4 帰る前に
なぜか、とぼとぼ……という感じで歩くことになったセナは、はたと立ち止まった。
「そういえば、わたしはどこにどうやって帰ればいいんだろ……」
急な長めの休日である。
何はともあれ、とりあえずお休みだから帰ろうと思うのだけれど。
『ノアエデンだろ?』
姿を現したまま、横を歩いていたベアドが当然のごとく答えた。エデが心配してたから、事が片付いたら帰るって約束だろ?と。
そうだ。
セナは、ベルトにつけている彼女の涙を意識した。心配してくれていたあの精霊たちに会いに帰らなければならない。
「そうだね。じゃあ、ノアエデンまで帰る手段を手に入れなくちゃ。えぇっと、確か、お給料もらえるみたいだからそれで帰れるかな」
腰につけている小さなポーチから、救急道具やらを押し退け、一枚紙を引っ張り出した。
いわゆる給料明細らしい紙である。
前世世界での給料明細は前世で給与を得る体験をしたことがなかったためもらったことがないのだが、給料の金額が書かれているこれは疑うべくもなく給料明細なのだろう。
ヴィンセントからもらった。期間限定だったとはいえ、彼が上司だったので彼の手から渡ってきたのだ。
受け取り方は、本部であれば本部の然るべき部署に言って、最初の最初なのでこの紙を渡せば現物がもらえる……。
『なんだよ、もしかして地道に帰るつもりか?』
「? うん」
『そんなことしなくても、俺がノアエデンに一回戻って、ノエルだかエデだかに言ってきてやる。そしたら一瞬で帰れるだろ』
「え、それはそうだけど、えぇ……そんなことしていいのかな」
『いいだろ。だってあいつらの方が会いたがってるだろうし、地道に帰ってどれだけノアエデンにいられる?』
「……確かに」
休みは五日だ。これでも遠征後の休みでは、特別長いと聞いた。白魔という前代未聞の敵が出た現場に派遣されていたから。
地道の手段が馬であると、ノアエデンに行って帰ってできるのだろうか。鳥ならば可能だろうと知っているが、一瞬と比べると当然時間はかかる。
『じゃあ行ってくるから待ってろよ』
「あ、ベアド」
だからって精霊に頼んでいいのか、相談する間もなく、聖獣は消えた。
話の流れではノアエデンに向かったのだろう。
「もうそうしてもらうかぁ」
ベアドが行ってしまったのだし、エデたちに会いたいし。
「ここで待っておくべきなのかな、それとも移動してもいいのかな」
『移動したいのであれば移動すればいいのではないか?』
「移動したらベアドが分からなくなっちゃうかもしれないでしょ」
移動しても、ベアドに移動した場所を伝える術がないのである。
「あ、精霊の涙があるから、エデと一緒なら分かるかも」
メリアーズ家所有地のどこかにいた自分の居場所を見つけたのは、エデであったらしく、彼女の涙をセナが持っていたからだったと聞いた。
しかしながら別にこれから急いでどこかに行かなければいけない用事もない。
考えるなら、給料いつ下ろそうかなくらいで、でもそれも急ぐわけじゃない。
「セナ様」
端にでも寄っておこうかと柱の方に歩いていた足を止め、振り返った。
「シャリオン」
養父の従者がいた。
「お帰りなさいませ。先ほど、砦から着いたとお聞きしました」
「ただいま。わたしに用なの? お父さんから?」
こんな風に呼び止める形で声をかけてきたということは、そういうことだろう。
「はい。セナ様は、まだお仕事中でいらっしゃいますか?」
「ううん、もう終わった」
終わった、という言葉に自分でも分からないくらいに重みを感じた。
「これからお帰りになられるのでしょうか」
「うん、そのつもり」
「では、首都にありますお屋敷の方へお帰りになってください。準備はさせてございます」
「首都の?」
召喚のときに通り道にしたくらいの時間しかいたことのないあの屋敷か。
ノアエデンに帰ろうと思っていたのだけれど。とか思っていたら、シャリオンが続ける。
「ノアエデンへのお帰りは精霊とお話しされなければならないことがあるため、それが終わってからとガル様が仰っています」
「……あ」
そうだ。
「まずい」
「まずい、ですか?」
シャリオンがわずかに首を傾げる。
まずい。その精霊がここに来る。
「シェーザ、ちょっとだけ隠れてて」
『了解』
猫が素直にポケットに引っ込んだ。
間一髪と言えた。
『呼んできたぞー』
「ベアド」
仕事が早い。にゅっと、床から生えたように出てきた聖獣を認識した直後、
「セナっ」
可愛らしい声に、忙しなく、今度は天井を仰ぐことになった。
「エデ!」
天井に穴が開き、幼い少女が一直線に降ってくる。反射的に彼女に向かって手を広げ、受け止める。
ふわりと羽の塊を受け止めた感覚がして、目を開くと、淡い水色の色彩を持つ美しい精霊が腕の中に収まっていた。
遅れて、ノエルが床に華麗に着地する。
「エデ、セナの上に降らない。ぶつかったらどうするんだ」
「ぶつからないもの。セナに抱きつくもの」
「そういう問題じゃない」
べー、と小さな舌をノエルに向かって出すかわいい精霊を腕に、セナはシャリオンを見上げる。
「……ごめん、シャリオン……」
とんでもないことを忘れていた。エデに会いに行こう、ベアドが行ってしまったなら仕方ないではなかった。
「どうして謝ってるの、セナ。わたしが来たの、嬉しくない……?」
「現れた場所が悪かったかな。人がいないことは確認したのだけれど」
「いや、現れた場所はわたしがここにいるせいだし、場所も大丈夫だから、そういうことじゃないんだけど……。エデとノエルは悪いことしてないよ。会いに帰ろうと思ってたから、嬉しくないはずもないし」
パラディン以上の執務室があるであろう域は、人通りが極端に制限されているせいか、少なくとも今は全く人がいない。
全てを否定してから、セナは口ごもる。
「ただ……一つ、帰る前にしないといけないことがあるの思い出して」
「お仕事?」
「それなら待っているか、一日二日とかかるようならまた来る」
それよりエデ下りて、というノエルの促しに渋々エデが床に下りている間に、セナはシャリオンにさっと尋ねる。
「シャリオン、お父さんって今忙しいよね」
絶対。
「執務はございますが、セナ様のお休みに合わせて時間をお作りになるご予定で動いておられましたので」
セナがノアエデンに出来るだけ早く帰ることが出来るように、と。
ただ純粋にそう考えられているだろうことが、温かな心地を抱かせてくる。
『あー、ガルだ』
聖獣が声を上げた。
ガル? どこに?
廊下を前後見ても、誰もいない。
『違う違う、契約を通して俺に声だけ飛ばして来てるんだ』
「お父さん何て?」
何しろこのタイミングである。
『うん、精霊が来たのが分かったみたいだぞ』
何だって?
『心配するなよセナ、俺が話しといてやるから。え? えぇ……? 何のためにだよ』
ベアドが不思議そうにしながらも、ほどなくして、ここにいるセナたちに向かって口を開いた。
『精霊は首都の屋敷に待機、セナは執務室に来てください、だってよ』
「何でよ」
すかさず声を上げたのはエデだ。
『ガルに言えよ。俺は言われたまま伝えただけだぞ』
「聞いてよ!」
絶対に離れるつもりはないと言わんばかりに、セナにぴったりくっつくエデの横で、ノエルがセナを見た。
エデより冷静な精霊は、何かがおかしいと察していると思った。こういうとき、ノエルはエデを宥めるはずだ。
「セナ。セナは、どうしてガルがそんな指示を出すのか分かってるの」
「うん」
「僕たちにはこの場では言えないこと?」
「そう、だね。ただ、後からノエルやエデ──精霊たちに話さなきゃいけないことがある」
「精霊に」
うん。
二人は、白魔が側にいるときっと気がついていない。白魔討伐の前に二人が北の砦に来たとき、エデは白魔の存在を聞いただけで震え、怖がっていた。
聖獣とは違えど、精霊も白魔とは相容れない存在だ。
「それは、セナにとって悪いことじゃない?」
優しいなぁ、と思った。
相変わらず精霊は優しい。
こちらのことを気にする。
「わたしにとって悪いことじゃないよ」
自分で決めたのだから。
ノエルは「それならひとまず安心だ」と言って、「分かった」と頷いた。
「エデ、行くよ」
「どこによ」
「この地にある領主の家だ」
「セナと一緒なら行くわ」
「セナは領主に呼ばれているし、さっき帰る前にすることがあると言っていた」
ノエルの足元に穴が開き、促すようにエデを見ている。
「ごめんね、本当に帰るときに連絡すれば良かった。エデ、待っててくれる?」
「早く連絡してくれるのはいいの! セナに会いたかったもの!」
「ほら、エデ行くよ」
「ちょっと待ってよ。──ねえ、セナっ」
小さな手がセナの服を引き、エデが見上げる。
「セナ、怪我しなかった? 大丈夫? 痛い思いしなかった?」
「──怪我はしちゃったけど、もう大丈夫。どこも痛くない」
元々、大怪我というほどのレベルの怪我はしていなかったから治っている。
「……そう」
「ありがとう、エデ」
ノエルにも「ノエルもありがとう」と言った。
「じゃあ、僕たちは待っている」
エデが近くまで来るのを待って、先にエデを穴に入らせてから、ノエルも穴の上に足を置いた。
「そうだ、セナ」
きょろきょろと、彼には珍しく辺りを見渡してから、ノエルはセナに体の正面を向け、向き合った。
「セナが天使だと聞いた」
澄んだ、精霊特有だと感じる雰囲気が満ちた瞳がセナを映す。
「僕はそのことについて考えてみたけれど、僕にとって、──いや、きっと『僕たち』にとってそれはあまり関係ないことだ。僕たちがセナに感じ、抱く感情は変わらないから」
ノエルが微笑んだ。
「無事な姿が見れて、僕も安堵している」
「じゃあ後で」と言い残し、ノエルはあっさり穴に飛び込んだ。
淡い水色の髪が通り過ぎると、精霊の通り道は綺麗な光と共に消えた。
うん、また後で。
「えーと、わたしは……お父さんのところに行けばいいの?」
『みたいだな』
「案内致します」
シャリオンの後について、廊下を歩き始める。
『わざわざなんで呼び出されたんだ?』
「シェーザのこと、精霊に話さなくちゃ」
『あー』
ベアドが、呼んだかと言うようなタイミングでポケットから顔を出したシェーザに目をやった。
『俺の中では区切りついてたから忘れてた』
そうだと思った。今直接的に言うまで、全く思い当たっていない様子だった。
とは言え、セナも人のことは言えない。
自分を心配してくれていた精霊に会いに帰ろう。そんな頭になっていた。
全てが起こったあの地を離れて、気が抜けていた。まだ終わってはいない。
──全てが以前のような形には収まらない。
パラディンの従者でなくなった。自分という存在を知った。かつて聖獣だと信じていた猫は、同じ姿であれど今は白魔として側にいる。養父と話をし、誤解を知った。
何もかもが、いい意味でも、その他の意味でも変わり、変わろうとしているのだから。