」
「知っている。白魔が駄目なら自分ごと離れようとするのは、僕達を思ってくれている証拠でさえある。セナは勇気がある子だ、そして優しい子だ。だから予想するのは難しくなかったし、今、セナの言葉を聞いて結論を出せた」
幼い少年姿の精霊は、姿相応の小さな掌で、体で、けれど確かにセナを包み込んでいた。
「僕たちは、僕たちの愛するものの言うことを信じるだけだ」
ありがとう。
信じてくれてありがとう。──愛してくれて、ありがとう。
「ノエルだけずるい、セナ、わたしも」
腕を引かれて見ると、幼い少女の姿の精霊が腕を広げたから、セナも彼女に手を伸ばした。
「エデもありがとう」
「いいの。セナが好きだもの、セナには変えられないの。大好きよ」
抱き締めたエデは、花のかおりがした。
「でも」
腕の中でもぞもぞとして、エデが顔を横に出して、セナの背後を見た。
「わたしには近づかないでよねっ」
シェーザに言うだけ言って、エデはセナの腕の中に引っ込む。
エデの強がりで、彼女なりに受け入れてくれたのだと改めて感じたから、セナはエデをもっと抱き締めた。
ノアエデンに行ってから、ずっと好きでいてくれて、気にかけてくれた精霊達に感謝が絶えなかった。
どちらも望んだ、セナの我が儘を叶えてくれた。
「いいのですね」
ガルが精霊王に改めて意思確認すると、精霊王は静かに首肯した。
「セナの一生の間のみ、精霊の森には立ち入りを禁止した上で許可しよう。邸近辺であれば好きにすればいい。そもそも邸はノアエデンでの『例外』に当たる。そして、知っているのはここにいる者のみとする。俺が聞いたあの場では小さな精霊たちの耳は念のため塞いでおいた、気がつかないならそのままでいいだろう」
ガルが頷き、セナも頷いた。
「精霊王、ありがとうございます」
セナのお礼に、精霊王は微笑んだ。
「話は終わったところで、帰るとしようか」
言うや、精霊王の足元に精霊の道が開いた。
「セナ、帰れるのよね?」
「うん」
エデが嬉しそうに笑ったので、セナも笑う。
「帰ったら、遊びましょ。森に花を咲かせたのよ、食べられるうんと甘い花もあるの!」
そういえば、ノアエデンを出ることになる前に甘い花を食べさせてもらった。もしかしてあれ以来、自分はエデの中では花を食べたい人間になっているのだろうか。
「セナ、訂正することは早めに訂正しないとエデはずっとこうだ」
「ううん、嬉しいからいいの」
甘い花も美味しかった記憶だ。
また精霊とそうできることが、精霊が笑いかけてくれることが嬉しくて仕方ない。
「話が終わったの?」
床から首が出てきた。
訂正。精霊王が作った精霊の道の出入り口から、ひょこりと顔を出した存在がいた。
ガルの母だった。
「終わったよ」
「じゃあ帰ってくるのかしら」
「うん」
「セナも」
「そうよ、シアン!」
エデがセナと繋いだ手を挙げて、嬉々として返事する。
シアンも良かったわねとふわりと微笑んだ。
「ガルも帰ってくるのかしら」
精霊たちは言わずもがなノアエデンに帰る。
セナも帰る。
では、この部屋内に残った一人、ガルに彼女は問いかけた。
「私は──」
『セナ帰るんだったな』
「? うん」
ベアドの耳が何か閃いたようにピンとしたかと思えば、ガルの声を遮って、なぜかセナに確認がされた。
答えを受け、ベアドは素早くシアンに言う。
『じゃあガルも帰るぞ』
「ベアド?」
「そうなのね! それなら、皆で帰りましょう」
その瞬間、精霊の道の出入り口として開いていた穴が床一面に広がった。
「え」
足から床を踏みしめる感覚が消え去り、そして、──落ちた。




