20 真なる契約
手が導かれ、行き着いた先は胸だった。
心臓の真上の部分だ、と思った。
「心、臓……?」
彼の心臓をセナに、とは一体どういうことだ。
意味が分かりかね、セナはシェーザを見上げる。
「私の心臓をお前にやる」
「え」
心臓をやるってそういうこと?
いや、どういうこと。言葉通りに推理すれば、心臓出してくれるとでも言うのか。
グロテスクだなという問題もあるが、心臓を取り出した時点で死ぬのでは? 白魔だから違うの?
とかいう考えが、セナの頭を回る回る。
「心臓は生命の根元であり、力の源でもある。それを止める権限をお前にやる」
「いや、あの、止まってって言ったら止まってくれるくらいのやつでいいんだけど……」
生命の根元を止めるなんていう重い手綱はいらない。気持ち的に重すぎて、絶対もて余す。と言うかこわくて使えない。
しかしながら、シェーザは言う。
「生温い。今さら、私がそのように止まるとでも?」
開き直ってる?
「……でも、それ止めたら一回で死んじゃわない?」
「なぜお前を残して死ななければならない」
「だって、心臓なんでしょ?」
普通に考えて死ぬ。
「彼は、力の源の方のみを止める方法をくれようとしているのではないか?」
尻込みしているセナの横から、そんな声が挟まれた。
ヴィンセントである。
「力の方だけ?」
「ああ。生命の源と力の源の道が異なっていると考えれば話は通る」
どうだ、とヴィンセントが白魔に目を向ける。
シェーザは首肯する。
「そうならそうって言ってよ……。絶対使えないって思った」
一気に脱力した。
ややこしい言い方をしてくれる。
「じゃあ、心臓をくれるっていう言い方も物質的なものじゃなくて、心臓『の機能を止める方法』をくれるってことね」
「いいや」
いいや?
「半分やる。持っていればいい」
「え」
手が、沈んだ。
シェーザの胸に当てられていた手だ。
シェーザの手が少しセナの手を押すと、セナの手は、シェーザの体に沈んだのだ。
「え、ちょっと」
どうなってるのこれ。
驚いて、混乱して、助けを求めるように見たのは当の白魔ではなく、ヴィンセントの方だった。
自分の見ている光景は正しいのか、確かめたかったのかもしれない。
しかしながら、ヴィンセントも驚いたように目を瞠っていて。つまり、彼にも見えている。
「──ストップ!」
このままされるがままでは、何が起こるか。漠然とした予感が湧いた。
「心臓取り出さなくていいから!」
なんていう台詞を言う日が来ようとは。
直前の言葉と、行動を合わせると自ずと予想されたこと。この白魔、心臓を取り出そうとしている。
常識的に考えるとあり得ないが、人ではない存在に常識を当てはめるのは違うとさっき分かったばかりだ。
「我が儘だな」
一旦手を止めた白魔は、やろうとしていたことを否定しなかった。
そればかりか、止まった瞬間に手を引いたセナを嘆息して見ている。
「我が儘……!?」
なんて心外な。
心臓を取り出されようとして動揺しない常人なんていない。そっちこそ、そろそろ白魔の感覚とこちらの感覚が異なると一部だけでも考えてほしい、と思ってきた。
「手を寄越せ」
「心臓取り出さないって約束してくれるなら」
「お前は約束が好きだな」
手を寄越せと、手を差し出している白魔は目を細めた。
「分かった。心臓は取り出さない方法でやろう」
「出来るなら最初からそっちでやってほしかった……」
我が儘だろうか。
でも、心臓に悪すぎるのだ。
誰が心臓に触れたいと思うか。取り出すことに抵抗がない人がいるか。
そんなことを思いながら、再び手を差し出す。穏便に済ませてほしい。
セナの手を取ったシェーザは、親指でセナの指に触れた。指と言うより、正確には……
「お前が止めると言うのなら、この契約書は必要ないだろう」
「え? ああ、うん、そうだね」
とセナが了承した瞬間、パリン、と指に通っていた黒い輪が砕ける。
契約書がなくなった。
そして、シェーザの手に再び導かれ、セナの手は──埋まる。
「シェーザ……!?」
心臓は取り出さないと約束したではないか!
油断していたところでさっきより深くまで埋まってしまい、感じたことのない感触に、驚き、焦る。まさかこれ心臓? 心臓触ってる?
「心臓は取り出さない」
「でもなんか、触ってるんだけど!」
「それが私の心臓だ」
肯定された瞬間、それまでとはうってかわってセナは制止する。
触っているこれが心臓なら、下手なことをして下手な事態を起こしかねないと思ったからだ。
その代わり、取り出すのでなければ一体この状態は何だと見上げる。
「契約だ」
上からは、そんな言葉が降ってきた。
「私の心臓と、お前の手に契約の印をつける」
言葉とほぼ同時、手首にくすぐったさを感じた。
くすぐったさがなくなると、すっと手が引き抜かれる。明らかになった手首には、複雑な模様がついていた。
まるで、聖獣との契約印のような。
「私の心臓と、それは繋がっている。お前が止めたいと思えば止まる」
印を見つめていたセナは、また、シェーザを見上げる。
「白魔との契約だ」
契約。
聖獣と召喚士が交わす契約内容のようではなく、セナがシェーザを止めるためだけのものだが、それゆえに濃い内容でもある。
「偽物じゃない」
「ああ」
かつては、知らずただの模様と化していたものになっていた。
こんな形で、意味を持つ契約がされたと思うと、状況違いにも何だか感慨深くなった。
召喚士と召喚獣の関係ではないが、自分はそのような位置関係でこの白魔を側に生きていく。
「改めて、よろしく、シェーザ」
見上げ、白猫ではない白魔に言うと、シェーザは一度瞬き、こう返す。
「お前がその命をまっとうするまで」
と。
これにて契約と約束は成立した。
今度こそ穴はない。より完全だ。これで反対されても説得はできるだろう。
シェーザの存在を知る三人と、聖獣はどのような判断をするのだろうか。
セナは横を見た。
一連のことを見ていたヴィンセントも、セナを見た。
「白魔を御する術を手にいれてしまうとは、君はやはり俺の想像を超えて逞しい」
セナの手を目で示して、ふっと微笑した。
「ヴィンセントさんのお陰です。話し合うタイミングを作ってくださいました」
それから、臆さずに言いたいことを言うようにと促してくれた。
ありがとうございます、とお礼を言った。
「ああ、間に合って良かった」
それまで堂々としていたヴィンセントが、微かに息をついたように見えた。
「ところで無事か?」
息をついたように見えたのもつかの間で、はっとして、ヴィンセントがセナに問う。
「無事、とは」
「白魔絡みのことではなく、ここに連れて来られて何かされなかったかということだ」
ここに、と言われて、そういえばここは砦ではなかったことを再度自覚した。
どこか分からない場所だ。
「ヴィンセントさん、どうしてここに」
質問には答えず、全く別の質問を投げるということをしてしまうことになった。
「君が砦からいなくなったことで探していた。場所が分かったのは精霊が君が精霊の涙を持っているため突き止められたようで、ここに来るのにも精霊が彼らの道を通してくれた」
「ここってどこなんですか」
「メリアーズ家所領だ」
メリアーズ家の土地。
自らの契約者に『エド』と名を挙げた聖獣の言葉と、見た『自分の』記憶から予想はしていたことが合っていた。
「分かっていたのか」
セナの反応を見てのヴィンセントの言葉だった。
「薄々は。メリアーズ元帥とは会わなかったんですけど、契約獣と思われる聖獣と会いました。……メリアーズ元帥に知られていたみたいですね」
「聖獣の目を通して見ていたようだ。──誘拐以外は何もされなかったと理解していいか」
「ああ、すみません。閉じ込められていた以外は食事も差し入れられたりで、特に何もなかったです」
「その食事は食べたのか」
「いえ、食べる気分ではなかったので食べてません」
「そうか」
今度こそ、ヴィンセントは安堵したように息をついた。
「無事で良かった」
安堵で緩んだように、彼の唇に微笑が乗って、その表情にセナは一瞬どきりとする。
ヴィンセントの微笑みは珍しいものだが、見てこなかったわけではないしさっきも見たばかりなのに、今の微笑みが見てきたものと雰囲気が違った気がした。
「ライナスと合流するか」
「ライナスさんも来てるんですか?」
「ライナスと、エベアータ元帥の聖獣もだ」
ベアドも。
「途中でメリアーズ元帥と遭遇したので、その対処をしてくれている」
こっちだと促されて、歩き始める。シェーザも、セナの側をついてくる。
斜め前を行くヴィンセントがいることに、安心する。
「君がいただろう部屋に行った。あの部屋からは出されたのか? 出たのか?」
「出ました」
「出たのか。出口ではなく、奥に進んでいたのは出口が分からなかったのか?」
あと、彼らは君たちが?とヴィンセントが示すのは、相変わらず倒れている人だ。
「実は、部屋から出してくれたのはメリアーズ元帥と砦に来ていた彼女で、その中に入っている天使が出てきて……」
「天使が?」
「はい。彼女は出口に案内してくれようとして、この人たちを眠らせていったのも彼女だったんですけど……ここでされていることをわたしが聞いたので、『そこ』に案内してくれて、教えてくれました」
ヴィンセントの足が止まった。
「それでセナ、君は」
真剣な目で、ヴィンセントは慎重な口調でセナに聞く。
「知ったのか」
何をとは言われなかった。
でも、セナも言わなかった。
なのに、ヴィンセントは中身を知っていると直感した。
セナが知った、ここで何が試みられているかということ。
「ヴィンセントさん、知ってるんですか」
「ライナスが教えてくれた」
ライナスがと聞いて、セナは表情をよく分からないものにする。
自分がされたこと、自分がいた環境。
シェーザとのことで、頭の中に落とし込む途中だったもののことについて思い出した。
「君は、大丈夫か」
ヴィンセントは、聞いたことがセナ自身のことであると思って気遣ってくれていた。
「全部、教えてもらって、見たんです。全部。わたしが覚えてなかったこと、わたしに何が起こったのか。わたしは何者なのか、わたしは、どこにいたのか」
「君は──」
ヴィンセントが何を言おうとしたのかは分からない。
彼は途中で言葉を途切れさせ、セナをじっと見て、「まず戻ろうか」とそれ以上深掘りするのを止める選択をした。
セナは戸惑った目はしていなかっただろう。
ただ、受け止め切れてはいない。
でも全部知った、全部分かった。きっと大丈夫だ。受け止められる。
その先、どのような判断をするかはまだ分からない。
「ライナスさんたち、対処って仰ってましたけど……」
「問題ない。聖剣士と召喚士がいたが、ライナスとエベアータ元帥の聖獣がいるのでは敵ではない」
「……え、そんな物騒なレベルなんですか」
びっくりして見ると、ヴィンセントはしまったと聞こえそうに手を口にやった。
が、隠すことではないと判断したか。
「ライナスとメリアーズ元帥との思考の齟齬は大きい。ここで行われていたことを聞いて、それをライナスが許せるはずはないと思わないか」
「そう、ですね」
「以前、一度ライナスはメリアーズ元帥が行っていることを知ったときに別の場所を破壊したらしい。そんなライナスと、同じことを続けていたメリアーズ元帥がここで会ったなら衝突は避けられない」
ライナスが白魔討伐の場から帰還した際、自らの父に向けていた殺意に満ちた目を思い出した。
そして、彼が『エルフィア』を呼び、話しかけていた優しい声を思い出した。
彼が、『エルフィア』に何が起きたか知っているなら。
いや、そういえばライナスは、砦で初めて会ったとき、セナを引き留めてきたのではないか。
あのとき人違いだとライナスは去ったけれど。もしも、もしもセナが妹とよく似た容姿で驚いていたのなら。
父親がしていることを知っていたライナスは、今回のセナで、自らの妹とセナの関わりを考えただろうか──?
「メリアーズ元帥の方の対処は難なく終わっているだろう。後はここにいるその他の人間と、証拠隠滅されない内に押さえる必要があるだろうが、そっちはエベアータ元帥がどうにかしてくれそうか…………セナ?」
ライナスに、どう接せばいいだろう。どう接することができるだろう。どう接するのが正解だろう。
主軸とするべきは、自分は何者であるか。今の自分はどの立場として存在するかだ。
そんなことを考えていたセナは名前を呼ばれて、顔を上げた。
いつの間にか足を止めていたらしい。それは怪訝に思う。
ヴィンセントは、セナにどうかしたのか問おうとしたのだと思われる。
それより前に、セナが何でもないと足を前に出す──より前に。
二人の間を淡い光が過った。
「……精霊?」
淡い小さな光の中に、ノアエデンで見慣れていた形を見て、セナは無意識に呟いた。
「あ!」
という声は、セナのものでなければ、ヴィンセントのものではなく、女性の声だった。
それならば当然ライナスでもベアドでもない。
誰かに見つかったか、と緊張が走ってそちらを見たら。
「そのお顔、ノエルとエデの記憶で見たお顔だわ」
セナは、呆気に取られた。
「つまり、見つけたわ。──私の息子の大事な娘!」
それは綺麗な、綺麗な女の人がふわふわ浮いていたのだ。