5 どうするか
元帥であるガルの執務室はなるほど、パラディンとは別の廊下の筋にあった。ヴィンセントの執務室の前も通らなかった。
そして、少し場所が違うだけで何だか物々しい空気を感じた。
「謝る必要はありません」
開口一番謝ったセナに対して、ガルが首を横に振った。
「事前に話し合っておくべきだったことを、私が時間を作ることが出来なかったこともあります。それに、今からどうするか話せばいいだけです」
ガルが合図してシャリオンが持ってきた椅子に座り、セナは執務机越しにガルと向き合う。
ガルが続いて合図したので、どこかに歩いていくシャリオンを横目に、ガルが早速本題に入る。
「まず前提として、白魔が制限なしでノアエデンにいることに精霊が納得することはないでしょう」
「うん」
それは分かっている。問題はどう線引きをし、精霊に納得してもらうかだ。
視界の横から手が伸びてきて、机の上に紙を広げた。シャリオンである。彼が取りに行き、広げたのは──ノアエデンの地図だ。
「そして絶対条件として、精霊の森に立ち入ることは許されないでしょう」
「うん」
邸の周りはまず草原、草原を越えると大きな森がある。奥に、中心にと進むと、精霊王が眠っていると教えてもらったことのある巨木がある森だ。
「この地すべてが元々は精霊の影響が及ぶ地と言えますが、ノアエデンはその他の地に人間が多くいるのとは違い、二千年前以前から例外を除き彼らだけの空間です。基本的に精霊と、精霊が許す人間以外は立ち入ることが出来ません」
精霊の領域がノアエデンの大部分を占めるが、そこだけは絶対譲られない。
これは、ガルがメリアーズ家の領地で少しだけ溢していた。森は難しい。邸周辺なら望みはあるだろうという風に。
「交渉の余地があるとすれば、森からこちら、邸に近い方です」
森から出た草原の途中から、邸までが示される。
「精霊に強いることは絶対にしませんから、白魔、立入禁止区域は無条件で君に守ってもらいます」
白猫がポケットから出てきてよじよじと机の上を見ようとしているので、セナが足場を作ってあげると、シェーザはじっと地図を見る。
「ノアエデンにいるときはわたしは精霊の森に行っちゃったりするから、その間部屋とかで待っててもらうことになると思うんだけど、いい?」
『構わん。遠いのはごめんだが、精霊の領域ならば仕方ない。精霊ならば傷つける者もいないだろう。それに──どうせ私はお前を二度と見失わない』
そっか、と言いながら、セナは白猫の後頭部を見つめる。
ノアエデン内での行動の制限をこの白魔は受け入れた。行動の最大制限は邸内のみの行動となるだろう。
だけれど改めて考えると、正直、最大の行動制限を設けても、ノアエデンである時点でかなり難しいことだと感じた。
『精霊もまあ難しいよな』
こちらは体が大きいので自力で机の上を覗き込んでいるベアドが、口を開いた。
『聖獣の判断基準と精霊の判断基準は違う。聖獣は天使が無事であればいいが精霊も同じとは限らない。天使の無事は精霊にとってももちろん大事だろうけどな、精霊も精霊で二千年前同胞を多く消されてる。──果たしてそこにいる白魔は天使は殺していないが、精霊は殺めてなかったのか』
聖獣の目が、白猫に擬態した白魔を捉える。
『言い切れんな』
シェーザは考える素振りなく答えた。
彼は、潔白な存在ではない。
二千年前、シェーザは自らの半身と言えた天使を殺され、怒った。犯人たる白魔をどうにかしたとき、彼は人間世界を気にかけていなかったと語った。
二千年前天使が白魔に殺され、天界の楽園を白魔の力が蹂躙すると共に、地上にも力が及んだ。
人間世界の二分の一は滅びかけたと言われており、人間が死に、そして地に根差す精霊が多く失われた。
自らの大切な存在を殺した白魔を葬らんとしたとき、シェーザの力は人間世界に及び、人間や精霊を殺めたかもしれないのだ。
ベアドルゥスは、セナの意思に従うことを選んだ。
しかし、同じように精霊がしてくれるとは考えない方がいい。むしろ考えれば考えるほど考え難い。
『セナ、精霊がノアエデンにどんな事情であれ白魔が立ち入ることを許さなかったら、お前はどうするんだ?』
「森だけじゃなくて、ノアエデン自体にってことだよね」
『そうだ』
「そうなったときは」
精霊がシェーザがノアエデンの地にさえ入ることを許せなかったら。
「わたしも、立ち入らない覚悟はあるよ」
ノアエデンに。
ベアドだけでなく、前からも、下からも視線を感じた。
『精霊じゃなく、そいつを選ぶのか?』
試すような口調だと思った。
「精霊を選んだか、シェーザを選んだかとかじゃない。そういうこと考えてシェーザのことを受け入れることを選んだわけじゃないし。正直、そのときは考えてる余裕はなかった」
セナは頭を振る。
「でも、その選択を今後後悔することはないよ。後悔しないように、あのとき考えられることを考えて考えて選んだんだから。その選択の結果──わたしはシェーザと一蓮托生なんだよ。シェーザは白魔で、その存在をこの世界で側に受け入れるって、そういうことでしょ。教会に隠して、他の人にも隠してって、そういうことだとわたしは思ってる」
召喚士と召喚獣の関係ではなく、ある種それ以上に特殊に濃い関係で、自分はこの白魔と生きていく。
お前が生を全うするまで。そうシェーザが言ったから。一生、この白魔と生きていくのだ。
この白魔の心臓に証が刻まれ、同じ証が自分の手に刻まれ、特別な契約をしたならば、この身は白魔と繋がっている。
白魔シェーザのことは、もはやセナの責任下にある。
同じ理由で、ガルにエベアータ家にいてもいいのかと問いかけた。
エベアータ家から離れることは、ノアエデンから離れることでもある。あのとき、自分は知らず知らずの内に全ての覚悟を決めていたのだろう。
受け入れてくれるだろうかというのは、セナの勝手だ。精霊は受け入れないと考えておいた方がいい。
ノアエデンは精霊の聖域だ。
シェーザと共にいることは難しくない。けれど唯一その地で共にいようとすることは難しい。
『変なところで決断力があるのは何だろうなあ。……まあどっちにしても精霊が会おうと思えばセナに会いに行けるし、泉を通して顔を合わせるとか出来るだろうし、そもそもどこでも行ける俺には関係ないか』
変なところでころっと薄情になる聖獣である。
「精霊がどのような結論を出してもおかしくはありません。白魔自体を単純に受け入れることはないでしょうが、セナを愛するから白魔を受け入れる。それでも欠片も譲歩できない。どちらもあり得えます」
ベアドから視線を前に移動させると、ガルと真正面から目が合う。
「ノアエデンは精霊の土地です。セナにその意識があることと、もしもの考えがあるのは保険になるでしょう。──しかしノアエデンを出ていくというのは、ノアエデン内に家はあるので私の方が聞き捨てならなくなります」
「え、あっ、そうか」
「冗談です。エベアータ家の家は首都にもありますから」
ベアドと同じようなことを言っている気がする……?
ガルは平然とシャリオンに地図を片付けるように言っている……と思ったが、
「家問題は確かに問題ですが、私がそれより言いたいことは別です。覚悟は確かに精神的な準備にもなります」
だが、とガルは言う。
「君の精神はそれ以上強くならなくともいいのですよ、セナ」
「強、くなってないよ」
「十分強いですよ。セナは自分で覚悟をしすぎです」
そんなに思い込む必要はないと言われる。
「怖いですか」
「……そうだね」
精霊に嫌われるかもしれないと思う。
ガルに対して思ったように、精霊に優しさを受け、与えられてばかりきたセナが、精霊の天敵をノアエデンに入れようとしている。
「でも、それなりのことをするためには、相応の目に遭う覚悟が必要だと思う。相応の覚悟を示す必要があると思う」
「セナのそれは、もう性格ですね」
そうかもしれない。
でも、本当に思うのだ。
悪魔の前で退かずに立ち止まるにしろ、何にしろ、リスクのあることをしようと思えば自分には覚悟がいる。
「では精霊と話をしに行きましょうか」
ガルが立ち上がるのでセナもつられて立ち上がりながら、思わず尋ねる。
「お父さん、今出ていっていいの?」
「何かあるのですか?」
「いや、仕事あるんじゃないかと思って……」
「ありますが、元々時間は作るつもりでした。こちらの方が緊急で、大事なことです」
セナは行けますかと聞かれて、頷いた。待ったところで心地は同じだ。
教会本部から、首都の屋敷には馬車で移動することになった。ベアドは大きすぎて乗れないので、中にはセナとガルと、ポケットの中にシェーザである。
こんなときではどうでもいいことだが、馬車に乗るのは初めてだと気がついた。これまで乗ったことがあるのは馬と鳥だ。
ノアエデンに馬車が来ることはあったが、ガルも馬車に乗っているのを見るのは初だ。教会へは鳥で行っているようだったし。
人々が行き交う外は、段々と閑静になっていく。
屋敷がある区域に入った。
やがて、気がつくといつから現れていたのか分からない塀がずっと先まで続いていて、永遠に続くのではないだろうかという感覚を抱き始めたくらいに、大きな門が見えて、馬車はその中に入っていった。
首都のエベアータ家の屋敷に着いた。
ノアエデンと比べると、四方を塀に囲まれた屋敷は『整えられた家』という印象を受ける。ノアエデンの方が周りの環境によって解放感に溢れているせいだろう。
「セナ! もう用事は済んだの?」
中に入り、入った一室では、精霊たちがお茶をしていた。
そう、精霊たち、が。
椅子に座っていたエデが嬉々として机に手をつき、身を乗り出し、ノエルがそんなエデを行儀が悪いと言いたげに手で制し……。
「精霊王……?」
最も美しい精霊がお茶の席にいた。ノエルの横にいる精霊は人間のお茶に手をつけず、静かに瞼を閉じていた。
その光景に、ノアエデンのあの美しい森の中にいる錯覚を抱く。
「今は王が起きていることを思い出して、無断で出てきた状態だったから連絡したんだ。そうしたら」
ノエルが隣の精霊王に視線を流すと、精霊王の声が言葉を引き継いだ。
「俺の判断がいる話をするのではと思ったから」
美しき精霊が目を開き、こちらを見た。
「だから来た」
曇りなき精霊特有の目は、確実に、これから話すことが分かっていた。